一般車への格下げ
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1929年(昭和4年)、直線主体のルートに重軌条と重架線を敷設した高規格路線と大出力大型電車で大阪 - 和歌山間をショートカットする阪和電鉄が阪和天王寺 - 東和歌山間61.2kmを全線開業し、これを迎え撃つべく、新たに鋼製の20m級車両である電9系が1929年に20両、1930年に12両と順次新製投入された。この結果、15m級木造車体を備える本形式は一気に陳腐化した為、本形式は電9系の増備に従って順次優等列車運用から退き、格下げ改造を受けてから一般運用に充当される事になった)。 豪華な設備を誇った電付6形は、クイシニ551~553が1930年(昭和5年)に各種設備を撤去の上、電付5形クハ811~813に改造され、唯一温存されたクイシニ554も、1932年(昭和7年)にクハ814に改造され、姿を消した。また電付11形901~905については、1929年(昭和4年)に特別室を撤去してクハニ901~905となり、さらに1933年(昭和8年)には荷物室も撤去してクハ901~905となった。 1935年(昭和10年)、電7形モハ220と電付5形クハ812は佐野駅(のちの泉佐野駅)で火災により全焼し、廃車された。 1936年(昭和11年)には、在来車の車両番号整理の為に一斉改番が行われ、以下の番号に変更された。このとき、クハ901形903~905は改番と同時に電装化され、高野線平坦部分用のモハ1081形モハ1081~1083となった。 電7形 モハ201 - 221(220欠) → モハ1001形 1001 - 1020 電付5形 クハ801 - 814(812欠) → クハ1801形 1801 - 1813 電付11形 クハ901 - 902 → クハ1801形 1814 - 1815 電付11形 クハ903 - 905 → モハ1081形 1081 - 1083 モハ1001形は、旧型の木造車と混用で南海本線の普通列車主体に使用され、モハ1081形は高野線の平坦部分で使用された。1938年(昭和13年)には、モハ1001~1006の主電動機をGE244-Aに交換し、ギヤ比を高野線平坦部での運用に適した比率に変更してモハ1081形1084~1089に編入された。さらに1941年(昭和16年)には、モハ1007が追加改造されてモハ1090となった。 1940年(昭和15年)から1944年(昭和19年)にかけて、ダブルルーフだった屋根がシングルルーフに改造されている。
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一般車への格下げ
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「京阪1900系電車」の記事における「一般車への格下げ」の解説
3000系特急車の就役開始に伴い、1972年から順次格下げ改造工事が行われた。車体中央への客用扉の増設・ロングシート化・テレビ撤去などが実施され、座席のモケットは一般車と同じ緑色に、また車体塗装も一般車と同じグリーンの濃淡2色塗り分けに変更されている。増設された扉は車体中央の側窓2枚を潰して設置した片開き扉が原則であるが、扉間の窓の枚数が元々1枚少ない元両運転台車(1905・1906・1925・1926)については、他車と扉位置をそろえるために車体中央部の側窓3枚をつぶして設置した戸袋窓のない両開き扉となっている。この際に1905と1906の2両は残った運転台も撤去して完全な中間電動車となり、1980形1991・1992へ改番された。また、片運転台車からも1931の運転台が同様に撤去されて2代目1985に変更されている。 なお、編成は当初7両編成での運用も行われていたが、後に新造1900系2両と元1810系3両を組み合わせた5両編成に組み替えられ、前後で前面スタイルが異なるという編成で運用された。格下げ後は普通を中心に運用されたが、架線電圧が1,500Vに昇圧されるまでは1900系は3000系をも上回る乗り心地の良さと走行特性ゆえに、正月をはじめとする多客期の臨時特急に積極的に充当された。
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一般車への格下げ
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「名古屋鉄道トク3号電車」の記事における「一般車への格下げ」の解説
終戦後、名鉄のみならず全ての鉄道事業者においては復員輸送や郊外への買い出し客輸送など輸送需要が急増する一方、戦中の酷使に起因する車両故障多発によって車両稼働率は極めて低下していた。また物資不足によって事業者の自由な車両新造発注には制限が加えられ、車両増備による輸送力改善も望めない状況に陥っていた。そのような状況下、名鉄は国有鉄道からのモハ63形割当車(初代3700系)や運輸省規格型車両(3800系)を順次導入するとともに、貴賓車として温存されていたトク3を一般用車両に格下げして輸送事情改善に供することとした。 トク3は日本車輌製造にてモ600形(初代、デボ600形より改形式)に類似した3扉ロングシート仕様の一般型車両へ改造されて1947年(昭和22年)に竣功、復籍に際してモ680形681の形式および記号番号が付与された。 外観については、両端部の客用扉を両開構造から車体中央方向への片開構造に改めたほか、4枚の広幅窓を撤去して新たに狭幅窓を計8枚配置、便所・洗面所に相当する中央窓部へ片開構造の狭幅客用扉を新設して3扉構造とした。この結果、側面窓配置は 1 D 4 D 4 D 1 と変化した。車内は車内仕切壁・ソファー・便所および洗面所といった貴賓車としての設備を全て撤去し、各客用扉間に定員28人分のロングシートを新設した。 走行機器については、前述の通り台車・主電動機を戦中に他車へ供出したため、ク2270形2271よりブリル27-MCB-1台車を転用し、ウェスティングハウス・エレクトリック (WH) 製の定格出力65 PSの主電動機4基と歯車比3.83 (69:18) にて組み合わせて装着した。また、集電装置はビューゲルに換装された。 この改造施工により、トク3改めモ681は車内細部の造作を除いて全く原形を失った。竣功年月は書類上1948年(昭和23年)1月と記録されているが、現車は1947年(昭和22年)春季には尾西線末端区間(新一宮 - 奥町間)の専用車両として既に就役していたとされる。 モ681は新造以来の直接制御車であったことから、モ350形・モ600形(初代)・モ700形など当時の架線電圧600 V路線区における主力車両であった間接制御車各形式とは総括制御が不可能であり、専ら単行運用に充当された。また前述の通り、モ681は台車中心間隔が高速鉄道用車両としては極端に短いため走行時の動揺が激しく、乗り心地に著しく難があったとされ、1948年(昭和23年)5月の西部線幹線区間の架線電圧1,500 V昇圧に伴う同600 V仕様車の配転によって末端支線区である渥美線へ転属した。転属に際して、集電装置をビューゲルからトロリーポールへ換装し、1950年代初頭にはトロリーポールを名鉄式Yゲルへ再換装している。
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