日本年間最優秀選手賞
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日本年間最優秀選手賞(にほんねんかんさいゆうしゅうせんしゅしょう)は全国のサッカー担当記者の投票により選出されるプロ、学生、男女などを問わず、シーズンを通じて最も活躍したサッカー選手を対象とした賞である。
「フットボーラー・オブ・ザ・イヤー」とも呼ばれる。
1961年の日本蹴球協会(現在の日本サッカー協会)創立40周年を契機に同賞は誕生した。
当初は関東、関西のサッカー担当記者35人によって選出されていたが、1968年のメキシコ五輪の年には114人、2000年には220人の記者が参加する等、参加する記者の人数も近年のサッカーブームや日本代表の活躍もあって増加傾向にあった。しかし2007年は199人と減少している。
1964年に杉山隆一、1966年に釜本邦茂の2人が学生として同賞を受賞している。1977年にはカルバリオが外国籍選手として、2010年には本田圭佑が日本国外クラブ所属選手として、2011年には澤穂希が女性選手として、初めて同賞を受賞している。
東京運動記者クラブのサッカー分科会が日本でのシーズン終了後に発表する。
歴代受賞者
年度 | 受賞者 | 所属クラブ | 国籍 |
---|---|---|---|
1961 | 長沼健 | 古河電工 | ![]() |
1962 | 小沢通宏 | 東洋工業 | ![]() |
1963 | 八重樫茂生 | 古河電工 | ![]() |
1964 | 杉山隆一 | 明治大学 | ![]() |
1965 | 小城得達 | 東洋工業 | ![]() |
1966 | 釜本邦茂 | 早稲田大学 | ![]() |
1967 | 宮本輝紀 | 八幡製鉄 | ![]() |
1968 | 釜本邦茂 | ヤンマー | ![]() |
1969 | 杉山隆一 | 三菱重工 | ![]() |
1970 | 小城得達 | 東洋工業 | ![]() |
1971 | 釜本邦茂 | ヤンマー | ![]() |
1972 | 野村六彦 | 日立製作所 | ![]() |
1973 | 杉山隆一 | 三菱重工 | ![]() |
1974 | 釜本邦茂 | ヤンマー | ![]() |
1975 | 釜本邦茂 | ヤンマー | ![]() |
1976 | 永井良和 | 古河電工 | ![]() |
1977 | カルバリオ | フジタ工業 | ![]() |
1978 | 落合弘 | 三菱重工 | ![]() |
1979 | 今井敬三 | フジタ工業 | ![]() |
1980 | 釜本邦茂 | ヤンマー | ![]() |
1981 | 釜本邦茂 | ヤンマー | ![]() |
1982 | 尾崎加寿夫 | 三菱重工 | ![]() |
1983 | 木村和司 | 日産自動車 | ![]() |
1984 | 木村和司 | 日産自動車 | ![]() |
1985 | 吉田弘 | 古河電工 | ![]() |
1986 | 武田修宏 | 読売クラブ | ![]() |
1987 | 森下申一 | ヤマハ発動機 | ![]() |
1988 | オスカー | 日産自動車 | ![]() |
1989 | 木村和司 | 日産自動車 | ![]() |
1990 | ラモス瑠偉 | 読売クラブ | ![]() |
年度 | 受賞者 | 所属クラブ | 国籍 |
---|---|---|---|
1991 | ラモス瑠偉 | 読売クラブ | ![]() |
1992 | 三浦知良 | ヴェルディ川崎 | ![]() |
1993 | 三浦知良 | ヴェルディ川崎 | ![]() |
1994 | ペレイラ | ヴェルディ川崎 | ![]() |
1995 | ストイコビッチ | 名古屋グランパス | ![]() |
1996 | 川口能活 | 横浜マリノス | ![]() |
1997 | 中田英寿 | ベルマーレ平塚 | ![]() |
1998 | 中山雅史 | ジュビロ磐田 | ![]() |
1999 | 澤登正朗 | 清水エスパルス | ![]() |
2000 | 中村俊輔 | 横浜F・マリノス | ![]() |
2001 | 柳沢敦 | 鹿島アントラーズ | ![]() |
2002 | 藤田俊哉 | ジュビロ磐田 | ![]() |
2003 | 久保竜彦 | 横浜F・マリノス | ![]() |
2004 | 中澤佑二 | 横浜F・マリノス | ![]() |
2005 | アラウージョ | ガンバ大阪 | ![]() |
2006[1] | 田中マルクス闘莉王 | 浦和レッズ | ![]() |
2007[2] | 鈴木啓太 | 浦和レッズ | ![]() |
2008[3] | 遠藤保仁 | ガンバ大阪 | ![]() |
2009[4] | 小笠原満男 | 鹿島アントラーズ | ![]() |
2010[5] | 本田圭佑 | CSKAモスクワ | ![]() |
2011[6] | 澤穂希 | INAC神戸レオネッサ | ![]() |
2012[7] | 佐藤寿人 | サンフレッチェ広島 | ![]() |
2013[8] | 中村俊輔 | 横浜F・マリノス | ![]() |
2014[9] | 遠藤保仁 | ガンバ大阪 | ![]() |
2015[10] | 大久保嘉人 | 川崎フロンターレ | ![]() |
2016[11] | 中村憲剛 | 川崎フロンターレ | ![]() |
2017[12] | 小林悠 | 川崎フロンターレ | ![]() |
2018[13] | 大迫勇也 | ヴェルダー・ブレーメン | ![]() |
2019[14] | 仲川輝人 | 横浜F・マリノス | ![]() |
2020[15] | 三笘薫 | 川崎フロンターレ | ![]() |
2021[16] | レアンドロ・ダミアン | 川崎フロンターレ | ![]() |
2022[17] | 三笘薫 | ブライトン | ![]() |
2023[18] | 大迫勇也 | ヴィッセル神戸 | ![]() |
2024[19] | 武藤嘉紀 | ヴィッセル神戸 | ![]() |
複数回受賞者
選手 | 回数 | 受賞年 |
---|---|---|
釜本邦茂 | 7回 | 1966, 1968, 1971, 1974, 1975, 1980, 1981 |
杉山隆一 | 3回 | 1964, 1969, 1973 |
木村和司 | 1983, 1984, 1989 | |
小城得達 | 2回 | 1965, 1970 |
ラモス瑠偉 | 1990, 1991 | |
三浦知良 | 1992, 1993 | |
中村俊輔 | 2000, 2013 | |
遠藤保仁 | 2008, 2014 | |
三笘薫 | 2020, 2022 | |
大迫勇也 | 2018, 2023 |
参考文献
- 日本蹴球協会編『日本サッカーのあゆみ』講談社、1974年。ASIN B000J9KYYY。NDLJP:12173240。
- 日本サッカー協会『日本サッカー協会75年史』(ベースボール・マガジン社、1996年)
- 日本サッカー協会『最新サッカー百科大事典』(大修館書店、2002年)
脚注
- ^ “鈴木啓太が記者が選ぶ最優秀選手に”. 2017年3月28日閲覧。
- ^ “鈴木啓太が記者が選ぶ最優秀選手に”. 2017年3月28日閲覧。
- ^ “G大阪・遠藤が年間最優秀選手”. 2017年3月28日閲覧。
- ^ “記者が選ぶ2009年MVPは小笠原”. 2017年3月28日閲覧。
- ^ “本田圭 大差で年間最優秀選手に 記者投票で初選出”. 2017年3月28日閲覧。
- ^ “沢“記者が選ぶMVP”獲得 長友ら抑え女子史上初”. 2017年3月28日閲覧。
- ^ “寿人、香川抑えて初の年間最優秀選手に”. 2017年3月28日閲覧。
- ^ “俊輔が記者投票年間MVPに 2位は柿谷”. 2017年3月28日閲覧。
- ^ “記者投票の年間最優秀選手に遠藤 6年ぶり2度目の受賞”. 2017年3月28日閲覧。
- ^ “川崎・大久保、初の「フットボーラー・オブ・ザ・イヤー」”. 2017年3月28日閲覧。
- ^ “憲剛が初の最優秀選手 記者投票で選出、JリーグMVPに続き栄冠”. 2017年3月28日閲覧。
- ^ “川崎F小林悠が17年最優秀選手 全国担当記者投票”. 2018年2月25日閲覧。
- ^ “大迫が年間最優秀選手に!全国のサッカー記者投票で選出”. 2019年2月14日閲覧。
- ^ “横浜M・仲川が年間最優秀選手 全国のサッカー担当記者による選出”. 2021年2月23日閲覧。
- ^ “川崎F・三笘が年間最優秀選手 ルーキーは史上初、記者投票で選出”. 2021年2月23日閲覧。
- ^ “レアンドロ・ダミアンが2021年度フットボーラー・オブ・ザ・イヤー受賞”. 2022年5月21日閲覧。
- ^ “三笘が日本版“バロンドール”受賞 22年度年間最優秀選手”. 2023年3月23日閲覧。
- ^ “【神戸】大迫勇也が記者投票「フットボーラー・オブ・ザ・イヤー」に選出 5年ぶり2度目の受賞”. 2024年5月9日閲覧。
- ^ “神戸FW武藤嘉紀が2024年度の全国サッカー担当記者による「フットボーラー・オブ・ザ・イヤー」を受賞”. 2025年7月30日閲覧。
フットボーラー・オブ・ザ・イヤー
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「澤登正朗」の記事における「フットボーラー・オブ・ザ・イヤー」の解説
1999年シーズンは、日本代表への復帰も果たし、クラブでは清水エスパルスで4季目のキャプテンを務め、中盤の要としてチームを牽引。通算5シーズン目の2桁得点となる公式戦13得点をマークした。99年度の新加入選手には、久保山由清、安永聡太郎のほか、大学・高校の後輩の田坂和昭や、年代別日本代表で一緒に戦った服部浩紀等がいた。 2月27日、横浜マリノスと合併して消滅した横浜フリューゲルスの代替で、スーパーカップに初出場。前年度リーグチャンピオンの鹿島と対戦した。前半24分に鹿島に先制点を許すも、1分後にアレックスのクロスを澤登がヘディングシュートを決め同点。後半は清水が主導権を握ったが、前年まで得点源の一人であったオリバの退団の影響もあってか、後半23分に鹿島の名良橋晃にボレーシュートを決められると、終盤の反撃実らず1-2で惜敗した。 3月6日、ヴェルディ川崎とのリーグ開幕戦では、森岡隆三からのロングフィードを右サイドに抜け出した長谷川健太が中央に折り返し、ペナルティーエリア内でボールを受けた澤登がスルーパスでアレックスのシーズン初ゴールのアシストするなど勝利に貢献した。第3節の京都戦では、リーグ戦初得点をマーク。後半開始早々に退場者を出し10人となったが、後半17分に決勝点となるヘディングシュートを決め1-0で勝利した。1stステージは、14試合出場6得点をマーク。終盤4連勝を記録するも追い上げ及ばず10勝1分4敗の首位と勝ち点4差の3位に終わった。 8月23日、日本代表で共に戦ったラモス瑠偉の引退試合に出場。同月7日に開幕した2ndステージは、スターティングメンバーに、GK真田雅則、DFは斉藤俊秀、森岡隆三、戸田和幸の3バック。ウイングバックの右に市川大祐、左にアレックス。ボランチは伊東輝悦とサントス。FWは久保山由清、安永聡太郎の2トップ。澤登はトップ下で攻撃のタクトを振るった。第2節の磐田戦で初勝利を飾ると、第5節の名古屋戦では、ヘディングシュートで先制点を挙げるも相手DFと交錯し流血。頭に包帯を巻いてプレーを続けたが出血が止まらず前半で負傷交代となった。翌第6節のガンバ大阪戦で先発復帰しフル出場を果たした。第10節のヴェルディ戦では、1999年シーズン3回目となる直接フリーキックの得点をニアサイドに突き刺し2-0で勝利。2ndステージ2度目の4連勝に貢献し、リーグ戦残り5試合を残して2位横浜F・マリノスと勝ち点3差の首位で1ヶ月のリーグ中断期間に入った。中断期間中には、セレッソ大阪にレンタル移籍していた堀池巧が清水に復帰。クラブ初の国際大会となった、第10回アジアカップウイナーズカップ99-00の2回戦(初戦)がホームアンドアウエーで開催され、中国の上海申花に合計2-0で勝利した。リーグ再開後の第11節京都戦では、リーグ戦2試合連続となるゴールを決めて5連勝に貢献。この試合で守備の要である森岡隆三が負傷して今季絶望となり、戸田和幸がCBの中央に入り、西澤淳二が左サイドに入ることになった。その後は苦しい台所事情の中でも僅差の勝利を重ね8連勝を記録。11月23日、横浜国際総合競技場で行われた横浜F・マリノス戦でフル出場し、勝利に貢献。初のステージ優勝を果たした。 12月4日、年間優勝を賭けたホーム・アンド・アウェー(全2試合)のチャンピオンシップの第1戦に出場。1stステージを制したジュビロ磐田との静岡ダービーでの頂上決戦となった。試合は前半30分にシーズン途中に清水から磐田に移籍した安藤正裕のクロスボールを中山雅史に頭で決められ失点。4分後の前半34分に澤登がドリブルでサイドから中央に切れ込んできた久保山由清とスイッチして放った技ありのミドルシュートを決め同点とする。スコアは1-1のまま90分で決着がつかずVゴール方式の延長戦となり、延長前半8分に清水がペナルティーエリア内でハンドを取られPKを献上。リーグ戦では堅守を誇った清水であったが、前夜の発熱で欠場になった戸田和幸と、リーグ戦で右足を骨折した森岡隆三という主力2人を欠き、このPKを沈められ2失点目を喫し第1戦を落とした。 12月11日、優勝するためにはもう負けが許されない状況となったチャンピオンシップ第2戦。0-0で迎えた前半34分に痛恨の失点を喫すると、すぐに追いつきたい清水は1分後の前半35分、アレックス(三都主アレサンドロ)が左サイドをドリブルで駆け上がり、ペナルティーエリアの手前で相手のファウルを受ける。このファウルは清水のFKとなったが、冷静さを欠いたアレックスが相手DFの腹部を蹴る報復行為で一発退場。清水は前半早くも1点ビハインド、1人少ないという危機的状況に陥ってしまう。しかし、その直後の前半37分、澤登が同シーズン4回目となる直接フリーキックの得点をマークする。左45度から放ったボールは弧を描きファーサイドのゴール右隅に吸い込まれ、後に自身のベストゴールと語った25メートル超の直接FK弾を決め同点とした。得点後には1失点目の起点になってしまったチームメイトに声をかけて鼓舞する姿もあった。その間わずか5分程の出来事であったが、磐田に一気に傾きかけていた試合の流れを、右足の一振りで引き戻すと、その後10人の清水が、延長戦をファビーニョのVゴールで制して勝利した。トータル1勝1敗とし、チャンピオンシップ史上初のPK戦となり、澤登は1人目のキッカーを務め成功。両手を組み勝敗の行方を見守ったが、サントスとファビーニョが失敗し、PKスコア2-4で敗れて悲願のリーグ優勝はならなかった。チャンピオンシップを振り返って、2得点をマークしたキャプテンの澤登は、「(PKを)外した選手の責任ではなく、我々の力が足りなかった。それに尽きます。勝ち切るということの難しさが改めて分かりました。アレックスの退場もありましたが、我々は10人でもこれだけ出来るのだということが証明できた。チャンピオンにはなれなかったが、非常に良い試合だった」と話した。同じく2得点をマークした磐田のキャプテン中山雅史は、「エスパルスが一人少ない中でも素晴らしいプレーと闘志を魅せていたので、今日は本当に苦しかった。(要略)僕らがチャンピオンになりましたけど、年間通しての戦いはエスパルスが素晴らしいサッカーを展開していた。勝ち点を見てもエスパルスが一番かなと思います。僕らもまたそれに見合うだけのチームに作り直して来年に臨んていきたい」と試合後のインタビューで健闘を讃えた。清水は年間順位は2位となったものの、年間勝ち点は磐田を大きく突き放す16ポイント差の1位であった。澤登はその功績を称えられJリーグのベストイレブンに初選出されると、翌年の1月には、1999年度の日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)を受賞。Jリーグチャンピオンシップ第1戦で決めた得点がアジアサッカー連盟(AFC)月間最優秀ゴール賞に選ばれた。
※この「フットボーラー・オブ・ザ・イヤー」の解説は、「澤登正朗」の解説の一部です。
「フットボーラー・オブ・ザ・イヤー」を含む「澤登正朗」の記事については、「澤登正朗」の概要を参照ください。
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