古河電工へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 06:48 UTC 版)
中央大学卒業後の1955年、家業が古河電工の製品を東洋工業(現マツダ)や中国電力に納める仕事をしていた縁故もあり、当時関東実業団リーグ2部に転落していた古河電工(現ジェフユナイテッド市原・千葉)へ入団。当時の古河電工サッカー部は、創部10年を経てはいたものの、アイスホッケーの選手も混じる同好会レベルのチーム。本格的なサッカー選手は長沼ら数人だけだった。この頃、社会人スポーツはまだ熱気がなく「スポーツは学生まで」という考えが日本では主流だった。古河は他の企業よりもスポーツに関して理解が深く、「社員の志気を高めるために」と社長が号令をかけて、バレーボール部とサッカー部に力を入れることになり、サッカー部の強化を一任されたのが長沼だった。「スポーツは学生まで」という考えを改めなくてはいけないと、毎年毎年、いい選手を獲ってくれと会社に要請した。社業が第一、毎日5時まで仕事をして練習となるが、自前のグラウンドはなく、ボールは蹴らず、皇居の周りを何周も走るだけ。二重橋前の手入れの行き届いた芝生公園を見ながら「あそこで蹴れたら気持ちがいいだろうな」と思いながら走った。ボールを蹴るのは週末のみ、毎回違う郊外のグラウンドを借りてボールを蹴った。ここでもエースフォワードとして活躍し、すぐに関東実業団リーグ2部優勝、1部昇格に導く。「長沼を中心に何か始めるらしい」と知った平木隆三は1957年、湯浅電池を円満退社して古河電工へ移ったほどであった。長沼は古河電工に入社した1955年に読売新聞社の後援で新設された全国都市対抗サッカー選手権大会に「東京クラブ」のメンバーとして出場して優勝している(翌年も)。 1956年、メルボルンオリンピック日本代表に選ばれたものの下痢を発症し隔離病棟に拘束され、その間にチームは1試合で敗退した。1958年、東京アジア大会日本代表。1959年、28歳の若さで古河電工のプレイングマネージャーとなり同年実業団、都市対抗の2冠に輝いた。 翌1960年、古河電工を実業団チームとして初めて天皇杯を制覇、日本一に導く。それまでの学生サッカーの時代から、社会人サッカーの時代の始まりだった。更に翌1961年は史上初の3冠(全日本(天皇杯)、実業団、都市対抗)を達成しこの年新設された、第1回日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)を受賞した。 親分肌かつ人柄の良さから長沼のまわりには自然と人が集まってきたといわれ、長沼が関学、中大、古河電工と移るとともに日本サッカー界の勢力地図が塗り替えられていき、古河を強豪にしたことによって八重樫茂生、宮本征勝、川淵三郎、木之本興三、清雲栄純、岡田武史らのちの重要人物が古河入りすることになった。彼らは「長沼一家」と呼ばれた。『古河電工サッカー部史』は、「長沼が古河に入社してなかったら、歴史は変わっていただろう」と書いている。 この頃古河のプレイングマネージャーだった長沼は日本代表入りを辞退し続けたといわれ、代表出場試合数は多くはない。1960年に来日したデットマール・クラマーが、長沼の指導者としての能力に目を付け、強引に代表試合に出場させたといわれている(1961年11月28日、対ユーゴスラビア代表)。
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