古河電工時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 00:10 UTC 版)
秋田県鹿角市十和田大湯(旧: 鹿角郡大湯町 → 十和田町)出身。二卵性双生児の妹がいる。小学校5年時に一家で横浜市に転居する。横浜市立東戸塚小学校を経て、横浜市立舞岡中学校でサッカーを始め、相模工業大学附属高等学校(現:湘南工科大学附属高等学校)に進学。同校卒業後の1970年、中学時代の外部コーチだった東邦チタニウムサッカー部監督・三村恪一の口利きで、三村と中央大学で同期だった古河電気工業サッカー部OBで日本サッカー協会の強化責任者だった長沼健に連絡を取り、テストを受け、日本サッカーリーグの古河電気工業サッカー部に入部。1976年に古河がブラジル工場を持っていた縁でブラジル・パルメイラスに2ヶ月間留学して急成長を遂げ、ユース代表を経て日本代表に選出される。同年に代表ではムルデカ大会で7ゴールを挙げて得点王に輝き、天皇杯決勝ではゴールを挙げてヤンマーを破り優勝、JSLでもチーム得点王となる8ゴールを挙げ、二冠に貢献、ベストイレブンに選出された。
※この「古河電工時代」の解説は、「奥寺康彦」の解説の一部です。
「古河電工時代」を含む「奥寺康彦」の記事については、「奥寺康彦」の概要を参照ください。
古河電工時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 03:40 UTC 版)
大学卒業時、岡田はマスコミ業界への就職を志望していたが叶わず、1980年に古河電工に入社。社員として働く傍ら、古河電気工業サッカー部(ジェフユナイテッド千葉の前身)に入団。大学時代と変わらず頭脳派のディフェンダーとして日本リーグで活躍。1985年に9年ぶり2度目のリーグ優勝、1986年に日本のチームとして初となるアジアクラブ選手権優勝に貢献した。JSL1部での通算成績は189試合9得点。 1985年にリーグ優勝した際に監督だった清雲栄純は「当時の選手には珍しく理論を持っていた。身体能力や技術は高くなかったが、予測能力が高くて声で周りを動かせた。そのコーチングが非常に的確で」「声を出す選手というのはおうおうにして自分は逃げ回るタイプが多い。汚れ仕事は人にさせて、おいしいところだけ持っていくような。岡田は最後は自分の身体を張れた」 と岡田を評する。同年の古河が採用していたゾーンのラインディフェンスについても「岡田がいたからやれた守り方だった。戦いの意図を後ろから的確に伝えることができたから」と語る。 1990年1月20日に行われたゼロックス・スーパーサッカーの日本リーグ選抜対バイエルン・ミュンヘンの試合が、キャリアの晩年に差し掛かっていた岡田の転機となった。この試合で日本リーグ選抜は善戦の末1-2で破れる。日本リーグ選抜の主将を務めた 岡田は、海外トップチームとの対戦を通じてその埋めがたい差を身を以て実感して現役引退を決意。自分がバイエルンの選手たちに追い付くのではなく、どう指導すれば彼らに勝てるような選手を育てられるかに関心は移っていった。
※この「古河電工時代」の解説は、「岡田武史」の解説の一部です。
「古河電工時代」を含む「岡田武史」の記事については、「岡田武史」の概要を参照ください。
- 古河電工時代のページへのリンク