三村恪一とは? わかりやすく解説

三村恪一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/27 16:39 UTC 版)

三村 恪一
名前
カタカナ ミムラ カクイチ
ラテン文字 MIMURA Kakuichi
基本情報
国籍 日本
生年月日 (1931-08-16) 1931年8月16日
出身地 東京都
没年月日 (2022-02-19) 2022年2月19日(90歳没)
身長 166cm
体重 58kg
選手情報
ポジション DF
ユース
第八中学校
中央大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1955-???? 東邦チタニウム
代表歴
1955 日本 4 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

三村 恪一(みむら かくいち、1931年8月16日[1] - 2022年2月19日)は日本出身の元サッカー選手サッカー指導者。ポジションはFB

経歴

第二次世界大戦後に都立第八中学校(東京都立小山台高等学校の前身)に編入しサッカーを始める。卒業後は中央大学に進学し、1953年には長沼健と共に日本学生選抜に選出され、ドイツドルトムントで開催された国際大学スポーツ週間(ユニバーシアードの前身)に出場した。

大学卒業後は東邦チタニウムに入社し、同社にサッカー部を設立。選手兼指導者として選手強化や環境作りに奔走した。

日本代表としては、1955年1月の東南アジア遠征で代表デビュー。同月11日のビルマ(体協選抜)戦で国際Aマッチ出場を果たし(後の日本代表データの見直しで2日のビルマ(保険大臣チーム)戦が国際Aマッチと認められたため、現在はこの試合が国際Aマッチデビュー戦)、同年11月のメルボルンオリンピック代表メンバーに選出された。

現役引退後は東邦チタニウムサッカー部の監督として、関東サッカーリーグ優勝4回、1983年に日本サッカーリーグ2部昇格に導いた。その後は日本サッカー協会技術委員、指導委員、海上自衛隊厚木基地マーカスのコーチなどを務めた。

2022年2月19日、死去[2]

所属クラブ

経歴

代表歴

出場大会

試合数

  • 国際Aマッチ 4試合 0得点(1955)


日本代表 国際Aマッチ その他 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点
1955 4 0 3 0 7 0
1956 0 0 3 0 3 0
通算 4 0 6 0 10 0

指導歴

著書

出典

  1. ^ 『日本代表公式記録集2008』 日本サッカー協会、2008年、605頁。
  2. ^ 三村恪一さん死去 元サッカー日本代表 - 東京新聞、2022年2月23日(2022年2月23日閲覧)

外部リンク





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「三村恪一」の関連用語

三村恪一のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



三村恪一のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの三村恪一 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS