小林忠生とは? わかりやすく解説

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小林忠生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/10 23:54 UTC 版)

小林 忠生
名前
カタカナ コバヤシ タダオ
ラテン文字 KOBAYASHI Tadao
基本情報
国籍 日本
生年月日 (1930-07-07) 1930年7月7日(94歳)[1]
出身地 神奈川県
身長 173cm[1]
体重 63㎏[1]
選手情報
ポジション MF
ユース
湘南中学校
1950-1953 慶應義塾大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
慶應BRB
代表歴
1956 日本 3 (0)
監督歴
慶應義塾大学
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

小林 忠生(こばやし ただお、旧姓:早川1930年7月7日 - )は、神奈川県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。父親は日本海軍中将早川幹夫[2]、実兄の早川純生もサッカー選手で、東京大学日本鋼管で活躍した。

経歴

神奈川県立湘南中学校時代の1948年に第3回国民体育大会で準優勝。卒業後は慶應義塾大学経済学部に進学しソッカー部に所属。在学中の1953年には鈴木徳衛と共に日本学生選抜に選出され、1953年国際大学スポーツ週間英語版ユニバーシアードの前身)に出場した。1954年3月に大学を卒業[3]。卒業後は東京海上火災保険に入社した(勤務先でサッカー部活動を行ったかは不明)。

卒業後も慶應BRB(現役、OBで構成された混成チーム)の一員として1954年、1956年の全日本サッカー選手権大会優勝に貢献。また、1956年6月3日のメルボルン五輪予選、対韓国戦で日本代表デビュー[1]。同年11月のメルボルン五輪本大会にも出場した。

引退後は母校の慶應義塾大学で監督を務めた。

所属クラブ

代表歴

出場大会

試合数

  • 国際Aマッチ 3試合 0得点(1956)


日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1956 3 0 3 1 6 1
通算 3 0 3 1 6 1

出場

No. 開催日 開催都市 スタジアム 対戦相手 結果 監督 大会
1. 1956年06月03日 東京都 後楽園競輪場  韓国 ○2-0 竹腰重丸 オリンピック予選
2. 1956年06月10日 東京都 後楽園競輪場  韓国 ●0-2(延長) オリンピック予選
3. 1956年11月27日 メルボルン  オーストラリア ●0-2 オリンピック

脚注

  1. ^ a b c d メルボルンオリンピック予選”. 日本サッカー協会. 2018年5月1日閲覧。
  2. ^ 賀川浩の片言隻句
  3. ^ このバトンを脈々と(慶應・神戸サッカー定期戦)”. 慶應義塾体育会ソッカー部 (2016年8月21日). 2018年5月1日閲覧。[リンク切れ]

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