古河財閥の形成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 08:10 UTC 版)
合名組織に改組後の古河鉱業会社は、日露戦争(1904年(明治37年) - 1905年(明治38年))後の世界的な銅ブームに乗って好調に業績は推移し、足尾銅山での相次ぐ富鉱脈の発見もあり、日露戦争後の恐慌(1907年(明治40年))にもかかわらず着実な歩みを続け、1911年(明治44年)に商法の改正に伴い「古河合名会社」(現・古河機械金属)に改称した。この間、古河潤吉の病没(1905年(明治38年))の後、3代目当主の古河虎之助が社長となった。日露戦争後に発展したのは、山口喜三郎が中心になって進めていた鉱業から工業への事業展開であった。1906年(明治39年)、細尾発電所の竣工により日光電気精銅所(初代所長・山口喜三郎)(現・古河電気工業)において電気精銅を開始し、精銅・伸銅・製線の一貫生産体制が整った。 この頃から古河は、関連事業部門への積極的な投資を始めた。1908年(明治41年)に横浜電線製造(現・古河電気工業)を関連会社化(52%資本参加)し、日本電線(現・三菱電線工業)にも経営参加した。 1914年(大正3年)に勃発した第一次世界大戦は、日本に空前の好況をもたらし、重化学工業の形成・貿易の増大・企業規模の拡大が行なわれた。古河の諸事業もこの大戦ブームを受けて規模を拡大し、それに伴う資金需要の増大に対処するために持株会社を設立し「古河財閥」(コンツェルン)を形成した。その手法は、1917年(大正6年)11月に古河合名会社を「合名会社古河鉱業会社」(現・古河機械金属)に改称し、営業部門を古河商事(のち破綻)として分離・独立させ、他に新しく持株会社として「古河合名会社」(現・古河機械金属)を設立するという「3社分立」によった。
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