山口喜三郎(→東芝)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 13:56 UTC 版)
「古河機械金属」の記事における「山口喜三郎(→東芝)」の解説
古河鉱業(現・古河機械金属)において電気分銅事業の創始以来、銅加工業を中心に工業部門の発展を推進した山口喜三郎は、古河電気工業の設立(古河鉱業から分離された)と共に古河鉱業の常務取締役を辞任し、古河電工の専務取締役としてそれまでの新しい事業展開方針の実現に向けて動き出そうとしていた。しかし、古河商事の大連事件(古河財閥を揺るがした古河商事の事業の失敗=多額の大損失の発生)による古河合名会社(現・古河機械金属)の経営方針の消極化と第一次世界大戦後の恐慌の深刻化は、山口に活躍の場を与えることをしなかった。古河合名会社の内部では、景気後退に伴い山口の積極的経営方針を批判する意見が強まり、1921年に中川末吉(のち古河電工社長、横浜ゴム社長)が専務取締役に就任し、山口はヒラの取締役に降格させられた。この結果、山口は古河を去ることになる。 一方、山口は、既に1918年に東京電気(現・東芝)の取締役に就任していたが、1921年に東京電気の副社長に就任し、引き続いて1927年には東京電気の社長になり、また、1937年には芝浦製作所(現・東芝)の会長にも就任した。更に、東京電気と芝浦製作所の両社が合併して東京芝浦電気(現・東芝)が設立され、同社の初代社長に就任した。この少し前の1935年に、山口は東京電気の社長として富士電機製造(現・富士電機)と通信機器に関する「事業共同経営に関する覚書」を締結し、富士通信機製造(現・富士通)の設立に関わるなど、日本の電機エレクトロニクス産業の中で目覚ましい活躍をしている。
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