コンビ略歴・芸風
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「二葉由紀子・羽田たか志」の記事における「コンビ略歴・芸風」の解説
たか志が由紀子の一座に入り、のちに夫婦となり、1968年12月にコンビを結成。やがて、人生幸朗の紹介で吉本の劇場に上がるようになる。 結成当初は歌謡を題材にした音曲漫才をやっていたが、のちにしゃべくりの比率を高めた。
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コンビ略歴・芸風
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「志摩八郎・辰巳柳子」の記事における「コンビ略歴・芸風」の解説
戦前から地方を回って活動していたが、わらわし隊に憧れ、大阪で本格的に漫才の道に進んだ。 八郎は洋装でバイオリンを手に持ち、柳子も時折ギターを持った。演歌師ばりのノンキ節を唸るなどの音曲漫才を披露していた。 秋田Aスケ・Bスケ、夢路いとし・喜味こいしらとともに「青春ブラザーズ」という音楽ショウの一員でもあった。
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コンビ略歴・芸風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 05:14 UTC 版)
花子から大助を誘い、1976年初頭頃にコンビを結成(吉本専属となった1979年11月を公式の結成年月としている)。双方の師匠の了解を取り付け、「宮川」と屋号が決まり花子の芸名はチャンバラトリオから取って「トリ子」とするのが決まりかけたものの、花子は鶏肉が皮の毛穴に恐怖を覚えるほど大の苦手だったため「そんな名を付けないとアカンのなら、漫才やめます」と、猛抗議の末に変更された経緯がある。 結成当初は大助がよく喋り、花子がそれに相槌を打つスタイルであった。また大助が花子を投げるなどする「どつき漫才」も演じていたが、生傷が絶えなかったので周囲の勧めで花子の方がよく喋り、それに対して大助が鈍重に振る舞い押されていくというスタイルに変更して高評価を取った。演芸作家の竹本浩三は花子の饒舌を「初代ミス・ワカナの再来」と評した。その後、上方漫才の賞をいくつも獲得(後述)、地位を確立した。 漫才では花子がかかあ天下的にしゃべくりの主導権を握っているが、実際は大助がネタ・演出を全て考えている。実生活では封建的なまでの亭主関白という訳ではなく、夫婦仲は良い。 漫才冒頭での自己紹介の際に、花子が大助のことを容姿のよい男性の名前で紹介することがある。 1988年に花子が胃癌(大助は花子自身にはポリープと伝え、長らく伏せていた)のため体調を崩し、コンビ活動を一時休止した。花子は5年間入退院を繰り返し、絶望して荒れるなどして、夫婦としての実生活の危機におちいったが、病気の克服とともに関係を修復。のちにこれらの体験をつづった著書『愛をみつけた 大助・花子のおやオヤ日記』を出版。同書はNHK総合テレビ『ドラマ新銀河』枠内にて『愛をみつけた』の題でドラマ化された。 花子復帰以降は花子が大助を一方的になじるような漫才のスタイルから変化し、花子が大助の人柄を観客に自慢するようなオノロケを見せるようになった。 2007年2月5日に大助が軽度の脳出血により入院し、同年5月24日まで加療のため休業した。大助の療養中は花子が1人で舞台に立った。大助が倒れた当初の花子は心中を覚悟し、長女に「棺おけを2つ用意してほしい」と頼んだとのちに告白している。これ以降は大助の体調を考慮して以前よりも舞台の回数を減らしているほか、花子が1人で舞台に立つ機会もある。
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コンビ略歴・芸風
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「佐賀家喜昇・旭芳子」の記事における「コンビ略歴・芸風」の解説
芳子が三味線を持って椅子に腰掛け、喜昇が立ってしゃべる、というスタイルの漫才だった。芳子の演奏に合わせて喜昇が新磯節や八木節といった民謡を唄ったほか、以下のような喜昇のものまね芸が知られた。 「蝿取り」 - 頬かむりをし、蝿が蝿取り紙に捉えられるまでを演じる形態模写。 乞食漫才 - 喜昇が乞食に扮して舞台に現れ、芳子の歌う流行歌「満州娘」の替え歌で「御嫁に行きます天王寺。喜イやん待ってて頂戴ね」に合わせて細身で小柄の喜昇が珍妙な踊りを演じ、あわせて、芳子が「投げ銭、おくんなはれ」と言う。すると、客席の客から、おひねりが投げ込まれる。一節終わり客から喝采を浴びると調子に乗り延長するので席亭を困らせたという。最長1時間20分演じたこともあるという。漫才作家の秋田實は「本物の乞食よりもっと真に迫っていて、ひと頃はキーやんの『乞食』には全漫才が掛かってもかなわなかった。それほどキーやんの『乞食』は面白かった」と回想している。 エテ公(猿)の物真似 - 「唯一の芸で至芸である[要出典]」とされた。 このほか、客席から「おい!! キー公!! おもんないねん。帰れ!!」等の野次が飛んでくると欠かさず喜昇は「誰がキー公やアホんだら!!」と絶妙な間で言い返し、笑いを生む客いじりをよくしていた。 これらの芸は「おとろしや漫才」の異名をとった一方、下品とされ、角座のような大きい劇場やラジオ・テレビで披露される事はなかった。また、放送に乗せられなかったのは、喜昇は自分の芸に時間の規制を設けられるのを嫌っていたからともされる。 1935年(昭和10年)頃、NHKの脚本家だった長沖一は、売れっ子漫才師となっていた横山エンタツに、「ほんまもんの漫才、見せたげまっさ(略)わたしら、この漫才には勝てまへん」と誘われ、「乞食漫才」の喜昇・芳子の出ている小屋へ通った。また、芸人や芸能関係者、東京から来た大衆芸能好きな見巧者、京都大学の教授といった人々が喜昇・芳子に親しんだという。 晩年、喜昇は、桂米朝司会のテレビ番組『和朗亭』(朝日放送)に招かれ、出演したことがある。なお、1971年放送のNHKの「新日本紀行 浪華芸人横丁」において、初めてテレビ出演した時の取材の模様が残されている。
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コンビ略歴・芸風
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「若井ぼん・はやと」の記事における「コンビ略歴・芸風」の解説
ぼんとはやとは高校の同級生だった。ぼんがはやとを誘い、「阿部・中川」としてラジオ番組『漫才教室』の常連となった。2年生のとき、はやとが高校に学費を払えなくなったことをきっかけに、2人で高校中退。漫才作家の足立克己の紹介で松竹芸能入りし、同事務所の若井はんじ・けんじに弟子入り。1962年、新世界の新花月にてデビュー。 コンビ名候補に「茶チル・プリン」もあったという。 主に角座など、松竹芸能の劇場で活躍し、キャリアを積んでいくも、ホームグラウンドだった角座閉鎖(1984年)により活躍の場が失われ、1985年に解散。 ぼんの「しっつれいしました」などのギャグや、出っ歯を売りにしたハーモニカの芸が人気を博した。
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