コンビ略歴・芸風とは? わかりやすく解説

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コンビ略歴・芸風

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/26 04:19 UTC 版)

二葉由紀子・羽田たか志」の記事における「コンビ略歴・芸風」の解説

たか志が由紀子一座入り、のちに夫婦となり、1968年12月コンビ結成。やがて、人生幸朗紹介吉本劇場上がるうになる結成当初歌謡題材にした音曲漫才をやっていたが、のちにしゃべくり比率高めた

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コンビ略歴・芸風

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/15 04:58 UTC 版)

志摩八郎・辰巳柳子」の記事における「コンビ略歴・芸風」の解説

戦前から地方回って活動していたが、わらわし隊憧れ大阪本格的に漫才の道に進んだ八郎洋装バイオリンを手に持ち子も時折ギター持った演歌師ばりのノンキ節を唸るなどの音曲漫才披露していた。 秋田Aスケ・Bスケ夢路いとし・喜味こいしとともに青春ブラザーズ」という音楽ショウ一員でもあった。

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コンビ略歴・芸風

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 05:14 UTC 版)

宮川大助・花子」の記事における「コンビ略歴・芸風」の解説

花子から大助誘い1976年初頭頃にコンビ結成吉本専属となった1979年11月を公式の結成年月としている)。双方師匠了解取り付け、「宮川」と屋号決まり花子芸名チャンバラトリオから取ってトリ子」とするのが決まりけたものの、花子鶏肉が皮の毛穴恐怖覚えるほど大の苦手だったため「そんな名を付けないアカンのなら、漫才やめます」と、猛抗議の末に変更され経緯がある。 結成当初大助がよく喋り花子がそれに相槌を打つスタイルであった。また大助花子投げるなどする「どつき漫才」も演じていたが、生傷絶えなかったので周囲勧め花子の方がよく喋り、それに対して大助鈍重に振る舞い押されていくというスタイル変更して高評価取った演芸作家竹本浩三は花子饒舌を「初代ミス・ワカナ再来」と評したその後上方漫才の賞をいくつも獲得後述)、地位確立した漫才では花子かかあ天下的にしゃべくり主導権握っているが、実際大助ネタ演出全て考えている。実生活では封建的なまでの亭主関白という訳ではなく、夫婦仲良い漫才冒頭での自己紹介の際に、花子大助のことを容姿のよい男性の名前で紹介することがある1988年花子胃癌大助花子自身にはポリープ伝え長らく伏せていた)のため体調崩しコンビ活動一時休止した花子5年入退院を繰り返し絶望して荒れるなどして、夫婦としての実生活危機おちいったが、病気克服とともに関係を修復。のちにこれらの体験つづった著書愛をみつけた 大助花子のおやオヤ日記』を出版同書NHK総合テレビドラマ新銀河枠内にて『愛をみつけた』の題でドラマ化された。 花子復帰以降花子大助一方的になじるような漫才のスタイルから変化し花子大助人柄観客自慢するようなオノロケを見せようになった2007年2月5日大助軽度脳出血により入院し同年5月24日まで加療のため休業した大助療養中花子1人舞台立った大助倒れた当初花子心中覚悟し長女に「棺おけ2つ用意してほしい」と頼んだとのちに告白している。これ以降大助体調考慮して以前よりも舞台回数減らしているほか、花子1人舞台に立つ機会もある。

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コンビ略歴・芸風

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 07:53 UTC 版)

佐賀家喜昇・旭芳子」の記事における「コンビ略歴・芸風」の解説

芳子三味線持って椅子腰掛け、喜昇が立ってしゃべる、というスタイル漫才だった。芳子演奏合わせて喜昇が新磯節八木節といった民謡唄ったほか、以下のような喜昇のものまね芸知られた。 「蝿取り」 - 頬かむりをし、蝿取り紙捉えられるまでを演じ形態模写乞食漫才 - 喜昇が乞食扮して舞台現れ芳子の歌う流行歌満州娘」の替え歌で「御嫁に行きます天王寺。喜イやん待って頂戴ね」に合わせて細身小柄の喜昇が珍妙な踊り演じあわせて芳子が「投げ銭おくんなはれと言う。すると、客席の客から、おひねり投げ込まれる。一節終わり客から喝采浴びると調子に乗り延長するので席亭を困らせたという。最長1時間20演じたこともあるという。漫才作家秋田實は「本物乞食よりもっと真に迫っていて、ひと頃はキーやんの『乞食』には全漫才掛かってもかなわなかった。それほどキーやんの『乞食』は面白かった」と回想している。 エテ公)の物真似 - 「唯一の芸で至芸である[要出典]」とされた。 このほか、客席から「おい!! キー!! おもんないねん帰れ!!」等の野次飛んでくると欠かさず喜昇は「誰がキー公やアホんだら!!」と絶妙な間で言い返し笑い生む客いじりよくしていた。 これらの芸は「おとろし漫才」の異名をとった一方、下品とされ、角座のような大き劇場ラジオ・テレビ披露される事はなかった。また、放送乗せられなかったのは、喜昇は自分の芸に時間規制設けられるのを嫌っていたからともされる1935年昭和10年)頃、NHK脚本家だった長沖一は、売れっ子漫才師となっていた横山エンタツに、「ほんまもん漫才見せたげまっさ(略)わたしら、この漫才には勝てまへん」と誘われ、「乞食漫才」の喜昇・芳子出ている小屋通ったまた、芸人芸能関係者、東京から来た大衆芸能好きな見巧者京都大学教授といった人々が喜昇・芳子親しんだという。 晩年、喜昇は、桂米朝司会テレビ番組和朗亭』(朝日放送)に招かれ出演したことがある。なお、1971年放送NHKの「新日本紀行 浪華芸人横丁」において、初めテレビ出演した時の取材模様残されている。

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コンビ略歴・芸風

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/06 21:10 UTC 版)

若井ぼん・はやと」の記事における「コンビ略歴・芸風」の解説

ぼんとはやとは高校の同級生だった。ぼんがはやとを誘い、「阿部中川」としてラジオ番組漫才教室』の常連となった2年生のとき、はやとが高校学費払えなくなったことをきっかけに、2人高校中退漫才作家足立克己紹介松竹芸能入りし、同事務所の若井はんじ・けんじ弟子入り1962年新世界新花月にてデビューコンビ名候補に「チル・プリン」もあったという。 主に角座など、松竹芸能劇場活躍しキャリア積んでいくも、ホームグラウンドだった角座閉鎖1984年)により活躍の場失われ1985年解散。 ぼんの「しっつれいしました」などのギャグや、出っ歯売りにしたハーモニカの芸が人気博した

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