略歴・業績
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明治21年(1888年)5月25日、秋田県仙北郡金沢村米ノ口生まれ。旧制横手中学校(現秋田県立横手高等学校)を卒業後、京都の佛教大学攻究院に進んでここを修了した。その後、金沢町米ノ口の正流山圓徳寺(浄土真宗本願寺派)の15世住職となった。 大正15年(1926年)9月、高野山大学教授となり、のち龍谷大学教授、西山専門学校教授などを務め、昭和10年(1935年)西本願寺司教となった。大学ではサンスクリット語・チベット語による文献研究にもとづいて原始仏教を教授した。昭和16年(1941年)、朝鮮開教区に特別講師として招かれ、翌昭和17年(1942年)には中国大同市の雲崗石窟(大同大仏)と玄忠寺(中国山西省)法要参列のためシナ大陸に渡った。 昭和26年(1951年)、「仏説観無量寿経」の研究論文で文学博士号を得た。「学問の鬼」と称されたが、「観無量寿経」否仏説を唱えたため学閥によって不当な扱いを受けることもあった。昭和30年(1955年)には種智院大学の教授となった。翌昭和31年(1956年)には龍谷大学名誉教授となっている。 チベット仏教・西域仏教の権威者として知られた。昭和42年(1967年)には宗門功労者として表彰された。昭和44年(1969年)8月25日死去。81歳。
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略歴・業績
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1886年、大阪府西成郡清堀村(現:大阪市天王寺区)生まれ。本名・直二。京都帝国大学文学部史学科国史学専攻1期生で、内田銀蔵・三浦周行・原勝郎・内藤湖南らに学び、1910年に卒業。同年、同学大学院に入学し日本文化史を専攻。1915年母校講師、1919年助教授、1924年教授。 戦後は公職追放令(教職員追放令)で1946年に退官。1951年に追放解除となった。公職追放解除後、1952年に京都大学名誉教授となり、京都女子大学教授・滋賀大学教授を歴任。
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略歴・業績
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マサチューセッツ州の医師セス・ケプロンの四男として、同年ニューヨーク州に移り、オナイダ郡ホワイツボロで育つ。 1825年、21歳の時にワルデンに移住。父及び長兄(ニュートン・マン)が経営する綿布製造業に従事した。経験を積んだ後、各地の工場で監督を務めた。 1829年、25歳でメリーランド州ワーレンの織物工場の監督、次いでサヴェジの紡績工場監督。 1833年、ボルチモア・ワシントン鉄道敷設の際、アイルランド労働者が暴動を起こしたが、ケプロンが民軍を組織して鎮圧に当たった。 南北戦争に北軍義勇兵として従軍後、アメリカ合衆国政府で農務局長となった。1871年(明治3 - 4年)、渡米していた黒田清隆に懇願され、職を辞し、同年7月訪日。開拓使御雇教師頭取兼開拓顧問となる。1875年(明治8年)5月帰国。 日本では積極的に北海道の視察を行い、多くの事業を推進した。札幌農学校開学までのお膳立てをしたのもケプロンである。また、1872年(明治4 - 5年)、開拓使東京事務所で、ケプロン用の食事にライスカレー(当時の表記はタイスカリイ)が提供されていることが分かっており、これはライスカレーという単語が使われた最初期の例である。 ケプロンの仕事は多岐にわたり、北海道の道路建設、鉱業、工業、農業、水産業など、開拓のほぼ全領域に渡っている。特に著名で重要なものを次に記載する。 北海道は寒く、イネが育たないため、麦をつくることを奨励。北海道ではパン食を推進すべきだと主張した。ケプロンが麦作を奨励したことは、後に開拓使麦酒醸造所(後のサッポロビール)が設立される遠因になった。他にジャガイモ・タマネギ・テンサイ・ホップ・トウモロコシ・リンゴの生産も奨励した。 単に魚をとるだけでなく、塩漬けなどに加工すれば重要な輸出品になると進言。ケプロンの進言に従い、1877年(明治10年)10月10日(ケプロン離日後)、日本初の缶詰量産工場である石狩缶詰所が作られた。この日(10月10日)は、日本では缶詰の日になっている。開拓使はこれ以外にも道内沿岸部に次々とサケ缶詰製造工場を建設した。 ケプロンの進言に従い、札幌 - 室蘭間、森 - 函館間までの馬車道が整備された(室蘭 - 森間は航路)。この道は札幌本道と呼ばれ、現在の国道36号と国道5号の基礎となっている。ケプロンは、可能ならば札幌 - 室蘭間に鉄道も敷くべきだと進言したが、ケプロンの在日期間中には敷設されなかった。 1885年(明治18年)2月21日、ワシントン記念塔の建設祝賀会式典に出席し、帰宅後に気分の不調を訴え、そのまま翌22日に80年の生涯を閉じた。その遺骸は、ワシントンのオークヒルに葬られている。 大通公園に黒田清隆像と並んで銅像が建っている。 日本の生人形の収集家でもあった。
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略歴・業績
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長期政権であったため、業績や逸話は数多い。 1950年 札幌市経済部長この年、第1回さっぽろ雪まつり開催。「当時の札幌は、まだ敗戦のショックが色濃く残っており、食料や燃料の不足な時だった。市全体の暗いムードを吹き飛ばし、少しでも明るい感じにもっていくためにはどうしたら良いか。それが市政の課題とも言える時代だった。そんなころ、映画館で見たニュースに、小樽あたりの子供が校庭の雪を固めて、ナタやノコギリで刻んで小雪像を作っているものがあった。私が学んだ札幌一中の雪戦会と雪像を結びつけたらどうだろうか」(下記「札幌市文化資料室」より抜粋)。 1956年 札幌市助役(1970年まで) 1971年 札幌市長に初当選 1971年 札幌市営地下鉄開通(ゴムタイヤ方式地下鉄の導入) 1972年 第11回オリンピック冬季札幌大会開催 1972年 政令指定都市移行・区制施行 1976年7月24日 「札幌市こども人形劇場こぐま座」(全国初の公立人形劇場)オープンミュンヘン(札幌市の姉妹都市)にある市立人形劇場や小屋がけの人形芝居を見て、札幌にも夢のある施設を造ろうと発案し、「こぐま座」を完成させる(下記「ウェブシティさっぽろ・歴史の散歩道・中央区版」より)。 1982年 北方都市会議を提唱 1984年 札幌市交通事業振興公社設立 1987年 田村正敏に圧勝し5連続当選 1990年 第1回パシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF、レナード・バーンスタイン提唱の若手音楽家研修会・発表会)開催 1991年 第15回ユニバーシアード冬季札幌大会開催 1991年 市長を退任 1992年11月 著書「思い出すまま」刊行 2002年「随筆と私」(「札幌随筆集」(さっぽろ文庫)収録)
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略歴・業績
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東京市(現中野区東中野)の出身。父は政治家の三輪寿壮、兄は建築家の三輪正弘。1951年東京大学医学部を卒業。1958年同大学にて医学博士。1952年東京大学冲中重雄内科に入局。カリフォルニア大学に学び、血液中のピルビン酸キナーゼの欠乏による溶血性貧血患者を世界で初めて発見。虎ノ門病院血液学科部長、山口大学教授、東京大学医科学研究所教授、1987年に定年退官、同大学名誉教授になる。冲中記念成人病研究所所長・理事長に就く。 息子に教育学者の三輪建二がいる。
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略歴・業績
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「ヴェルナー・イェーガー」の記事における「略歴・業績」の解説
イェーガーはプロイセン王国ライン県のロベリッヒ(ドイツ語版)に生まれた。ロベリッヒの学校とケンペンにあるギムナジウム・トマエウムに通い、マールブルク大学とベルリン大学で学んだ。1911年、アリストテレスの『形而上学』に関する学位論文をもってベルリン大学から博士号を取得。ハビリタチオン論文はエメサのネメシオスに関するものだった(1914年)。若干26歳にしてスイスのバーゼル大学から招聘され、教授として講座をもつことになった。就任から1年後、キール大学の同様のポストに移動し、1921年に母校のベルリン大学に戻った。イェーガーは1936年までベルリンに留まったが、国家社会主義(ナチズム)が勢力を増してきたことに危機感を覚え、同年アメリカ合衆国に移民した。 イェーガーは『Humanistische Reden und Vortraege』(1937年)と『Demosthenes』(1938年)にて、オブラートに包んだ形で抗議の意を示した。なお、後者はカリフォルニア大学バークレー校で1934年に行われたサザー講義に基いている。イェーガーが込めたメッセージはドイツ本国の大学関係者たちには完全に理解され、ナチス・ドイツの熱烈な支持者は激しくイェーガーを攻撃した。 アメリカ移住後のイェーガーは、1936年から39年までシカゴ大学の専任教授を務め、その間の1936年から37年はスコットランドのセント・アンドルーズ大学でギフォード講義を行った。その後にハーバード大学に移籍し、第一次世界大戦の前に開始していた教父ニュッサのグレゴリオスについての研究を続けた。イェーガーはその後生涯をマサチューセッツ州ケンブリッジで過ごした。カナダの哲学者ジェームズ・ダウル(James Doull)はハーバードでの教え子の一人である。 イェーガーはアリストテレスの『形而上学』についての学位論文を二部、一つはラテン語で、もう一つはドイツ語で執筆した。イェーガー版の『形而上学』は1957年に出版された。ニュッサのグレゴリオスによる『Contra Eunomium』(1921年、1960年)を編集してからわずか2年後、1923年にイェーガーはアリストテレスについての画期的研究を上梓し、その名を広く知られるようになった。その評価は1960年代に至るまで疑い得ないものであった。イェーガーは学術誌を2冊創刊した。すなわち、『Die Antike』と、影響力をもった書評誌『Gnomon』(1925年~)である。イェーガーは教父ニュッサのグレゴリオスの全集『Gregorii Nysseni Opera』の編集者で、主著『Contra Eunomium』(1921年、1960年)の編集も行った。この版は偉大な学術的業績であり、聖書学の一つカッパドキア三教父に関する研究の文献学的基礎となっている。 イェーガーは数冊からなる著作『Paideia: The Ideals of Greek Culture』の著者として最もよく知られている。同著は古代ギリシャにおける最初期の教育実践と、その文化的本性に関する後世の哲学的反省を考察したものである。この著作によって、イェーガーは20世紀初頭に見られたヨーロッパにおける退廃的状況を改め、ヘレニズム文化に起源をもつ諸価値を回復しようとしたのである。イェーガーの最終講義『Early Christianity and Greek Paideia』(1961年、邦訳1964年)は、彼の生涯に渡る業績をまとめた非常に印象的な作品である。その扱う範囲は幅広く、ほぼ1,000年の歴史をもつギリシャ文献学、ホメロス、ソクラテス以前の哲学者たち、プラトン、そして幾人かの教父たちの哲学・神学にまで至る。ヴェルナー・イェーガーの論文は、ホートン図書館(ハーバード大学)に所蔵されている。
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略歴・業績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/18 22:28 UTC 版)
フリーライターを経て、1974年~1992年、東京都日野市市役所職員。秘書課、企画課、社会福祉課、市民会館などに勤務、この間、市の基本構想策定、市民意識調査、社会福祉政策、文化政策などの立案・実施に直接携わる。また、市民として、文化運動、障がい者・難病患者運動に参加、政府の難病政策の転換(施設→在宅)に寄与した。この間に、市民・自治体職員・研究者で構成する全国組織・自治体問題研究所の一員となり、地方自治・各分野の地域運動などに関わる運動・政策論などの執筆活動を開始。1992年、日野市役所を退き、自治体問題研究所の常勤役員となり、同研究所事務局長、常務理事、月刊「住民と自治」編集長などを歴任(~2001年)。 地方自治原論、地方自治体の制度論、社会福祉・医療・教育をはじめとする政策論、自治体労働組合運動論、地域・住民運動論などにわたる積極的な主張を展開し、日本の地方自治、特に市町村(基礎自治体)がはらむ問題点を明らかにしてその打開を目指す研究活動を行っている。 いわゆる「平成の大合併」にあたっては、地方自治の本来の目的を破壊する政策であるという立場から、テレビ・新聞等において「市町村合併反対」の論陣を張り、全国各地の自治体等に招かれ、その主張を繰り広げてきた。また、同時期に、千葉大学(教育学部・社会教育概論)、自治医科大学(看護学部・地域ボランティア論)、法政大学(社会学部・自治体政策法務)その他で講師に招かれている。
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略歴・業績
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仙台藩の儒学者大槻磐渓の次男として江戸に生まれる。『言海』の執筆で著名な大槻文彦の兄にあたる。 家学をうけて林家で漢学を学び、仙台藩の藩校養賢堂では国学も学んだ。1871年(明治4年)海軍兵学寮の教官となり、文部省に勤務して仙台藩から文部省に引き継がれた『新撰字書』編集事業にたずさわる。1874年(明治7年)、文部省を退官したのちは在野の学者として著述に専心した。1875年(明治8年)には家督を弟の文彦に譲っているが、これは自由奔放な生き方の自分よりも、弟に家を任せた方が適切だと考えたことによる。 和漢洋の学や文芸に通じ、『東西年表』や『洋学年表』、『駅路通』などの著作があり、父大槻磐渓の著作『近古史談』の改訂をおこなっている(刪修標注および刊行は弟の大槻文彦)。また、祖父大槻玄沢と親交のあった工藤平助の小伝も著している。 如電は多方面に才能を発する知識人であったが、特に舞踊や雅楽、また平曲から俗曲にいたる日本の伝統音楽には精通しており、『俗曲の由来』や日本の雅楽研究の嚆矢となる『舞楽図説』を発表している。また、博識とともにその奇行で知られた。1931年(昭和6年)、腎炎のため87歳で没した。子に大槻義雄、大槻正二、大槻清三。二男の茂雄は如電の弟・文彦の養子となった。
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略歴・業績
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1952年、東京大学理学部地学科を卒業後、工業技術院地質調査所(産業技術総合研究所、地質調査総合センターの前身)鉱床部に入所。日本のタングステン鉱床などの研究をした後、1962~1965年カナダ国地質調査所、1965~1969年同アルバータ大学にポストドクトラルフェローなどとして留学。以降は留学により取得した同位体分析技術を駆使し,硫黄・鉛の同位体を用いた地球化学的な研究に力をそそぎ、各種鉱床の金属や硫黄の起源を論ずるなど、多くの成果を上げた。特に、同じ調査所の所員であった石原舜三と共同で、花崗岩のタイプにより、含まれる硫黄の同位体比に明瞭な違いがあることを見出し、花崗岩の成因論に大きな影響を与えた。 1962年 東京大学より 理学博士の学位を取得。論文表題は 「鉄マンガン重石系の研究」。 また、これらの研究の過程で、岐阜県神岡鉱山より、鉄・モリブデンの酸化物である新鉱物神岡鉱、Kamiokite, Fe2Mo3O8、を発見している。 これらの業績に対し、1987年に日本鉱山地質学会より、加藤武夫賞が贈られた。またこれらの業績と学会への貢献により、資源地質学会の名誉会員に推薦されていた。
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略歴・業績
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大阪市西区西長堀生まれ。 大阪市立甲種商業学校(現大阪市立天王寺商業高等学校)予科に進む。同校本科には進まず、1920年に日本電力に入社。同社で働きながら、関西大学専門部文学科(夜間)を卒業。 商業学校在学中の1919年に、室町銀之助の筆名で宝塚少女歌劇の第5回脚本公募に応募し、一等に入選する。1920年7月、宝塚公会堂劇場で入選脚本が「コロンブスの遠征」として上演された。 1926年、久松一声の誘いで宝塚歌劇団に入社の話があったが、面接での宝塚幹部の態度が傲慢だと感じ、入社拒否。同1926年には、東京建設所に転任となり上京。1928年、日本電力と小田原電気鉄道の合併で、新たに創設された箱根登山鉄道株式会社へ出向し、小田原に居住する。事業課長として強羅ホテルの建設などを担当する。 箱根登山鉄道の社員をしながら、1933年から 劇作家を志望して、岡本綺堂に師事する。「北條秀司」の筆名は綺堂がじきじきに命名したもので、小田原の戦国大名北条氏にちなんだものである。綺堂が主催する月刊誌『舞台』に参加する。 1937年、『舞台』に発表した戯曲『表彰式前後』が新国劇で上演されて劇壇デビューし、会社員兼業の劇作家となる。1939年の綺堂の死去を機会に退社して、劇作家専業となり上京。1940年、長谷川伸に師事して、長谷川主催の脚本研究会「二十六日会」に参加。1940年、『閣下』で新潮社文藝賞受賞。1944年から、日本文学報国会の総務部長をつとめる。同年、南京で行われた第三回大東亜文学者大会に、日本側の責任者として同行参加。 戦後は、自作の多くの作品で演出も担当。 1947年、新国劇で演出も担当した辰巳柳太郎主演の『王将』が大ヒットし、2作の続編を執筆して1950年に初演。また、たびたび映画化された。劇化により1957年日本将棋連盟からアマチュア三段が与えられ、のち村田英雄の王将のヒットにより四段を与えられた。ただし、北條はふだん将棋を指すことはなく、『王将』の企画も辰巳柳太郎からもちこまれたものだった。 1948年、神奈川県鎌倉郡大船町山崎に転居する。1954年、神奈川県鎌倉市岡本へ転居。 1959年には、新国劇にて、裁判中の「松川事件」を演劇化した。 1951年、『霧の音』で毎日演劇賞、1965年、『北條秀司戯曲選集』で芸術選奨文部大臣賞、翌年読売文学賞、1973年、菊池寛賞受賞。1987年、文化功労者。ほか大谷竹次郎賞。歌舞伎、新派、新国劇、宝塚歌劇に数多くの脚本を提供し自ら演出も手掛けており、宝塚においては植田紳爾の師の一人でもあった。 大劇場商業演劇で成功した功より、演劇界の大御所として重きを成し、日本演劇協会会長(1964年から94年。退任後、名誉会長に)や国際演劇協会日本センター会長(1981年から)なども歴任、北條天皇の異名を取った。 また、1951年には、大劇場の劇作家の親睦会「鬼の会」を創設。北条以外の創設メンバーは、秋月桂太、阿木翁助、伊馬春部、池波正太郎、宇野信夫、小沢不二夫、金貝省三、上山雅輔、菊田一夫、斉藤豊吉、高橋博、知切光歳、中江良夫、二宮千尋、水木洋子、八木隆一郎、矢田弥八。 東宝のプロデューサー池野満の企画により、1960年には、劇作家の生活向上を目的として、川口松太郎、中野実、北條秀司、菊田一夫で「劇作家四人の会」を結成。 代表作に、『王将』三部作 (1947–50)、『狐と笛吹き』(1952)、『太夫(こったい)さん』(1955)、『佃の渡し』、『狐狸狐狸ばなし』、『建礼門院』などがあり、また『末摘花』『浮舟』『藤壺』など、『源氏物語』を題材にしたものも多く、その集大成は「北條源氏」と呼ばれている。 晩年は奇祭に熱中し、奇祭に関連する著書多数。 1996年5月19日に肝不全のために93歳で逝去。最晩年においても新作の執筆をしていたという。 娘は元女優・声優の北條美智留。
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