新羅 概要

新羅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/06 06:18 UTC 版)

概要

『三国史記』の新羅本紀は「辰韓の斯蘆国」の時代から含めて一貫した新羅の歴史としているが、史実性があるのは4世紀の第17代奈勿王以後であり、それ以前の個々の記事は伝説的なものであって史実性は低いとされる。

6世紀中頃に半島中南部の加羅諸国を滅ぼして配下に組み入れた。唐が660年に百済を、668年に高句麗を滅ぼした時には、新羅は唐軍指揮下で参軍した(羈縻支配)。その後、唐が吐蕃と戦争を始めると、反乱を起こして旧百済領全土と旧高句麗の南半分を統治する唐の役所を襲撃して官員を殺戮し(唐・新羅戦争)朝鮮半島の中南部を統一した。首都はほぼ金城(現在の慶尚北道慶州市)にあった。9世紀末には新羅の国力は衰え、百済・高句麗の再興を図る勢力が出て後百済後高句麗との鼎立による後三国時代となり、最終的には後高句麗から起こった高麗に帰順して新羅は滅亡した。

新羅の歴史は、『三国史記』新羅本紀・敬順王紀に記されるように、始祖から第28代真徳女王末年(654年)までを上代、第29代武烈王(金春秋)即位から第36代恵恭王末年(780年)までを中代、第37代宣徳王から滅亡までを下代と分類する。

呼称

当初の「斯蘆」という文字の発音は現代日本語では「しろ」、現代朝鮮語では「サロ」だが、漢字の上古音では「シラ」である。

日本語では習慣的に「新羅」を「しらぎ」と読むが、奈良時代までは「しらき」と清音だった。万葉集(新羅奇)、出雲風土記(志羅紀)にみられる表記の訓はいずれも清音である。これは元来「新羅城」の意味であり、新羅の主邑を指す用語が国を指す物に変化したのではないかという説がある。

歴史

起源と神話

新羅の前身は朝鮮半島南東部にあった辰韓十二国のうちの1つ、斯蘆国である[2][3]。文献史料からは正確な建国の時期については明確にわからない。『三国史記』「新羅本紀」冒頭の記述に従うと、新羅の建国は前漢孝宣帝五鳳元年、甲子の年であり、西暦に直すと紀元前57年となる[4]。これはいわゆる古代朝鮮の3国(高句麗百済・新羅)の中で最も早い建国であるが、末松保和らの研究によって後世に造作されたものであることが明らかにされている[5]。初期の時代における『三国史記』「新羅本紀」の記載は伝説的色彩が強いが、韓国の学界においては20世紀半ば頃にはこれを史実とする見解が出され、有効な学説の一つとなっている。20世紀後半以降、この新羅の伝承は紀年の修正はされているものの事実が反映されたものであるとし、建国年を3世紀前半まで引き下げる説などが提出されている。しかし、これらは具体的な論拠を欠き説得力に乏しいと評される[5]

中国史料では、高句麗、百済、新羅の順に登場する[6]。『三国史記』において高句麗の建国よりも新羅の建国が早く設定されたのは、著者の金富軾が、慶州出身で新羅王家の一族だったためであると考えられる[7]。金富軾は、新羅王家の一族だったが、高麗王家に仕えて、平壌が高麗から独立した反乱を鎮圧して武勲を上げた人物であった[8]

『三国史記』が新羅の建国年を紀元前57年としたのは次の論理によると見られる。まず、『漢書』等の記録によれば紀元前108年に、漢の武帝朝鮮半島漢四郡を設置し、昭帝紀元前82年に朝鮮半島南部の真番郡を廃止した[9]。その後最初におとずれる甲子の年(六十干支の最初の年)が紀元前57年となる[10]。それ以前に設定した場合、朝鮮半島の大部分に前漢の郡が設置されていたという記録と衝突してしまうため、これより遡って建国年を設定できなかった。つまり、金富軾は可能な限り古い時代に新羅の建国年を置こうとしたが、紀元前57年がテクニカルな限界であった[11]

『三国史記』が伝える建国神話によれば、慶州盆地に朝鮮(『三国史記』の文脈では箕子朝鮮を指すと見られる[12])からの移民が住む6つの村(閼川楊山、突山高墟、觜山珍支、茂山大樹、金山加利、明活山高耶)があり、その六村が卵から生まれた赫居世を王に推戴したのが新羅の始まりであるという[3][13]

新羅の建国神話は他の朝鮮諸国と比較して特異であり、三姓の王の交代という形をとる。即ち初代赫居世に始まる朴氏、第4代脱解に始まる昔氏、第13代味鄒に始まる金氏(始祖は味鄒より数代前の閼智とされる)である[3][14]。その内容の伝説的色彩が強いことや、実際に新羅で姓が使われ始めるのが6世紀に入ってからである点などから、これらの神話は基本的に史実としては扱われない[14]。しかし三姓がそれぞれに異なる由来を語り、6つの村(後の新羅六部の前身とも考えられる)が関わる独特の建国神話は、新羅王権の成立過程の複雑な様相を反映したものであるかもしれない[15]

朴氏の始祖説話

朴氏の初代とされているのは赫居世(赫居世居西干)である。辰韓の六村の長の一人が、蘿井(慶州市塔里面に比定される)の林で馬の嘶くのが聞こえたので近寄ったところ、馬が消えて大きな卵があった。卵を割ると中から幼児が出てきて育て上げたが、10歳を越えた頃、彼の出生が神秘的であったことから六村の人たちは彼を王位につけた。卵が瓠(ひさご)ほどの大きさであったため、辰韓の語で瓠を表す「朴」を姓として名乗った。。赫居世は紀元前57年に13歳で王位(辰韓の語で王者を表す居西干と称された)に就き、国号を徐那伐とした[4]。また、閼英井(南山の北西麓の羅井に比定される[16])に龍(娑蘇夫人)が現れ、その左脇(『三国史記』では右脇)から生まれた幼女が長じ、容姿端麗にして人徳を備えていたので赫居世は彼女(閼英夫人)を王妃に迎えた。人々は赫居世と閼英夫人とを二聖と称した[17]。なお、『三国遺事』には赫居世と閼英夫人はともに中国から辰韓に渡来した中国の王室の娘娑蘇夫人の子であるとする伝承が伝えられており、『三国史記』敬順王条末尾では編者金富軾が中国の接待官から類似の話を聞いた記録が残されている[18]。また、赫居世の臣下には倭国から来たとされる瓠公がおり、辰韓が属国であると主張する馬韓王に対峙させたという説話がある[19]

昔氏の始祖説話

昔氏初代は脱解(第4代脱解尼師今)である。『三国史記』によれば、倭国東北一千里のところにある多婆那国の王妃が妊娠ののち7年たって大きな卵を生んだが、多婆那王は不吉であるとして卵を捨てるように命じた。王妃は捨てるに忍びず、絹の布で卵を包み、宝物と共に箱に入れて海に流した。その後金官国に流れ着いたが、金官国の人々は警戒してこれをとりあげなかった。次いで辰韓の阿珍浦に流れ着き、そこに住んでいた老婆が箱を拾って開けると、中から一人の男の子が出てきたので、育てることにした。男の子は成長するに従い身長九尺にもなり神の如き風格を備えた。姓氏がわからなかったので、ある人が、箱が流れ着いたときに鵲(カササギ)がそばにいたので、鵲の字を略して「昔」を姓とし、箱を開いて生まれ出てきたことから「脱解」と名付けるのが良いとした。学問を身に着けた脱解は瓠公の邸宅を見て吉兆の地であると判断し、相手を騙して土地を取り上げた。これが後の新羅の拠点である月城になった。新羅の第2代王南解は脱解が賢者であるのを見て娘(阿孝夫人)を与え、第3代の儒理王は死に際して脱解に後事を託した。こうして脱解が王となった[20]

金氏の始祖説話

金氏始祖とされている金閼智は第13代味鄒(味鄒尼師今)の7世祖であるとされる。脱解の治世に、首都金城の西方の始林の地で鶏の鳴き声を聞こえたので、夜明けになって瓠公に調べさせたところ、金色の小箱が木の枝に引っかかっていた。その木の下で白い鶏が鳴いていた。報告を受けた脱解が役人に小箱を回収させ開かせると、中から小さな男の子が現れた。容姿が優れていたので脱解は喜んでこれを育てた。長じて聡明であったので「閼智」(知恵者の意味)と名づけ、金の小箱に入っていたので「金」を姓とした。また、このことに合わせて始林の地を鶏林と改名した。後に金氏が新羅王となると、その始祖である閼智にちなんで国号も鶏林とした[21]

新羅の登場と時代区分

以下本節の月日はすべて旧暦、年は当該旧暦年を西暦に単純置換したものである。 新羅が実際に外国史料にあらわれるのは『三国史記』で物語るよりも後の時代であり、文献史料で確認できる新羅の初出記事は、『資治通鑑』巻104・太元2(377年)年条にある、高句麗とともに前秦朝貢したという記事である[22]。このことから、4世紀頃が国家形成における画期であったと見られ、文献史学的には概ね建国の時期として扱われる[2][3][23]。考古学的には積石木槨墳という新たな墓制の登場をもって新羅の成立と見る[23]。積石木槨墳は木槨の上に20から30センチの石を積み、その上をさらに土を盛った構造の墳墓であり円墳または複数の円墳が複合した双円墳、集合墳の形態を取る[24]。また、新羅が「成立」した4世紀頃は、原三国時代に置いて文化的差異が曖昧であった弁韓と辰韓の考古学的遺物が明確に分化する時期でもあり、それまで小国の連合体がひしめき合っていた朝鮮半島島南部はこの頃から、おおよそ洛東江を境にして東側は新羅、西側は伽耶として異なる政治的・文化的な領域を明確に形成し始める[25]

476年頃の朝鮮半島。

三国史記』「新羅本紀」の記述に依れば、新羅人は始祖から真徳女王までを上代武烈王から恵恭王までを中代宣徳王から敬順王までを下代と呼んでいたという[18]。現代の研究者による概説書は概ね新羅による統一以前と統一以後(統一新羅)で記述を分ける。

周辺諸国と新羅

377年の前秦への遣使が高句麗と共同で(高句麗の影響下で)行われたことに見られるように、新羅の登場は高句麗と密接にかかわっている。初期の新羅は高句麗に対し相当程度従属的な地位にあった。382年に新羅は再度単独で前秦への遣使を行っているが、これもその地理的条件から見て、高句麗の承認があって初めて可能であったものと考えられる[3]。同時に新羅は建国初期から倭人の脅威にも晒されていた。『三国史記』「新羅本紀」は建国初期からたびたび倭人の侵入があり戦いを繰り返していたことを記録している[26]。また、西隣の百済、それに同調する伽耶諸国とも対立しており、それらに対して倭が軍事支援を行っていたとも伝えられる[15]

4世紀末から5世紀にかけてこうした状況は『三国史記』や『日本書紀』のような歴史書、韓国で発見された中原高句麗碑などの発掘史料、そして何よりも広開土王碑など多くの史料によって良く示されている。広開土王碑は新羅を高句麗の属民として描くとともに[15]、この時期に朝鮮半島で行われた大きな戦いを記録している。それによれば高句麗は古より百済を「属民」としていたが391年に倭国が百済を「臣民」としたために出兵し倭軍を撃退した[27]。その戦いの中、400年頃には新羅の王都が倭軍に占領されたために高句麗が新羅に出兵し、倭軍を蹴散らし「任那加羅」まで追ったという[27]。この広開土王碑文の解釈を巡っては様々な議論があるが、『三国史記』や『日本書紀』にこれらと対応すると見られる記録として、新羅が高句麗と倭の両方に王子宝海(卜好)と美海(未斯欣)を送ったことが伝えられる[15][28]。また、中原高句麗碑は高句麗が新羅領内で人夫を徴発していたことを記録している[15][註釈 1]。同碑文は高句麗王と新羅寐錦(王)の関係を兄弟に擬制し、高句麗王を兄とした明確な上下関係を表現している[15]

新羅が国力を増し、高句麗からの自立を図るようになるのは5世紀の半ば頃からである[30]。450年、新羅が高句麗の辺将を殺害するという事件が起きた[31]。これによって高句麗が新羅征討を計画したが、新羅が謝罪したため一旦問題は収まった[31]。しかし、454年には高句麗が新羅領に侵入して戦闘となり、翌年には高句麗と百済の戦いで百済へ援軍を送るなど新羅は次第に高句麗に対する自立姿勢を明確にしていった[30][31]

新羅の発展

5世紀末頃から新羅は国力の増強に向けて改革を継続し、大きな飛躍を遂げた。5世紀末、新羅は慶州盆地の丘陵に月城と呼ばれる王城を築いた。この盆地には喙部、沙喙部、牟梁部、本彼部、習比部、漢岐部と称する6地域(新羅六部)があり、それぞれ自律的な政治集団を形成しつつ、対外的には王京人として結束するという連合体を形成した[30]。特に喙部、沙喙部は突出して大きな力を持っていた[30]。西暦500年に即位した智証麻立干(在位:500年-514年)は、それまで不定であった国号を正式に新羅とし、王号を旧来の麻立干から王へと変更したとされる[32]。この時代に王という称号が使用されたことは503年の日付を持つ『迎日冷水碑』で智証(本文では至都蘆、智証の異表記[33])が「葛文王」を称していることや、524年の日付を持つ『蔚珍鳳坪碑』において法興王(在位:514年-540年)が「寐錦王」と称していることから確認できる[32][33]。新羅史を上古、中古、下古の三期に区分する『三国遺事』は智証王の時代を画期と見なし、上古と中古の境界とする[33]。ただし、この時代の新羅王権が政治的連合体としての性格を強く持っていたこともこれらの碑文からうかがわれる。『迎日冷水碑』は有力者の資産問題に関する裁定を下したことを記録した碑文であるが、その中で裁定を下した集団のメンバーは「七王」と呼ばれており、全員が王とされていた[33]

智証王の跡を継いだ法興王は更なる改革を続け、520年に「律令」を発布し、独自の官位制を整えた[34]。さらに140年ぶりとなる中国(南朝、)への遣使を行い、522年には大伽耶(高霊)と婚姻を結ぶなど、周辺地域への対外活動を活発化させ、532年に伽耶地方の金官国を降伏させて併呑し、さらに536年には独自の年号である「建元」を制定した[34]。また、彼は527年、仏教導入し、新羅における仏教の端緒を開いたという[35]。「法を興す」という彼の名はこの業績にちなんでおり、この王は廃仏派の群臣たちと対峙して処刑された異次頓、伝説的な僧侶阿道とともに新羅仏教の三聖人に数えられている[35]。こうして新羅の国家体制の整備と勢力拡大に大きな功績を残した法興王であるが、先に述べた『蔚珍鳳坪碑』では犯罪者に杖刑を裁定する際の裁定者としてやはり「牟即智(法興)/寐錦王」と「従夫智/葛文王」が登場しており、複数の「王」が併存する体制が継続していたことが確認できる[32][36]。こうした体制は『三国史記』などの記録には無く同時代史料によって確認できるものである[33]

こうした国制の整備を経て、6世紀中頃には急激な領域拡大が可能となった。真興王(在位:540年-576年)の時代、新羅は高句麗と争い、551年に小白山脈を超えて高句麗の10郡を奪った。さらに翌552年には高句麗と百済の争いの中で漁夫の利を得る形で漢城(現:ソウル)を手中に収めて「新州」を置き、朝鮮半島の西海岸に勢力を伸ばした[37][38]。漢城は元々百済の首都であったが、475年に高句麗によって奪われた都市であり、新羅の行動は百済との関係悪化を招いた[38]。しかし553年、百済の聖王が率いる軍勢を新羅軍が撃破し、聖王を戦死させたことで漢城周辺の確保は確定した[39]562年には伽耶地方の大伽耶を滅ぼして占領し、洛東江下流域の伽耶諸国が新羅の支配下に入った[39]。この時代、領土の拡大に伴い地方統治組織が整備される一方で、王都では仏教の隆盛とともに寺院建築、仏教儀礼が盛んとなり、花郎と呼ばれる貴人の私邸をリーダーとする青年組織が制度化されるなど、新羅国家の制度的な基礎が整っていった[39]

この国力増強を背景として、564年に北斉に朝貢し、その翌年「使持節東夷校尉楽浪郡公」に冊立された[40]。次いで568年に南朝にも朝貢した。こうした独力による南北両王朝との外交関係の構築は新羅が高句麗や百済と並んで東アジアの中で確固たる地位を確保したことを象徴するものであった[40]。こうした新羅の拡張と中国王朝との関係構築は、その両者によって挟まれる高句麗に脅威を与え、高句麗が570年に始めて倭国に使者を送って外交関係の構築を模索するなど[註釈 2]、国際関係の変化をもたらした[40]

中国の発展と三国時代の終焉

589年、が中国を統一し、数世紀にわたる中国の南北朝時代が終わった。高句麗と百済、そしてやや遅れて新羅が隋に朝貢し、朝鮮三国を包含する隋を中心とした国際秩序が形成されたことで、朝鮮半島における安全保障上の環境が激変した[44]。とりわけ隋と国境を接する高句麗はその軍事的圧力を強く受け、度重なる隋の侵攻を受けるようになる。しかし隋の高句麗遠征は失敗に終わり、これも一因となって王朝は倒れ618年に新たにが興った[45]。新羅はすぐに、高句麗、百済と同じように唐から冊封を受けた[46]。各国は互いの国を非難しあい、新羅も百済と高句麗が連年攻め込んできていることを訴えて唐の歓心を得ようとした[46]。唐は当初三国の和解を促しつつ情勢の安定化を試みたが、やがて640年代に入ると隋代に失敗した高句麗への遠征を再び繰り返すようになった[47]

こうした事態に対応して、各国で権力の集中と国家体制の整備が進むようになった。高句麗では642年に淵蓋蘇文がクーデターを起こして実権を握り、唐の侵攻に備えた[48]。一方百済では義慈王(在位:641年-660年)が即位し、高句麗のクーデターと同じ642年に新羅に侵攻した[49]。新羅は大きな敗北を喫し、伽耶地方を中心に40城余りを失い、さらに大耶城(慶尚南道陝川)の失陥の際には城主が妻子もろとも殺害された[49]。この城主の妻は新羅の王族金春秋の娘であり、この事件は新羅の政界に大きな衝撃を与えた[49]。新羅では一連の敗北を「大耶城の役」と呼び、城主一家の死にこだわり続けることになる[49]。翌年には高句麗と百済が和睦を結び、さらに倭国とも連携する動きも生じて新羅は国際的に孤立することとなった[50]。敗戦の後、新羅では王位にあった善徳女王、金春秋、そして旧金官国の王族に連なる金庾信が結束して新たな指導体制を敷き始めた[51]。これらのことから642年は最終的に676年の新羅による朝鮮半島統一に帰着する東アジアの大変動が始まる画期となったと評される[52][49]

高句麗と百済からの圧迫を受けて、新羅は643年に唐に救援を求めたが、このときに唐からの救援は得られず、逆に女王を退けて唐の皇族を新羅王に据えることを要求された[53]。このことが契機となって、新羅国内では親唐派と反唐派の対立を生じ、上大等の毗曇が女王の廃位を求めて反乱を起こした。ほぼ同じ頃に善徳女王が急死した[53]毗曇の反乱は結局半月程度で鎮圧され、その後金春秋(後に武烈王となる)は新たに真徳女王を立てて唐との関係構築を模索した[53]。金春秋は中国の律令制度を取り入れる改革を始め、650年にはそれまで新羅独自で用いていた年号(太和)を廃止し、唐の年号を用いるなどして、唐との連携を強めていった[54]

新羅は655年にも高句麗と百済から攻撃を受け、唐に救援と出兵を依頼した[55]。唐は658年から高句麗遠征を行ったが、隋代と同じく度重なる失敗に終わった[55][56]。このため唐は高句麗を征服するにあたってまず百済を先に攻略することを決定し、660年に海路から百済を攻撃した[55][56]。新羅もこれに呼応して百済に出兵し、百済の将軍堦白を撃破した[56]。百済の首都泗沘が唐によって攻略され、最後の拠点熊津も攻撃を受けて百済は滅亡した[55][57]。百済の遺臣は倭国や高句麗の支援を頼みに反乱を起こしたが、倭国から派遣された援軍が663年に白村江の戦いで大敗し、百済復興も失敗した[55][58]。南北から高句麗を包囲した唐は百済遺臣の反乱を鎮圧する前から高句麗への攻撃を行ったが、これも失敗に終わった[59]。しかし、高句麗の実質的な支配者淵蓋蘇文が666年に死去すると、その息子たちの間で不和が生じ、これに乗じた唐は667年に更なる高句麗遠征を開始した[59]。新羅の文武王(在位:661年-681年)は唐に呼応して30人の将軍と共に高句麗に攻め入った[59]

668年に唐軍が高句麗の首都平壌を陥落させ、高句麗は滅亡した。唐軍は20万とされる捕虜を連れ帰り、新羅軍もまた7000人の捕虜を得て王都へと戻り先祖廟に高句麗と百済の滅亡を報告した[60]

唐の排除と渤海の台頭

唐は一連の征服に伴い、旧百済領に熊津都督府を、旧高句麗領に安東都護府を設置して羈縻州として組み込むと共に、新羅の文武王を鶏林大都督として朝鮮半島全域を支配下に置くことを目論んだ[60][61]。唐の脅威に対抗すべく、新羅は高句麗最後の王である宝蔵王(在位:642年-668年)の外孫とされる安勝を「高句麗王」(後に「報徳王」)に封じて庇護下に置き、「高句麗の使者」を倭国に朝貢させた[61]。以後しばらくの間、新羅の使者が帯同して高句麗使が倭国へ送られた[61]。これは新羅が高句麗を保護下に置いていることを外交的に示威する行為であり、「報徳王」の冊立とともに、新羅王権の正統性を内外に示し、唐が設置した安東都護府に対抗する姿勢を明らかにするものであった[61]

また、新羅は旧百済領の一部を事実上併呑していたが、唐は百済故地に置いた熊津都督府の都督に旧百済王族の扶余隆を据え、新羅王と会盟を行わせ、制圧した城や遺民の返還を要求した[62]。新羅は謝罪使を派遣し、朝鮮半島全体を羈縻州とする唐の論理を逆手にとって「百済と新羅は共に唐の羈縻州であり境界をわかつべきではない」と主張して自らの行動を正当化した[62]。その後、670年にも軍事行動を起こして旧百済領に侵攻し、672年に2度目の謝罪使を派遣するなど、侵攻と謝罪を繰り返しつつ勢力を扶植した[62][63]。これに対し唐は674年に新羅征討軍を起こし、翌675年に新羅は3度目の謝罪使を派遣したが唐皇帝高宗(在位:649年-683年)の逆鱗に触れ、文武王の官職剥奪の問題にまで進展した[64][63]。新羅は謝罪外交と並行して更なる軍事的処置を取り、676年には伎伐浦で唐軍を破って事実上旧百済領全域の支配を掌握することに成功した[64]。この事態に、唐は同年中に熊津都督府を遼東の建安城に、安東都督府も遼東城に後退させた[63][64]。唐はなお新羅征討を計画したが、チベット吐蕃の勢力拡張によって朝鮮半島に兵力を回す余裕がなくなり、678年に新羅征討を断念した[63][64]。こうして新羅は朝鮮半島中部以南から唐の勢力を排除し、またこれによって存在意義を失った安勝の高句麗亡命政権も684年に取り潰した[63][64]

旧高句麗領には新たに旧高句麗遺民や靺鞨などが中心となって渤海が興った(698年)。渤海は唐の退潮による東北アジアの権力の空白を埋める形で現在の中国東北地方(満州)南部、朝鮮半島北部、ロシア沿海州に相当する地域に勢力を広げた[65]。8世紀には黒水部に対する渤海の勢力拡張を巡る紛争から唐と渤海の対立が深まり、732年に渤海が唐の登州(現:山東省蓬莱市)を襲撃して武力衝突に発展した[66]。唐は新羅に渤海攻撃を要請し、新羅はこれを受け入れた[66]。新羅による攻撃はほとんど戦果がなかったが、唐と新羅の関係は改善し、翌年に新羅は渤海攻撃の功績によって浿江以南の地を冊封された[66]。一方の渤海は、8世紀後半の文王の頃にはかつての高句麗の後継者であることを意識して「高麗国王」をなのるようになった[67]。共に国力を増強していた新羅と渤海の間では緊張が高まり、このことが両国の対唐・対日本関係にも影響を及ぼした[68]

内政と社会情勢

統一新羅の成立と共に官僚制度の改革が図られた。降伏した百済・高句麗の王族、貴族を格下げした上で官位制度の中に組み入れ、律令制を取り入れながら政治形態を変化させていった。官吏の養成機関として国学という教育機関が置かれた。また、州・郡・県を基本と為す郡県制を基本とした地方支配体制が整えられた。旧新羅・任那・加羅領に3州、旧百済領に3州、旧高句麗領に3州の9つの州が置かれ、これらと副都五京によって地域支配が行われた。

唐の律令制度を取り入れながらも、位階などの名称は旧称のままで残されたりもしたが、8世紀半ばには唐風に改められている。唐の影響は非常に大きく、この頃、先祖伝来の姓や従来的な名もまた、全て漢族乃至中元風に改められている。

745年頃から750年代後半にかけて新羅で飢饉や疫病が発生し、社会が疲弊していた[69]。755年には新羅王のもとへ、飢えのため、自分の股の肉を切り取って父親に食べさせた男の話が伝わるほどだった[69]。このときに、日本の九州北部をはじめ、日本へ亡命し、帰化した新羅の民が多数いた[69]。しかし、その移民の数が多いため、天平宝字3年(759年)9月、天皇は大宰府に、新羅からの帰化人に対して、帰国したい者があれば食料等を与えたうえで帰国させよとする勅を出した[69]。翌年には、帰国を希望しなかった新羅人13人を武蔵国に送還した[69]。また、飢饉や疫病によって、後述する新羅の賊が発生したともされる[69]

日本との関係

668年以降、日本は遣新羅使を派遣。672年壬申の乱で勝利した大海人皇子(後の天武天皇)は、親新羅政策をとった。また、次代の持統天皇(在位690年697年)も亡夫の天武天皇の外交方針を継ぎ、同じく親新羅政策を執った。但し、親新羅と言っても対等の関係は認めず、新羅が日本に従属し朝貢するという関係であり、新羅は日本への朝貢関係をとった[70]

持統天皇元年(687年)、日本の朝廷は帰化した新羅人14人を下野国[71]、新羅の僧侶及び百姓の男女22人を武蔵国[72]土地と食料を給付し、生活が出来るようにする。持統天皇3年(689年)にも投化した新羅人を下毛野に移し[73]、翌持統天皇4年(690年)にも帰化した新羅人を武蔵国や[74]、下毛野国に居住させる[75]霊亀元年(715年)には尾張国人の席田君邇近及び新羅人74人が美濃国を本貫地とし、席田郡に移される[76]天平5年(733年)[77]

「王城国」改称問題

しかし新羅が驕り、735年天平7年)日本へ入京した新羅使が、国号を「王城国」と改称したと事後通告したため、日本の朝廷は無断で国号を改称した無礼を責め、使者を追い返した[78]。両国関係は、朝鮮半島中南部を統一した新羅が、日本と対等な関係を要求した為に悪化した。なお、当時渤海が成立し、日本へ遣日本使を派遣していることも背景にあるとされる[78]

736年(天平8年)には遣新羅大使の阿倍継麻呂は新羅で非礼な扱いを受け、朝廷は伊勢神宮など諸社に新羅の無礼を報告し調伏のための奉幣をしており、以後しばらくは新羅使を大宰府に止めて帰国させ、入京を許さなかった[78]。なお、阿倍継麻呂は新羅からの帰国途中に病死し、残された遣新羅使の帰国後、平城京では天然痘とみられる疫病が流行った。当時、この疫病が新羅から持ち込まれたと信じられた[79][80]

金泰廉による日本への朝貢

752年天平勝宝4年)、新羅王子金泰廉ら700余名の新羅使が来日し、日本へ朝貢した[78]。この使節団は、奈良の大仏の塗金用に大量の金を貢いだと推定されている[78]。王子による朝貢であり、新羅は日本に服属した形となった。

日本に従属し朝貢を行った意図は明らかではないが、唐・渤海との関係を含む国際情勢を考慮し、緊張していた両国関係の緊張緩和を図ったという側面と交易による実利重視という側面があると見られている[78]。金泰廉は実際の王子ではないとする研究[81]が一部で出されているが、王子の朝貢によってより積極的な通商活動を意図していたとする主張には根拠が無い[82]

長安での席次争い

753年(天平勝宝5年)には長安の大明宮で開催された[83]唐の朝賀で遣唐使大伴古麻呂が新羅の使者と席次を争い意を通すという事件が起こる[78]。この際、唐は新羅が日本の従属国である事実を受け新羅を下位に置いた。この年、新羅の景徳王は遣新羅使に謁しなかった[78][84]

藤原仲麻呂の新羅征討計画

天平宝字2年(758年)、安禄山の乱が起きたとの報が日本にもたらされ、藤原仲麻呂大宰府をはじめ諸国の防備を厳にすることを命じる。天平宝字3年(759年)新羅が日本の使節に無礼をはたらいたとして、仲麻呂は新羅征伐の準備をはじめさせた。軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的な遠征計画が立てられるが、この遠征は後の孝謙上皇と仲麻呂との不和により実行されずに終わる[85][86]

8世紀の終わりに新羅の国内が混乱すると、再び日本に慇懃な態度をとるようになり[83]、宝亀10年(779年)、新羅は日本への服属を象徴する御調(みつき)を携え使者を派遣した。この調は、日本が新羅に要求し続けた念願の品であった[83]。また、新羅の混乱により多数の難民が日本列島へ亡命し、大量に帰化を申請する事態が発生するが、日本側は「蛮国」の人民が天皇の徳を慕って帰化を願い出た事を嘉し、帰化を許可した[83]

しかし、翌780年に正規の遣新羅使は停止され、以後は遣唐使の安否を問い合わせる使者が数度送られたのみとなった[87]。しかし民間レベル(主に交易)での交流は続けられており、唐・日本・新羅商人により、日本の文物を唐・新羅へ、唐・新羅の文物を日本へ、と運んで交易に励んだ[88][89]。有名な新羅商人に張宝高がいる。

下代(780〜935年)

780年武烈王の王統が絶えると王位継承の争いが激しくなり、王位簒奪や王都内での反乱が頻繁に発生する様になった。また骨品制により、新羅王族のみが上位官僚を占めるようになり官僚制度は行き詰まりを見せていた。災害や飢饉、また相次ぐ反乱や内戦、また渤海(698年 - 926年)との対立などもあり、新羅は滅亡する。

この780年代から新羅滅亡までの期間(宣徳王から敬順王まで)を下代と呼ぶ[90]

恵恭王の時代

第36代の王恵恭王の在位中に、律令体制の推進派と旧来の貴族連合的体制への復帰派との間の対立は顕在化し、反乱が多数発生する[91]

  • 768年7月 : 一吉飡(7等官)大恭・阿飡(6等官)大廉の兄弟の反乱。貴族連合体制復活派の反乱とみられる。王都を33日間包囲するが、王の軍隊が平定した。
  • 770年8月 : 大阿飡(5等官)の金融の反乱。金融は金庾信の後裔であり、中央貴族に対抗する地方勢力を代表する。律令体制推進派と見られる。
  • 775年6月 : 伊飡の金隠居の反乱。元侍中の金隠居は金融の反乱の後に退官しており、後に反乱を起こした。貴族連合体制復活派の反乱と見られる。
  • 775年8月 : 伊飡の廉相、侍中(現職)の正門が反乱を企てたことが発覚して誅滅された。正門は金隠居の退官の後に侍中に就任しており、律令推進派の反乱と見られる[92]。こうした政治的対立の中で776年正月には新羅政府は教書を出し、律令体制を強固に推進した景徳王が唐風に改名した百官の名称を、旧来のものに戻した。貴族連合体制派への譲歩であったと見られるが、律令体制推進の政策を廃止しようとするものではなく、同年3月には倉部(徴税)の史(3次官)を8名増員している。名目的には律令体制の推進を控えながらも、国家財政や人民支配の強化という点においては貴族層・官僚層の間には共通の意識が持たれていたことの現われと考えられている[93]

780年2月、伊飡の金志貞が反乱を起こし宮中を包囲する。同年4月、上大等の金良相(後の宣徳王)が伊飡の金敬信(後の元聖王)とともに挙兵し、金志貞を滅ぼす。この戦乱の中で恵恭王も王妃ともに殺害された。

宣徳王

次の第37代の王宣徳王は、782年閏正月、に対して朝貢を行った。勢力を強めている渤海に備え、北方面の守備に努め、781年7月には浿江大同江)以南の地に使者を送って安撫し、また782年2月には漢山州京畿道広州市)の住民を浿江鎮(黄海北道平山郡または金川郡)へ移住させている。在位6年目の785年正月になってようやく唐の徳宗から<検校太尉・鶏林州刺史・寧海軍使・新羅王>に冊封されたが、病に倒れてそのまま正月13日に死去した。

元聖王

第38代の王元聖王は、即位後直ち(785年2月)に自祖先への追封を行い、五廟を再整備した[94]788年には官吏登用の制度として、科挙に類似する「読書三品」を定めたように、儒教的・律令体制的な政策を打ち出した。また、度々の天災により民が餓えることがあったが、律令体制の下で貢納された租粟を振舞って民の救済を行っている。恵恭王の末年以来の政治的混乱の収拾に努めたが、こうした天災が続いたこともあって、788年秋には国の西部で盗賊が現われ、791年には元の侍中の悌恭が反乱を起こして誅殺されるなど、安定はしなかった。

に対しては786年に使者を派遣して貢納し、徳宗からは新羅の長年の忠勤を慰撫する詔書をいただいている。また、宣徳王に与えられた官爵〈検校太尉・鶏林州刺史・寧海軍使・新羅王〉をそのまま引き継いだ[95]

哀荘王の時代

第40代の王哀荘王の時代(在位 : 800年 - 809年)の801年10月には、耽羅国済州島)からの朝貢を受けた。耽羅国は文武王19年(679年)に新羅に隷属していたが、後に独立していた。

802年には順応・利貞らの高僧に命じて伽耶山海印寺慶尚南道陜川郡伽耶面)を創建させた。

803年には日本とも国交が再開されたが、両国の交渉について『三国史記』新羅本紀が哀荘王の4年(803年)7月「国交を開き通好した」、5年(804年)5月「日本から黄金三百両が進上された」、7年(806年)3月「日本からの使者を朝元殿で引見した」、9年(808年)2月「日本国の使者を厚くもてなした」という4例を伝えるのに対し、『日本後紀』では延暦23年(804年)9月己丑条で「大伴宿禰岑万里を新羅に遣わした」の1例を伝えるのみである[96]

805年、順宗が即位し、先王の昭聖王への哀悼の使者が送られ、哀荘王も新たに冊封されて<開府儀同三司・検校太尉・使持節大都督・鶏林州諸軍事・鶏林州刺史・兼持節充寧海軍使・上柱国・新羅王>へと官爵を進められた。唐には朝貢及び、冊命の謝恩使の派遣を行う。

809年7月、摂政の金彦昇(後の憲徳王)が伊飡(2等官)の悌邕(ていよう)とともに反乱を起こし、哀荘王は弟の体明侍衛とともに殺害された。『三国遺事』王暦に拠れば、元和4年(809年)7月19日に王の叔父の憲徳・興徳の2人によって殺害された、としている。

憲徳王の時代

憲徳王は即位するとただちにに使者を派遣して先代の哀荘王の死を伝え、唐の憲宗からは〈開府儀同三司・検校太尉・使持節大都督・鶏林州諸軍事・兼持節充寧海軍使・上柱国・新羅王〉に冊封された。唐に対しては810年10月に王子金憲章を送って金銀製の仏像などを献上したほか、定期的に朝貢を行った。また、819年7月には唐の鄆州山東省済寧市)で李師道が反乱を起こすと、兵馬を徴発する憲宗の詔勅に応えて将軍金雄元ら3万の援軍兵を派遣している。

812年9月には渤海へも使者を派遣して動向をうかがっていたが、宣王大仁秀が即位するに及んで緊張を増し、後に826年7月には漢山州京畿道広州市)以北の州・郡から1万人を徴発して浿江大同江)沿いに300里の長城を築いて、渤海の南下を食い止める備えとした。

飢饉と地方豪族の反乱

一方、国内では度々災害が起こって民が餓える事態が発生した。を免じたり穀倉を開いたが、816年には浙江省東部へ流入した民が170人にものぼった[97][98]

この時代には、地方の村主や王都から地方に飛び出した王位継承に敗れた王族や官僚らが軍事力を背景に勢力を伸ばし、新興の豪族として勃興した。そして、地方で頻繁に反乱を起こす。819年3月には各地の賊徒がいっせいに蜂起したが、諸州の都督や太守に命じて鎮圧される。しかしこうした地方勢力を王権のもとに確実に掌握できていたわけではなく、首都慶州中心主義的な政治に対して地方勢力は反感を持ちながらも、団結して対抗するための中心を求めていた。

日本への賊徒侵攻と弘仁新羅の乱

新羅の国内情勢が悪化する一方、一部の新羅人は、日本へ亡命したり、また賊化した新羅人が度々日本を襲撃してもいる。

弘仁2年(811年)12月6日[99]、新羅船三艘が対馬島に現れ、1艘が下県郡の佐須浦に着岸した。船に10人ほど乗っており、他の2艘は闇夜に流れたが[99]、翌12月7日未明[100]、灯火をともし、相連なった20余艘の船が姿を現し、賊船である事が判明した[99]。そこで先に着岸した者のうち5人を殺害したが、残る5人は逃走し、うち4人は後日補足した[99]。島の兵庫を衛り、軍士に動員をかけ[99]、新羅(朝鮮半島方面)を望み見ると、毎夜数箇所で火光が見えると大宰府に報告された。大宰府は通訳と軍毅を対馬へ派遣し、旧例に准じて要害の警備につくすべき事を大宰府管内と長門石見出雲等の国に通知した。

弘仁4年(813年)2月29日、肥前五島小近島小値賀島)に、新羅人110人が五艘の船に乗り上陸し、島民100余人を殺害した[101]。島民は新羅人9人を打ち殺し101人を捕虜にした[102]。4月7日には、新羅人一清、清漢巴らが日本より新羅へ帰国した、と大宰府より報告された。この言上に対して、新羅人らを訊問し、帰国を願う者は許可し、帰化を願う者は、慣例により処置せよと指示した[103]。事後の対策として通訳を対馬に置き、商人や漂流者、帰化・難民になりすまして毎年のように来寇する新羅人集団を尋問できるようにし、また承和2年(835年)には防人を330人に増強した[101]。承和5年(838年)には、796年以来絶えていた弩師(どし)を復活させ、壱岐に配備した[101]。弘仁5年(814年)、化来した新羅人加羅布古伊等6人を美濃国に配す[104]

弘仁11年(820年)には日本国内の遠江駿河両国に移配した新羅人在留民700人が反乱(弘仁新羅の乱)を起こしたがその殆どが処刑され[105][106]、鎮圧されている。天長元年(824年)、新羅人辛良、金貴賀、良水白等54人を陸奥国に安置し、法により復を給し、乗田を口分田に充てる[107]

金憲昌・梵文の反乱

822年3月、武珍州全羅南道光州広域市)・菁州慶尚南道晋州市)・熊川州忠清南道公州市)の都督職を歴任した金憲昌が反乱を起こし、熊津(公州市)を都として長安国と号すると、その支配領域は武珍州・菁州・熊川州・完山州全羅北道全州市)・沙伐州慶尚北道尚州市)の五州及び国原忠清北道忠州市)・西原(忠清北道清州市)・金官(慶尚南道金海市)の三小京に及んだように、旧百済の領域を中心として国土の大半が金憲昌を支持し、王権に対抗する姿勢を見せることとなった。金憲昌の反乱は1ヶ月ほどで鎮圧されたが、乱の鎮圧に活躍した討伐軍は貴族の私兵と花郎集団であり、律令体制の下での兵制は有名無実化していることが露見した。

825年1月には金憲昌の子の金梵文が高達山(京畿道驪州郡)を根拠として反乱を起こしたが、これは北漢山州(京畿道広州市)の都督によって鎮圧された。

これらの反乱の平定の論考功賞においては、反乱をいち早く王都に知らせた者を重視する王都中心主義が強く見え、また反乱に加担しなかった地方には7年間の租税を免除するなどしており、地方行政を疎かにするだけではなく、王権の地方への関与を放棄して地方の自治を公認するかのような政策に堕したと見られている[108]

826年10月に憲徳王は死去した。

興徳王の時代

第42代の王興徳王は、文宗からは、〈開府儀同三司・検校太尉・使持節大都督・鶏林州諸軍事・兼持節充寧海軍使・新羅王〉に冊封されて以降、唐への朝貢を続けて文物の招来に努め、827年に唐に入った旧高句麗系の僧の丘徳は経典を持ち帰った。また、828年に帰国した金大廉がを持ち帰り、新羅での喫茶が盛んになった。827年に漢山州京畿道広州市)瓢川県から速富の術(すぐに富貴になれる方法)という信仰が流行り出す。政府は教祖を遠島へ流刑とした。

832年の春夏の旱魃、7月の大雨で凶作となり、餓えた民衆が盗賊となって蜂起する。10月には各地に使者を派遣して慰撫に努めた。翌833年にも凶作で民が飢餓に苦しみ流行り病で多くの死者を出すと、834年10月には王自らが巡幸して民に穀物を分け与え、民心の安定を図ろうとした。同834年には、身分の上下に応じて色服・車騎・器物・家屋などの区別を厳然とさせて違反者には刑罰を用いるとする教書を発布[109]して、奢侈を禁じるとともに王都の住民に対する身分序列を明確化させることとした。この教書の中で規定された身分序列は「真骨・六頭品・五頭品・四頭品・平人のそれぞれ男女」としており、7世紀中葉に成立していた王族を中心とする身分序列である「骨制度」(聖骨・真骨)に対して「頭品制度」とされる。これら骨制度・頭品制度をあわせて新羅の骨品制度という。

遣唐使船保護に関する日羅外交

承和3年(836年)、日本が遣唐使を久しぶりに派遣することが決定した際、遣唐使船が難破した場合の保護を新羅に要求した[83]。すると、新羅側執事省は、使者紀三津(きのみつ)を問い詰め、「小人の荒迫(こうはく)の罪を恕し、大国の寛弘の理を申す」との蝶を日本へ送った[110]。「小人」とは使者紀三津を、「大国」は新羅自身を指す。

このような新羅の対等または尊大な態度に対して、それまで新羅を「蛮国」とみなしてきた日本は憤慨し、『続日本後紀』は、この事件を後世に伝えなかったら、後人は得失を判断できないとして執事省蝶全文を掲載している[110]

承和9年(845年)、日本は外交方針を変換させ、太宰大弐藤原衛(ふじわらのまもる)は新羅人の越境禁止を進言し、以後、帰化を申請する場合でも、漂着民に食料衣服を与えて追い返せとした[110]。これは『貞観格(じょうがんきゃく)』にも収められ、以後の対新羅外交の基本方針になった[110]

張保皐の乱

張保皐のもとに集結した金祐徴らの一派は838年3月に軍事活動を起こし、祐徴派の金陽が武州光州広域市)を下してさらに南原小京全羅北道南原市)を陥落させた。12月になって金陽が武州鉄冶県(全羅南道羅州市)まで軍を進めたところで新羅王閔哀王は金敏周を派遣して迎撃したが、金陽軍の前に壊滅した。839年1月19日、金陽軍が達伐(大邱広域市)にまで及び、王は禁軍を用いて防戦に努めたがかなわず、兵の半数以上が戦死した。この敗戦を聞いた王の側近は皆逃げ出してしまい、王も殺害された[111]。祐徴は王の儀礼を以て閔哀王の屍を埋葬し、また、古礼に則って即位式を執り行い、王位を継承し、神武王として即位した。しかし、神武王は病で同年、死す。その子文聖王は、政権交代に役のあった張保皐に官位を与えるが、張保皐は不満を持ち、846年、清海鎮全羅南道莞島)で反乱を起こしたが、王軍は張保皐の暗殺に成功する。

しかしながら、これらの動揺は地域社会にも波及し、9世紀末には、農民の反乱や豪族の独立が頻発する。

景文王

第48代の王景文王は、862年7月に使者を派遣して土産物を貢納した。864年4月に日本からも国使を迎えたとされるが、日本側の史書には対応する記事はない[112]865年4月には懿宗から<開府儀同三司・検校太尉・使持節・大都督鶏林州諸軍事・上柱国・新羅王>に冊封された。869年7月には王子の金胤らを唐に派遣し、馬二匹・砂金百両・銀二百両ほか、様々の進奉を行った。翌870年2月には沙飡(8等官)の金因を唐に宿衛させ、874年には僖宗からの宣諭使を受け、唐との交流は盛んになった。

しかし、866年10月には伊飡(2等官)の允興がその弟の叔興・季興とともに反逆を謀った。事前に発覚して允興らは岱山郡(慶尚北道星州郡)に逃走したが、捕縛されて斬刑に処され、一族が誅滅された。

867年5月には王都金城(慶尚北道慶州市)で疫病が流行り、同年8月には洪水が起こった。地方各地でも穀物が実らず、王は各地へ安撫の使者を派遣して慰問に努めた。868年1月には伊飡の金鋭・金鉉らが反乱を起こして誅殺された。870年には王都が地震・洪水に見舞われ、その冬には再び疫病が流行った。873年にも飢餓と疫病が起こり、王は民に穀物を与えて救済したが、政情は安定しなかった。さらに874年5月にも伊飡の近宗が反乱を起こして宮中まで至り、王は近衛兵を派遣して撃破し、逃れた近宗一味を捕らえて車裂きの刑にした。875年7月8日に景文王は死去。

日本への賊徒侵攻

貞観8年(866年)には、肥前基肄郡擬大領山春永・藤津郡領葛津貞津・高来郡擬大領大刀主・彼杵郡住人永岡藤津らが、新羅人と共謀し、対馬を攻撃しようとした計画が発覚している[101]

貞観11年(869年)6月から、新羅の海賊、艦2艘に乗り筑前國那珂郡博多)の荒津に上陸し、豊前の貢調船を襲撃し、年貢の絹綿を掠奪し逃げた。日本側は追跡したが、見失ったと『日本三代実録』に記録があり、また「鄰國の兵革」、隣国である新羅の戦争(内戦)のことが背景にあるのではないかと(うらない)が伝えたとある[113]。なお、同貞観11年(869年)5月26日(ユリウス暦7月9日)には、貞観地震や肥後で地震が発生している。

日本政府は沿海諸郡の警備を固めたほか、内応の新羅商人潤清ら30人を逮捕し放逐することに決めた。その後、新羅に捕縛されていた対馬の猟師・卜部乙屎麻呂が現地の被害状況を伝えたため、結局大宰府管内のすべての在留新羅人をすべて陸奥国などに移し口分田を与えて帰化させることに定めた。このとき新羅は大船を建造しラッパを吹き鳴らして軍事演習に励んでおり、問えば「対馬島を伐ち取らんが為なり(870年2月12日条)」と答えたという。また現地の史生が「新羅国の牒」を入手し、大宰少弐藤原元利万侶の内応を告発した。

870年2月15日、朝廷は弩師や防人の選士50人を対馬に配備[101]する。また、在地から徴発した兵が役に立たないとみた政府は、俘囚すなわち律令国家に服属した蝦夷を配備した[114]。これらの国防法令は『延喜格(えんぎきゃく)』に収められ、以後の外交の先例となった[114]

また、伊勢神宮石清水八幡宮香椎、神功陵などに奉幣および告文をささげ、「わが日本の朝は所謂神明の国也。神明の護り賜わば何の兵寇が近く来るべきや(日本は神の国であり、神の守護によって敵国の船は攻め寄せない)」と訴えた[114]。こうして新羅を敵と認識する考えは神国思想の発展へとつながっていった。また、神功皇后による三韓征伐説話もたびたび参照されるようになる[114]

貞観12年(870年)9月、新羅人20人の内、清倍、鳥昌、南卷、安長、全連の5人を武蔵国に、僧香嵩、沙弥傳僧、關解、元昌、卷才の5人を上総国に、潤清、果才、甘參、長焉、才長、眞平、長清、大存、倍陳、連哀の10人を陸奥国に配する[115]

また貞観14年から19年にかけて編纂された『貞観儀式追儺儀(ついなのぎ)では、陸奥国以東、五島列島以西、土佐国以南、佐渡国以北は、穢れた疫鬼の住処と明記されている[116]。こうして対新羅関係が悪化すると、天皇の支配する領域の外はケガレの場所とする王土王民思想神国思想とともに形成された[116]

憲康王

憲康王の時代(在位 : 875年 - 886年)には、876年7月に朝貢を行い、878年4月には 僖宗から冊封された。同年7月に使者を送ろうとしたが、黄巣の乱の起こったことを聞き及んで使者の派遣は中止した。後に885年10月になって、黄巣の乱の平定されたことを祝賀する使者を唐に送った。

878年8月には日本からの使者を朝元殿で引見したこと、882年4月には日本国王が黄金300両と明珠10個とを進上する使者を派遣してきたことを『三国史記』新羅本紀は伝えているが、日本側の史料には対応する記事は見られない。869年に新羅の海賊船が博多を襲って以来、新羅と日本との間には緊張関係が生じており(新羅の入寇を参照)、『日本三代実録元慶四年(880年)条によれば、新羅の賊が侵入するという情報を得た日本海沿岸の諸国は厳重な警戒態勢をとっていた。しかしその間にも、公私にわたる使者の往来はあったものと見られている[117]

『三国史記』新羅本紀には憲康王の時代は順調であったと記しているが、879年6月に一吉飡(7等官)の信弘が反乱を起こして誅殺された。

日本への賊徒侵攻

『扶桑略記』には寛平6年(884年)の9月(旧暦)に新羅船45艘は対馬を襲ったが、日本は大宰府の奮戦で、これを迎撃して危機を脱した。合戦後の捕虜となった新羅人の賢春は尋問で、前年来の不作により「人民飢苦」の状態が続き、新羅では「王城不安」だったと答えている。これを打開すべく王の命令により、2500人の軍が大小百艘に分乗、飛帆したと記されている。なお『三国史記』では10年に相当するが、10年の記述は三国史記の段階では消失している。

在位12年目の886年7月5日に憲康王は死去。続く定康王の時代、887年1月には金蕘(きんじょう)が反乱を起こしている。

真聖女王

新羅下代唯一の女王真聖女王は、三国史記によればもともと角干(官位)の魏弘と通じていたが、即位すると常に入内させて用いていた。間もなく魏弘が卒して後は少年美丈夫2〜3名を密かに引き入れて姦淫し、彼らに要職を授けて国政を委ねた。このため綱紀はおおいに弛緩した。この女王の治世には国内で反乱が続発し、後三国時代の幕開けとなる。治世11年の897年、女王は「盗賊蜂起、此れ孤の不徳なり」と宣言し、「太子」に譲位してしまう。この年12月女王は金城(慶州)の北宮で死去。

日本への賊徒侵攻

真聖女王の時代にも日本への新羅賊徒が侵攻している。893年5月11日、新羅の賊が肥後国飽田郡(現 熊本市)で民家を襲撃し放火した。また肥前国松浦郡においても襲撃してきたが、逃げた[118]。寛平6年(894年)、唐の将軍も交えた新羅の船大小100艘に乗った2500人にのぼる新羅の賊の大軍が対馬に侵攻を始めた[101]。9月5日の朝、対馬守文屋善友(ふんやよしとも[101])は郡司士卒を励まして賊徒45艘ををかまえた数百の軍勢で迎え撃ち、220人を射殺した。賊は計、300名を討ち取った[101]。また、船11、太刀50、1000、弓胡(やなぐい)各110、盾312にものぼる莫大な兵器を奪い、賊ひとりを生け捕った。捕虜がいうには、新羅は不作で餓えに苦しみ、倉も尽きて王城も例外ではなく、「王、仰せて、穀絹を取らんが為に帆を飛ばして参り来たる」という。その全容は大小の船100艘、乗員2500、逃げ帰った将軍はなお3人いて、特に1人の「唐人」が強大である、と証言した。翌年の寛平7年(895年)にも、新羅の賊が壱岐を襲撃し、官舎が焼かれた[101]

このような賊の来襲は、新羅滅亡後の高麗時代にも発生している。

後三国時代

915年頃の新羅の版図(水色)

有力な勢力となった農民出身の甄萱892年に南西部に後百済を、新羅王族の弓裔901年に北部に後高句麗を建て、後三国時代に入る。新羅の孝恭王は、これに対抗する事ができず酒色におぼれ、新羅の領土は日増しに削られて行き新羅は滅亡の道をたどることになる。

高麗の建国

後高句麗の武将であった王建は後百済との戦争で何度も勝利し、立派な人格で群臣たちの信望が厚かった。しかし弓裔には嫌われ、命を狙われそうなこともあった。弓裔は宮殿を再建したため、民衆の不満が高まった。また自分を弥勒菩薩と呼ばせて観心法で人の心を見ることができると言い、反対派を粛清した。王建は弓裔の暴政に対して政変を起こして弓裔を追放し918年高麗を興した。

新羅の景明王920年、王建と誼を通じて後百済に対抗したが、924年に亡くなった。次の景哀王は927年に宴会をしている最中、後百済の甄萱に奇襲を受け、殺された。その次の敬順王は甄萱により王位に就けられた。

後百済の政変と新羅滅亡

以降、高麗と後百済の戦争が続いたが、935年、後百済の王の甄萱が四男に王位を継がせようとすると、長男の甄神剣(後百済の第2代王)が反乱を起こし、甄神剣は甄萱を寺院に監禁し、王位を奪った。甄萱は935年6月、後百済から逃げ出して高麗に亡命した。王建は甄萱を国賓として迎えた。同935年11月、新羅の敬順王が君臣を挙げて高麗に帰順した。これにより新羅は滅亡した。

その後、高麗は翌年の936年に後百済を滅亡させ、朝鮮半島は高麗によって統一された。

民族

紀元前後の朝鮮半島は元来、粛慎挹婁沃沮濊貊等、各諸民族の混在地域である。その後、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人によって移民国家である辰韓が建国される[119]

魏志東夷伝』には、東アジアからも「陳勝などの蜂起、天下の叛秦、の民が数万口で、朝鮮に逃避した。」とあり、朝鮮半島は移民・渡来人の受け皿的役割を果たしていた。また隣国、百済・高句麗等の扶余系民族も国内に抱えていた。

隋書』東夷伝によると、新羅は「その人には華夏(中国)、高句麗、百済のたぐいが混じっている」という[120]

百済任那加羅・新羅地域においては、倭人特有の前方後円墳等の居住跡が発見にされていることから一定数の倭人が同地に居住していたとされる。


新羅国[1]
新羅國[2]


前57年 - 935年

(新羅の印章)

三国時代後半の576年頃の半島
公用語 新羅語
古代朝鮮語のひとつ)
宗教 仏教儒教道教巫俗
首都 金城(クムソン、現慶州市
新羅王
紀元前57年 - 4年 赫居世居西干
927年 - 935年敬順王
変遷
建国 紀元前57年
仏教伝来530年
真興王の領土拡大551年 - 585年
半島統一676年
滅亡935年
現在 韓国
北朝鮮
  1. ^ 『旧唐書』新羅伝
  2. ^ 舊唐書/卷199上

註釈

  1. ^ 武田幸男「隋唐帝国と古代朝鮮」, 339-340頁
  2. ^ a b 朝鮮史研究入門 2011, p. 62
  3. ^ a b c d e 田中 2008, p. 82
  4. ^ a b 三国史記』「新羅本紀」第一, 井上訳, p. 3
  5. ^ a b 朝鮮史研究入門 2011, p. 63
  6. ^ 岡田 2001, pp. 130
  7. ^ 岡田 2001, pp. 130
  8. ^ 岡田 2001, pp. 130
  9. ^ 岡田 2001, pp. 132
  10. ^ 岡田 2001, pp. 132
  11. ^ 岡田 2001, pp. 132
  12. ^ 『三国史記』「新羅本紀」井上訳, p. 30, 訳注5
  13. ^ 李 2000, pp. 72-73
  14. ^ a b 李 2000, p. 73
  15. ^ a b c d e f 李 2000, p. 74
  16. ^ 『三国史記』「新羅本紀」井上訳, p. 32, 訳注15
  17. ^ 『三国史記』「新羅本紀」井上訳, p. 4
  18. ^ a b 『三国史記』「新羅本紀」井上訳, pp. 407-408
  19. ^ 『三国史記』「新羅本紀」井上訳, p. 6
  20. ^ 『三国史記』「新羅本紀」井上訳, pp. 15-17
  21. ^ 『三国史記』「新羅本紀」井上訳, p. 18
  22. ^ 井上 2010, p. ₋413
  23. ^ a b 早乙女 2000, p. 209
  24. ^ 早乙女 2000, p. 211
  25. ^ 山本 2018, p. 79
  26. ^ 『三国史記』「新羅本紀」井上訳
  27. ^ a b 田中 1995, p. 30
  28. ^ 熊谷 2008, pp. 44-48
  29. ^ 木下、宮島 1993, pp. 193-236
  30. ^ a b c d 李 2000, p. 75
  31. ^ a b c 森 2006, p. 86
  32. ^ a b c 李 2000, p. 76
  33. ^ a b c d e 武田 1997, p. 340
  34. ^ a b 武田 1997, p. 341
  35. ^ a b 武田 1997, p. 343
  36. ^ 武田 1997, p. 342
  37. ^ 武田 1997, p. 348
  38. ^ a b 李 2000, pp. 77-78
  39. ^ a b c 李 2000, p. 78
  40. ^ a b c 李 2000, p. 85
  41. ^ 上田 2015, p. 185
  42. ^ 李 1998, pp. 290-293
  43. ^ 森 2006, p. 183
  44. ^ 李 2000, p. 87
  45. ^ 武田 1997, p. 363
  46. ^ a b 武田 1997, p. 364
  47. ^ 武田 1997, p. 365
  48. ^ 武田 1997, p. 370
  49. ^ a b c d e 武田 1997, p. 368
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  51. ^ 武田 1997, p. 371
  52. ^ 森 2006, pp. 227-233
  53. ^ a b c 武田 1997, p. 372
  54. ^ 武田 1997, p. 373
  55. ^ a b c d e 田中 1995, p. 39
  56. ^ a b c 武田 1997, p. 375
  57. ^ 武田 1997, p. 376
  58. ^ 武田 1997, p. 377
  59. ^ a b c 武田 1997, p. 380
  60. ^ a b 武田 1997, p. 381
  61. ^ a b c d 李 2000, p. 92
  62. ^ a b c 武田 1997, p. 382
  63. ^ a b c d e 李 2000, p. 93
  64. ^ a b c d e 武田 1997, p. 383
  65. ^ 李 2000, p. 100
  66. ^ a b c 武田 1997, p. 401
  67. ^ 武田 1997, p. 402
  68. ^ 李 2000, p. 101
  69. ^ a b c d e f 三国史記』新羅本紀の記述より。田中史生『越境の古代史』ちくま新書、152-153頁
  70. ^ 北山茂夫「持統天皇論」『日本古代政治史の研究』1959年, 202-203頁
  71. ^ 『日本書紀』持統天皇元年三月丙戌
  72. ^ 『日本書紀』持統天皇元年四月癸卯
  73. ^ 『日本書紀』持統天皇三年四月庚寅
  74. ^ 韓奈末許満等12人。『日本書紀』持統天皇四年二月壬申
  75. ^ 『日本書紀』持統天皇四年八月乙卯
  76. ^ 『続日本紀』霊亀元年七月丙午
  77. ^ 『続日本紀』天平五年六月丁酉
  78. ^ a b c d e f g h 吉田孝『日本の誕生』岩波書店1997
  79. ^ 『続古事談』巻5・『塵添壒嚢鈔』巻5第23
  80. ^ 随員の雪連宅満は新羅到着前に既に病没していること、『三国史記』でも遣新羅使の新羅到着前後から聖徳王を含めた新羅側要人急死の記事が現れていることから、遣新羅使出発段階で既に感染者がおり、その往復によって日羅両国に感染が拡大した可能性も指摘されている。笠原永遠男「遣新羅使と疫瘡」 笠原編『日本古代の王権と社会』塙書房、2010年
  81. ^ 和田軍一「淳仁朝に於ける新羅征討計画について(一)」 1924
  82. ^ 東野治之『正倉院』岩波書店1988
  83. ^ a b c d e 川尻秋生「日本の歴史|平安時代 揺れ動く貴族社会」小学館2008, 291頁
  84. ^ 「日本国使至。慢而無礼。王不見之。乃廻。」『三国史記
  85. ^ 岸俊男『藤原仲麻呂』261-292頁。
  86. ^ 網野善彦『日本社会の歴史(上)』岩波書店、1997年、酒寄雅志『渤海と古代の日本』校倉書房、2001年
  87. ^ 日本後紀』による
  88. ^ 東野治之『正倉院』岩波書店、1988年、ISBN 4004300428
  89. ^ 吉田孝『日本の誕生』岩波書店、1997年、ISBN 4004305101
  90. ^ 『三国史記』新羅本紀・敬順王紀に記される区分に基づく。
  91. ^ 反乱の主体が政治的に律令制・貴族連合制のどちらの推進派であったかについては井上秀雄著『古代朝鮮』。
  92. ^ 貴族連合体制復活派の反乱としていた井上秀雄も、廉相・正門らは律令推進派とする見方にのちに転じている。→井上訳注1980 p.315 注65
  93. ^ 井上1972 pp.229-231.
  94. ^ 王家の祖廟を五廟としたことについては『礼記』王制篇「天子七廟諸侯五廟」に基づく。
  95. ^ 『旧唐書』211・新羅伝・貞元元年其年条
  96. ^ 『日本後紀』巻十二 延暦二十三年九月己丑条
  97. ^ 井上秀雄1972 p.236.
  98. ^ 日本後紀』巻二十五(逸文)嵯峨天皇弘仁七年(816年)冬十月:「甲辰。大宰府言、新羅人清石珍等一百八十人帰化。」
    同八年(817年):「二月乙巳。大宰府言、新羅人金男昌等卌三人帰化。」
  99. ^ a b c d e 日本後紀』弘仁三年(812年)正月五日に出された勅における、12月28日の太宰府奏上
  100. ^ 日本紀略
  101. ^ a b c d e f g h i 瀬野精一郎『長崎県の歴史』山川出版社。
  102. ^ 「新羅の一百十人、五艘の船に駕り小近島に着き、土民と相戦う。即ち九人を打ち殺し、一百人を捕獲す」『日本紀略』弘仁四年(813年)3月18日の条、およびその前後に記録された長崎県五島小値賀島への入寇をめぐる諸事項。
  103. ^ 日本後紀』弘仁四年(813年)3月18日に大宰府言上。肥前国司の今月四月解。
  104. ^ 『日本後紀』弘仁五年八月丙寅
  105. ^ 日本後紀
  106. ^ 『紀略』弘仁十一年(820年)2月26日条
  107. ^ 『日本後紀』巻卅二逸文(『類聚国史』一五九口分田)天長元年五月癸未
  108. ^ 井上秀雄1972 p.238.
  109. ^ 『三国史記』巻三十三・雑志二・色服条
  110. ^ a b c d 川尻秋生「日本の歴史|平安時代 揺れ動く貴族社会」小学館2008, 292頁
  111. ^ 『三国遺事』王暦では、839年1月22日に死去したとしている。
  112. ^ 井上訳注1980 p.385 注13
  113. ^ 日本三代実録』巻十六、貞観十一年(869年)6月15日から十八年3月9日条。
  114. ^ a b c d 川尻秋生「日本の歴史|平安時代 揺れ動く貴族社会」小学館2008, 294頁
  115. ^ 『三代実録』貞観十二年九月十五日甲子
  116. ^ a b 川尻秋生「日本の歴史|平安時代 揺れ動く貴族社会」小学館2008, 265頁
  117. ^ →井上訳注 p.386 注24、p.387 注29
  118. ^ 日本紀略』『扶桑略記』寛平5年(893年)および六年(894年)の条
  119. ^ 辰韓、耆老自言秦之亡人、避苦役、適韓國、馬韓割其東界地與之。其名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴、相呼為徒、有似秦語、故或名之為秦韓。(辰韓、古老は秦の逃亡者で、苦役を避けて韓国に往き、馬韓は東界の地を彼らに割譲したのだと自称する。そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴(酒杯を廻すこと)と称し、互いを徒と呼び、秦語に相似している故に、これを秦韓とも呼んでいる。)
  120. ^ 宮脇淳子『世界史のなかの満洲帝国』PHP研究所PHP新書 387〉、2006年2月。ISBN 978-4569648804
  121. ^ 主簿は厳密には高句麗の3等官という序列ではないが、主簿に続けて高句麗官位と新羅官位の対比を記した『三国史記』職官志下の記述から、3等官に相当すると見られている(→武田編著2000 pp.94-95)。あわせて高句麗#官制を参照。
  122. ^ ハングル表記はko:신라의 관직を参照。
  123. ^ 「飡」の文字について、書籍では「飡(にすいに食)」とするものが多いが、朝鮮の金石文では「(さんずいに食)」とするものが多い。(→井上訳注1980、p.35)『三国史記』の底本については、奎章閣韓國學研究院の影印本が「飡(にすい)」とし、慶州重刊本(1512年)を1931年に影印とした古典刊行会本(学習院東洋文化研究所の学東叢書本)が「(さんずい)」としている。
  124. ^ 『三国史記』35・地理志・溟州条には、溟州はもとは高句麗の河西良であり、分注には何瑟羅とある。新羅本紀や異斯夫伝の本文には何瑟羅州の名で現れる。
  125. ^ 元の比列忽州、後の朔州に相当する州の687年時点の名称について、井上1972は牛首州とするが武田2000により首若州とする。なお、『三国史記』35・地理志・朔州条では朔州の由来を、本文は善徳女王6年(637年)に設置した牛首州とし、分注文武王13年(673年)に設置した首若州とする。同書・新羅本紀では、善徳女王・文武王の本紀記事には州の改称についての直接的な記事は見られず、景徳王の本紀における地名改称記事(景徳王16年(757年)12月条)では、首若州を朔州としたとしている。また、牛首州の別名として「烏根乃」の記述がある。
  126. ^ a b 『三国史記』新羅本紀・神文王6年2月条
  127. ^ 百済故地に対する所夫里州の設置とほぼ同年のことと考えられている。(→井上1972)
  128. ^ 『三国史記』36・地理志・全州条は、完山州の設置を真興王16年(555年)とし、同26年(565年)にいったん廃止、神文王5年(685年)に再設置したとするが、対応する真興王本紀の記事には州治を比斯伐(慶尚南道昌寧郡)としていたり、6世紀中頃には全羅道は未だ百済の支配下にあるために、は下州の誤りであると考えられている。(→井上1980)
  129. ^ 菁州は神文王5年に既存の州から分割設置されたことについて、『三国史記』新羅本紀・神文王紀では「居烈州」からの分割とし、同・地理志・康州条には、「居陁州」からの分割とする。
  130. ^ 景徳王によって改めて南原小京と改称されたわけではない。他の小京は『三国史記』地理志の各条に改称記事が見られるが、南原小京のみ改称の記事が見られない。
  131. ^ 田中俊明「朝鮮三国の交通制度と道路」館野和己・出田和久 編『日本古代の交通・流通・情報 1 制度と実態』(吉川弘文館、2016年) ISBN 978-4-642-01728-2 P294-302
  132. ^ 由水2001
  133. ^ 鈴木靖民「遣唐使研究と東アジア史論」専修大学東アジア世界史研究センター年報第4号2010年3月、61頁
  134. ^ 詳細は、日本の仏教仏教公伝を参照
  1. ^ 中原高句麗碑は、高句麗の新羅に対する優越、新羅が高句麗を宗主として仰ぎ臣従したこと、高句麗が新羅の領内で役夫あるいは軍夫を徴発し組織していたこと、そして朝鮮半島中南部にある現在の忠州市に軍を駐屯させていたことなどを伝える。しかし、年次部分が摩滅により判読に支障をきたしていること、また干支表記であるため60年の間隔を置いて同一の年次表記が行われることなどから碑文が作成された年代には諸説ある。5世紀後半説を取る学者が多いが、5世紀前半とする学者もいる。この問題については木下礼仁と宮島一彦が連名の論文にて詳細なまとめを行っている[29]
  2. ^ 『日本書紀』にはこれ以前の倭国と高句麗の交渉についての記述があるものの確証が得られるものではなく、この570年の高句麗からの遣使が高句麗と倭国の確実な外交関係形成の最初の物であるという点で多くの論者が一致している[41][42][43]。詳細は高句麗を参照。





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