Dian Weiとは? わかりやすく解説

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典韋Dian Wei

テンイ
テンヰ

(?~197
漢武校尉

陳留郡已吾の人。

立派な容貌人一倍膂力固い節義任侠心を持っていた。襄邑劉氏睢陽李永仇敵となったが、典韋は彼のために報復してやることにした。李永はもとの富春県長であり、警備きわめて厳しかった。典韋は車に鶏肉と酒を載せ挨拶をしたいと嘘をついて門を開けさせた。懐に匕首隠して中に入り李永とその妻を殺したおもむろに門を出ての上の刀戟を手に取り歩いて立ち去った李永市場近く住まいしていたので、市場中が大騒ぎとなり、追跡する者が数百人にものぼったが、あえて近付く者はいなかった。四・五里ほど行ったところで李永仲間に出くわしたが、典韋はあちらこちら暴れ回って脱出することができた。こうして豪傑たちに知られることになった

初平年間一九〇~一九四)、張邈義兵を挙げると典韋を兵士取り立て司馬趙寵に所属させた。牙門の旗は長大で、よく持ち上げられる人はいなかったが、典韋は片手立てることができた。趙寵は彼の才能力量目を見張った。のちに夏侯惇属し、しばしば首級挙げる戦功立て司馬任じられた。

興平元年一九四)、曹操濮陽呂布討伐したとき、呂布別働隊濮陽城の西四・五十里地点駐屯していた。曹操夜襲をかけ、明け方には撃ち破ったが、まだ帰還しないうちに呂布救援来て三方からゆさぶりをかけて攻撃してきた。そのとき呂布はみずから素手戦い日の出から午後にいたるまで数十合、激しくみあった曹操突撃隊募集すると典韋はまっさき進み出た。典韋は志願者数千人を率い、みな着物と鎧を重ね着し棄てて長矛だけを持って戦った

西側窮地になっていたので典韋は突き進んでぶつかったが、敵は弓弩乱発し、矢はのように降り注いだ。典韋は視力失ったので等人に言った。「敵が十歩まで来たら言ってくれ」、等人「十歩です」、典韋「五歩言え」、等人「敵が来ました」。典韋は手に十本あまりの戟を持ち大声叫びながら立ち上がった手応えとともに倒れない者はなく、呂布軍勢後ずさりした。ちょうど日暮れとなり、曹操はようやく撤退することができた。

典韋は都尉任じられ曹操左右に留め置かれ親衛隊数百人を統率していつも大帳周り固めた。典韋も雄壮であるうえに、配下兵卒もみな士卒から選抜された者たちだったので、戦闘になるといつも先鋒務めて敵陣を陥れた。典韋は校尉昇進した

性質忠誠無比いたって謹厳、いつも昼は日暮れまで立ち侍り、夜は帳の左右眠り自分屋敷帰って寝ることは稀だった。酒食好み飲み食い人一倍で、御前食膳賜るたびに大い飲み左右に数人がついてやっと間に合った曹操はこれを勇壮だと思った。典韋は大きな双戟と長刀などを愛用していたので、軍中では「帳下の壮士に典君がいて、一双八十斤を提げている」と言っていた。

建安二年(一九七)正月張繡曹操出迎えて降伏したとき、曹操は非常に喜んで張繡とその将帥招いて酒を振る舞った曹操が彼らに酒を注いでまわっているとき、典韋は刃渡り一尺もある大斧を持ってその後ろに立ち、斧を持ち上げて彼らを睨み付けた張繡以下の諸将は顔を上げて見ることができなかった。

それから十日余り張繡叛逆して曹操陣営襲撃した曹操陣営出て戦った負け戦となり、馬に乗って逃げ去った。典韋は門の内側戦って賊を入れなかった。そこで敵兵は他の門を探して入った。このとき典韋配下将校はまだ十人以上いたが、みな死に物狂い戦い一人十人相手にしない者はなかった。敵は進んだ退いたりするうち数を増やしたが、典韋が長戟を持って左右に暴れ回ると、一振りで十本以上の矛が打ち砕かれた。

左右にいて死傷した者もほとんどいなくなり、典韋は数十ヶ所も負傷していた。短い武器をもって接戦挑み、敵が進み出て彼を打とうとすると、典韋は両脇挟んで二人の敵を殺した。敵は進むことができなかった。典韋はまたもや突き進んで数人殺したが、傷口開き、目を怒らせて大声罵りながら死んだ敵兵はようやく近付いて彼の首を取り手に手に渡して見せ物にし、軍中みなが典韋の体を見物しに来た。

曹操舞陰まで引き返したところで典韋の死を知って涙を流し彼の遺体盗み出してくる者を募った曹操遺体返ってくると自ら哭礼を挙げ遺体襄邑送り返し、典韋の子典満郎中任じた車駕通り過ぎるたび、いつも中牢の生け贄祀った曹操は典韋を思い出し典満司馬任じて身近に引き寄せた

参照夏侯惇 / 曹操 / 張繡 / 張邈 / 趙寵 / 典満 / 李永 / 劉氏 / 呂布 / 已吾県 / 襄邑県 / 睢陽県 / 陳留郡 / 舞陰県 / 富春県 / 濮陽県 / 県長 / 校尉 / 司馬 / 都尉 / 郎中 / 牙門 / 牙門旗 / 哭礼 / 中牢 / 等人


典韋

(Dian Wei から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/01 12:59 UTC 版)

典韋
代の書物に描かれた典韋
後漢
校尉
出生 生年不詳
兗州陳留郡己吾県[1]
死去 建安2年(197年
拼音 Diǎn Wěi
主君 張邈曹操
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典 韋(てん い、2世紀頃 - 建安2年(197年[2])は、中国後漢末期の武将。曹操に仕えた。字は伝わっていない。兗州陳留郡己吾県(現在の河南省商丘市寧陵県)の人。子は典満。『三国志志「二李臧文呂許典二龐閻伝」に伝がある。

来歴

堂々とした体格で怪力、さらに固い節義と男気を有していた[1]

若い頃、襄邑の劉氏のために彼の仇であった李永を討つ事にした。李永は以前富春県長を務めていたため、厳重な警備をつけていた。典韋は懐に匕首を忍ばせ、表面上は普通の客を装っていたが、門を開かせるとたちまち李永を刺し殺し、ついでにその妻をも殺した。近所に市場があったため大騒ぎとなったが、しばらく誰も典韋に近づく者はおらず、遠巻きにして後をつけるのみであった。やがて典韋は敵の仲間に出くわしたものの、あちこちで戦って脱出に成功した。この一件で豪傑として知られるようになった[3]

初平年間に張邈が挙兵すると、その司馬の趙寵に兵士として仕えた。誰も持ち上げられなかった牙門の旗を片手で持ちあげたので、趙寵に一目おかれるようになった。後に曹操軍の夏侯惇配下となり、何度か戦功を挙げ、司馬となった[4]

濮陽呂布と曹操が戦ったとき、典韋は数十人の突撃隊を率いて、短戟を手に矢の雨の中で奮戦し呂布軍を防ぎ止めた。都尉となり、曹操の親衛隊であった精鋭数百人を率い、戦闘のたびに先鋒として敵陣を陥れた。これらの功績により昇進して武猛校尉となった[5]

忠心があり謹み深い性格だった。昼はずっと曹操の傍で侍立し、夜は帳の左右で宿衛したため、自らの家に帰って寝る事は殆どなかった。飲み食いの量は人の倍で、御前で食膳を賜る時は左右から酒を注がせ、給仕を数人に増やしてやっと間に合うほどだった。大きな双戟(双鉄戟)と長刀などを愛用し「帳下の壮士に典君あり。一双戟八十斤[6]を提ぐ」と囃された[7]

建安2年(197年)春正月、曹操が荊州張繡を征伐し降伏させた時も、典韋は従軍した(「武帝紀」)。酒の席で一尺ほどの大斧を持って張繡たちを睨みつけたため、誰も顔を上げられなかったという[8]

その後、張繡が謀反を起こすと、曹操を逃がすべく部下達とともに戦った。典韋が守っていた陣門には敵が侵入できなかったが、敵は他の門から陣に侵入した。典韋と十数人の部下は多数の敵に囲まれたが、みな一人で十人を相手にした。典韋が鉄戟を一振りすると、敵の矛が十数本砕かれた。いよいよ部下が死に絶え、自身も数十の傷を負ったが、典韋は敵二人を両脇に挟んで撃殺した。これを見た敵は近づくことができなかった。典韋は最後、突進し数人を殺してから、目を怒らせて口をあけ、大声で罵りながら死んだ。敵は恐れながら近付いて典韋の首を取り、全員でその遺体を見物したという[9]

曹操は舞陰で典韋の死を聞くと涙を流し、子である曹昂の死以上に悲しみ、遺体を取り戻すために志願者を募った。曹操は告別式で泣き、棺を陳留郡襄邑に送り届けさせた。その後、曹操は戦死した場所を通るたびに典韋を弔い、彼の子である典満を郎中とし、後に司馬に採り立てて側に置いた[10]

正始4年(243年)秋7月、曹芳(斉王)は詔勅を下し、曹操の廟庭に功臣20人を祭った。典韋は校尉という高くはない地位であったにもかかわらず、この中に含まれている(「斉王紀」)[11]

陳寿は、許褚と典韋が曹操の左右を警護したことは、漢の樊噲に準えると評している[12]

物語中の典韋

小説『三国志演義』では、張邈配下であったが他の者と衝突し、殺人を犯して山中に逃亡する。虎を追いかけていたところを夏侯惇に見出され推挙される[13]。また、黄巾の残党何儀を捕らえようとしたところに許褚が現れて、身柄を争う[14]。その怪力から曹操に「古の悪来のようである」と言われている。因みに張繡反乱の際には、張繡軍の胡車児に酒で酔わされた隙に武器を奪われたため、敵の武器を奪って戦うが、敵の弓兵の一斉射撃を全身に浴び、直立不動のまま息絶えたことにされている[15]

脚注

  1. ^ a b  三國志 魏書·二李臧文吕许典二庞阎传傳 (中国語), 三國志/卷18#典韋, ウィキソースより閲覧。  - 典韋,陳留己吾人也。形貌魁梧,旅力過人,有志節任俠。
  2. ^ de Crespigny, Rafe (2007). A biographical dictionary of Later Han to the Three Kingdoms (23–220 AD). Brill. p. 138. ISBN 978-90-04-15605-0 
  3. ^  三國志 魏書·二李臧文吕许典二庞阎传傳 (中国語), 三國志/卷18#典韋, ウィキソースより閲覧。  - 襄邑劉氏與睢陽李永為讎,韋為報之。永故富春長,備衛甚謹。韋乘車載雞酒,偽為候者,門開,懷匕首入殺永,並殺其妻,徐出,取車上刀戟,步(出)。永居近巿,一巿盡駭。追者數百,莫敢近。行四五里,遇其伴,轉戰得脫。由是為豪傑所識。
  4. ^  三國志 魏書·二李臧文吕许典二庞阎传傳 (中国語), 三國志/卷18#典韋, ウィキソースより閲覧。  - 初平中,張邈舉義兵,韋為士,屬司馬趙寵。牙門旗長大,人莫能勝,韋一手建之,寵異其才力。後屬夏侯惇,數斬首有功,拜司馬。
  5. ^  三國志 魏書·二李臧文吕许典二庞阎传傳 (中国語), 三國志/卷18#典韋, ウィキソースより閲覧。  - 太祖討呂布於濮陽。布有別屯在濮陽西四五十里,太祖夜襲,比明破之。未及還,會布救兵至,三面掉戰。時布身自搏戰,自旦至日昳數十合,相持急。太祖募陷陳,韋先佔,將應募者數十人,皆重衣兩鎧,棄楯,但持長矛撩戟。時西面又急,韋進當之,賊弓弩亂發,矢至如雨,韋不視,謂等人曰:「虜來十步,乃白之。」等人曰:「十步矣。」又曰:「五步乃白。」等人懼,疾言「虜至矣」!韋手持十餘戟,大呼起,所抵無不應手倒者。布眾退。會日暮,太祖乃得引去。拜韋都尉,引置左右,將親兵數百人,常繞大帳。韋既壯武,其所將皆選卒,每戰鬥,常先登陷陳。遷為校尉。。
  6. ^ 「双戟」と言う言葉には「槍の両側に三日月形の月牙が付いた両刃の戟」という意味と「両手に1本ずつ持つ片手持ちの短い戟2本」の意味がある。しかし前者の意味だと演義で呂布が持つ方天画戟に関する表現であり、実際の後漢時代にはまだ方天画戟が存在しなかった(後漢時代の戟は槍に戈を組み合わせた片鎌槍のような形状の武器)事から、正史に記載されているこの表現は後者の意味と分かる。ちなみに漢代の一斤は約226.6gであり、八十斤=約18.1kgとなるが、「百度百科(中国語のサイト)」によれば典韋は右手に四十一斤(約9.3㎏)、左手に三十九斤(約8.8㎏)で合計八十斤の双鉄戟を持っていたとある。https://baike.baidu.com/item/%E5%8F%8C%E9%93%81%E6%88%9F/596305
  7. ^  三國志 魏書·二李臧文吕许典二庞阎传傳 (中国語), 三國志/卷18#典韋, ウィキソースより閲覧。  - 性忠至謹重,常晝立侍終日,夜宿帳左右,稀歸私寢。好酒食,飲啖兼人,每賜食於前,大飲長歠,左右相屬,數人益乃供,太祖壯之。韋好持大雙戟與長刀等,軍中為之語曰:「帳下壯士有典君,提一雙戟八十斤。」
  8. ^  三國志 魏書·二李臧文吕许典二庞阎传傳 (中国語), 三國志/卷18#典韋, ウィキソースより閲覧。  - 太祖徵荊州,至宛,張繡迎降。太祖甚悅,延繡及其將帥,置酒高會。太祖行酒,韋持大斧立後,刃徑尺,太祖所至之前,韋輒舉斧目之。竟酒,繡及其將帥莫敢仰視。
  9. ^  三國志 魏書·二李臧文吕许典二庞阎传傳 (中国語), 三國志/卷18#典韋, ウィキソースより閲覧。  - 後十餘日,繡反,襲太祖營,太祖出戰不利,輕騎引去。韋戰於門中,賊不得入。兵遂散從他門併入。時韋校尚有十餘人,皆殊死戰,無不一當十。賊前後至稍多,韋以長戟左右擊之,一叉入,輒十餘矛摧。左右死傷者略盡。韋被數十創,短兵接戰,賊前搏之。韋雙挾兩賊擊殺之,餘賊不敢前。韋復前突賊,殺數人,創重發,瞋目大罵而死。賊乃敢前,取其頭,傳觀之,覆軍就視其軀。
  10. ^  三國志 魏書·二李臧文吕许典二庞阎传傳 (中国語), 三國志/卷18#典韋, ウィキソースより閲覧。  - 太祖退住舞陰,聞韋死,為流涕,募間取其喪,親自臨哭之,遣歸葬襄邑,拜子滿為郎中。車駕每過,常祠以中牢。太祖思韋,拜滿為司馬,引自近。文帝即王位,以滿為都尉,賜爵關內侯。
  11. ^  三國志 魏書·三少帝紀 (中国語), 三國志/卷04#齊王, ウィキソースより閲覧。  - 秋七月,詔祀故大司馬曹真、曹休、征南大將軍夏侯尚、太常桓階、司空陳羣、太傅鍾繇、車騎將軍張郃、左將軍徐晃、前將軍張遼、右將軍樂進、太尉華歆、司徒王朗、驃騎將軍曹洪、征西將軍夏侯淵、後將軍朱靈、文聘、執金吾臧霸、破虜將軍李典、立義將軍龐德、武猛校尉典韋於太祖廟庭。
  12. ^  三國志 魏書·二李臧文吕许典二庞阎传傳 (中国語), 三國志/卷18#【評】, ウィキソースより閲覧。  - 許褚、典韋折衝左右,抑亦漢之樊噲也。
  13. ^  『三國演義』第十回 勤王室馬騰舉義 報父讎曹操興師 (中国語), 三國演義/第010回, ウィキソースより閲覧。 
  14. ^  『三國演義』第十二回 陶恭祖三讓徐州 曹孟德大戰呂布 (中国語), 三國演義/第012回, ウィキソースより閲覧。 
  15. ^  『三國演義』第十六回 呂奉先射戟轅門 曹孟德敗師淯水 (中国語), 三國演義/第016回, ウィキソースより閲覧。 


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