趙 治勲

プロフィール
棋戦主要履歴
- 昭和44年~48年(1969年~1973年)
- 大手合33連勝
- 昭和48年(1973年)
- 第5回新鋭トーナメント優勝☆初タイトル獲得
- 昭和50年(1975年)
- 第12期プロ十傑戦優勝
- 昭和51年(1976年)
- 第24期王座戦で大竹英雄王座を2-1で破りタイトル奪取
- 昭和54年(1979年)
- 第4期碁聖戦で大竹英雄九段を3-0で破りタイトル奪取。
- 昭和55年(1980年)
- 第5期名人戦で大竹英雄名人を4-1(1無勝負)で破りタイトル奪取
- 昭和56年(1981年)
-
第36期本因坊戦で武宮正樹本因坊を4-2で破りタイトル奪取
第6期名人戦で加藤正夫九段を4-0で破り防衛。 - 昭和57年(1982年)
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第7期名人戦で大竹英雄九段を4-1で破り防衛。
第37期本因坊戦で小林光一九段を4-2で破り防衛。
第20期十段戦で大竹英雄九段を3-1で破りタイトル奪取。
名人、本因坊、十段、鶴聖の四冠 - 昭和58年(1983年)
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第7期棋聖戦で藤沢秀行棋聖を4-3で破りタイトル奪取
第8期名人戦で大竹英雄九段を4-1で破り防衛。
☆史上初めて棋聖、名人、本因坊の三大タイトルを独占
第30回NHK杯優勝。 - 昭和59年(1984年)
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第9期名人戦で大竹英雄挑戦者を3連敗後4連勝で破り防衛
☆5連覇達成。名誉名人資格を得る。
第3期NECカップ優勝。
第8期棋聖戦で林海峯九段を4-2で破り防衛 - 昭和60年(1985年)
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第9期棋聖戦で武宮正樹九段を4-3で破り防衛。
第4期NECカップ優勝。 - 昭和61年(1986年)
- 第11期碁聖戦で大竹英雄九段を3-0で破りタイトル奪取。
- 昭和62年(1987年)
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第13期天元戦で小林光一天元を3-2で破る。
☆史上初のグランドスラム(七大タイトル制覇)を達成 - 昭和63年(1988年)
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第14期天元戦で苑田勇一九段を3-2で破る。
第26期十段戦で加藤正夫九段を3-2で破りタイトル奪取。 - 平成元年(1989年)
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第44期本因坊戦で武宮正樹本因坊を4-0で破りタイトル奪取
第27期十段戦で林海峯九段を3-0で破り防衛。 - 平成2年(1990年)
- 第45期本因坊戦で小林光一九段を4-3で破り防衛。
- 平成3年(1991年)
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第46期本因坊戦で小林光一九段を4-2で破り防衛。
第1回竜星戦優勝。
第4回世界選手権富士通杯優勝。 - 平成4年(1992年)
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第47期本因坊戦で小林光一九段を4-3で破り防衛。
第39回NHK杯優勝。 - 平成5年(1993年)
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第48期本因坊戦で山城宏九段を4-1で破り防衛。
第3回竜星戦優勝。 - 平成6年(1994年)
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第18期棋聖戦で小林光一棋聖を4-2で破りタイトル奪取
第49期本因坊戦で片岡聡九段を4-3で破り防衛。
第42期王座戦で加藤正夫九段を3-2で破りタイトル奪取。 - 平成7年(1995年)
- 第50期本因坊戦で加藤正夫九段を4-1で破り防衛。
- 平成8年(1996年)
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第20期棋聖戦で小林覚棋聖を4-3で破りタイトル奪取
第21期名人戦で武宮正樹名人を4-1で破りタイトル奪取
★11年ぶりに名人を奪取。二度目の大三冠を達成。
第51期本因坊戦で柳時熏七段を4-2で破り防衛。
第43回NHK杯優勝。 - 平成9年(1997年)
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第21期棋聖戦で武宮正樹九段を4-3で破り防衛。
第22期名人戦で小林光一九段を4-2で破り防衛。
第52期本因坊戦で加藤正夫九段を4-0で破り防衛。 - 平成10年(1998年)
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第53期本因坊戦で王立誠九段を4-2で破り防衛
☆本因坊10連覇達成。二十五世本因坊となる。
第22期棋聖戦で依田紀基九段を4-2で破り防衛。
第23期名人戦で王立誠九段を4-2、1無勝負で破り防衛。 - 平成11年(1999年)
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第24期名人戦で依田紀基九段を4-1で破り防衛で四連覇。
第23期棋聖戦で小林光一九段を4-2で破り防衛。 - 平成12年(2000年)
- 第19期NECカップ優勝。
- 平成13年(2001年)
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第49期王座戦で王立誠九段を3-0で破りタイトル奪取。
第20期NECカップ優勝。 - 平成14年(2002年)
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第35回早碁選手権優勝
第9期阿含・桐山杯優勝
☆タイトル獲得65となり二十三世本因坊栄寿を抜き史上1位。 - 平成15年(2003年)
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第8回三星火災杯決勝で韓国の朴永訓四段に2-1で勝ち優勝
☆国際棋戦で12年ぶりの優勝 - 平成16年(2004年)
- 第2回JALスーパー早碁優勝。
- 平成17年(2005年)
- 第43期十段戦で王立誠十段を3-2で破り十段位を獲得。
- 平成18年(2006年)
- 第44期十段戦で山下敬吾棋聖を3-1で破り防衛。
- 平成19年(2007年)
-
第54回NHK杯優勝。☆通算70個目のタイトル獲得。
第45期十段戦で山下敬吾棋聖王座を3-2で破り防衛。3連覇。 - 平成20年(2008年)
- 第32期棋聖戦挑戦者
- 平成22年(2010年)
- 第17期阿含・桐山杯準優勝
- 平成23年(2011年)
- 第1回マスターズカップ優勝
- 平成26年(2014年)
- 第4回マスターズカップ優勝
- 平成27年(2015年)
- 第5回マスターズカップ優勝。☆2連覇
- 平成28年(2016年)
- 第23期阿含・桐山杯準優勝
- 平成29年(2017年)
- 第7回マスターズカップ準優勝
- 令和元年(2019年)
- 第9回マスターズカップ優勝
受賞歴
囲碁関連受賞履歴
- 昭和55年(1980年)
- 秀哉賞受賞、棋道賞最優秀棋士賞
- 昭和56年(1981年)
- 秀哉賞受賞、棋道賞最優秀棋士賞
- 昭和57年(1982年)
-
秀哉賞受賞、棋道賞最優秀棋士賞
☆3年連続受賞 - 昭和61年(1986年)
- ジャーナリストクラブ賞、テレビ囲碁番組制作者会賞
- 平成8年(1996年)
- 秀哉賞、棋道賞最優秀棋士賞
- 平成9年(1997年)
- 秀哉賞、棋道賞最優秀棋士賞
- 平成10年(1998年)
- 秀哉賞、棋道賞最優秀棋士賞
- 平成11年(1999年)
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秀哉賞、棋道賞最優秀棋士賞
秀哉賞受賞通算9回 ☆史上最多受賞
棋道賞最優秀棋士賞通算9回 ★史上最多受賞 - 平成15年(2003年)
- 棋道賞国際賞
- 平成16年(2004年)
- 棋道賞特別賞
- 平成19年(2007年)
- 棋道賞優秀棋士賞
- 平成11年(1999年)
- 通算1000勝達成
- 平成17年(2005年)
- 通算1200勝達成
- 平成20年(2008年)
- 通算1300勝達成
- 平成24年(2012年)
- 通算1400勝達成
- 平成29年(2017年)
- 通算1500勝達成(史上初)
その他受賞履歴
著書一覧
「お悩み天国~治勲の爆笑人生相談室~」(日本棋院)
「お悩み天国2~治勲の爆笑人生相談室~」(日本棋院)
「お悩み天国3~治勲の爆笑人生相談室~」(日本棋院)
「ひと目の2択 石の形編」(マイナビ)
「ひと目の手筋 レベルアップ編」(マイナビ)
「よく分かるヨセの基本」(日本棋院)
「基本死活事典(上)(下)」(日本棋院)
「ひと目の詰碁 レベルアップ編」(マイナビ)
「ひと目の攻め合い」(マイナビ)
「ひと目のコウ やさしい問題で弱点克服!」(マイナビ)
「ひと目の攻めと守り」(マイナビ)
「ひと目の総合問題 布石からヨセまで全200題」(マイナビ)
「ひと目の定石 ~やさしい問題で基礎体力アップ~」(マイナビ)
「初段突破! ひと目の布石」(マイナビ)
「ひと目の手筋」(マイナビ)
「ひと目の詰碁」(マイナビ)
「ひと目の布石 ~やさしい問題で基礎体力アップ~」(マイナビ)
「趙治勲流 1 地取り戦法」(マイナビ)
「三々の周辺」(日本棋院)
他多数
趙芝薫
(Cho Chi-hun から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/13 02:28 UTC 版)
趙芝薫 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 조지훈 |
漢字: | 趙芝薰 |
発音: | チョ・ジフン |
日本語読み: | ちょうしくん |
趙 芝薫(チョ・ジフン、1920年12月3日 ‐ 1968年5月17日)は、朝鮮の詩人、国文学者。本名は趙東卓(チョ・ドンタク、조동탁)。本貫は漢陽趙氏。青鹿派の一詩人として伝統への郷愁を詠った。高麗大の教授として国文学の研究に従事し、『韓国民族運動史』、『韓国文化史序説』等の研究書を残したことも大きな業績である。
略歴
1920年12月3日、慶尚北道英陽郡日月面主谷洞202番地に生まれる。父の趙憲泳は後に制憲国会議員と第2代国会議員になるが、朝鮮戦争のときに拉致された[1]。母は全州李氏。兄の趙東振も詩人である。趙は幼い頃から17歳まで祖父に漢文を学び、普通学校には3年通っただけであった。当時の文士が新教育を受けるために日本に留学したり、近代教育を実践する学校に通ったりしたのにたいして、趙は漢文という朝鮮の伝統的教育を受けて育った。このことが、趙の朝鮮的情感を豊かにする助けとなったと言える。しかし、新文学の雑誌等を読むことで、当時流行していたプロレタリア文学に敏感に反応し、8歳でプロレタリア思考の童謡を作っている。
1936年、上京し、呉一島の経営する詩苑社に入り、詩文学派の影響を受けながら習作する。ボードレール、ドストエフスキー、フローベール、ワイルド等に耽溺し、また民族文化についての学術書を読み始める。1939年、父が上京してきて明倫洞に住むと、趙は父と生活する。同年、恵化専門学校文科に入学する。恵化専門学校の授業中、落書きのつもりで書いた詩「古風衣裳」をそのまま封筒に入れて投函したのが『文章』の選者、鄭芝溶の目に留まった。これにより、趙は詩人として文壇にデビューする。1940年には同人誌『白紙』を発刊するが、同人達が検挙されたために3号までで廃刊となった。
1940年、宣城金氏の娘、金蘭姫と結婚する。1941年、恵化専門学校を卒業すると、江原道の五台山にある月精寺に赴き、仏教講院の外典講師になり、ここで禅を学んだ。その後、趙の詩は情緒と主観を排した無奇妙主義と言われる傾向に変わっていく。趙の健康はこの頃から悪化し、1941年秋には下山してソウルに戻った。朝鮮語学会の『大辞典(큰사전)』の編纂にあたる予定であったが、1942年に日帝の一斉検挙(朝鮮語学会事件)があり、編纂事業は中断された。趙は会員でなかったために検挙を免れた。1943年、故郷に戻り1945年の解放まで郷里で過ごす。密かに青年会を組織しハングルを教えていた。
1945年8月15日、解放を迎えると、趙は9月に上京する。朝鮮文化建設協会会員や明倫専門学校の講師になり、またハングル学会の教本、震檀学会の国史教本の編纂員として国文学の教育に参加する。1946年6月、朴斗鎮、朴木月らと三人詩集『青鹿集』(乙酉文化社)を刊行する。これをもって、趙等は「青鹿派」と呼ばれるようになる。趙は1947年に高麗大学校の教授に就任すると20年間、高麗大で教鞭を執った。1963年、高麗大に民族文化研究所が設置されると、初代所長に就任し、『韓国文化体系』を企画、編纂し、その第1巻として『韓国民族運動史』を執筆した。さらに『韓国文化史序説』を執筆し、高い評価を得ている。病魔が趙の身体を蝕み、講義は休みがちであったが、趙の講義は学生達に好評で多くの弟子が趙から育った。
1968年2月、終に病に倒れる。吐血がひどく、5月16日にメディカルセンターに入院するが、すでに手遅れであった。1968年5月17日午前5時40分、気管支拡張のため、死亡する。その遺骸は同月21日、京畿道楊州郡磨石里(現在の南楊州市)松羅山の麓に埋葬された。1972年、ソウル南山に詩「芭蕉雨」が刻まれた「趙芝薫詩碑」が建てられた。
外交官、元国連大使の趙兌烈は三男[2]。元国会議長の朴浚圭は従姉妹の夫[3]。
年譜
- 1920年12月3日、慶尚北道英陽郡日月面主谷洞に生まれる。
- 1922年、主谷洞218番地に引っ越す。
- 1928年、8歳で童謡を作る。
- 1936年、漢城に上京し、『詩苑』の同人として習作する。
- 1939年4月、文学誌『文章』に詩「古風衣裳」が推薦掲載され、文壇にデビュー。
- 1939年、恵化専門学校文科に入学。ソウルの明倫洞に住む。
- 1940年、同人誌『白紙』を発刊。
- 1940年、宣城金氏の娘、金蘭姫と結婚。
- 1941年、恵化専門学校を卒業。
- 1941年、江原道の五台山月精寺の仏教専門講院の講師になる。
- 1941年秋、再び上京。
- 1942年3月、朝鮮語学会の「大辞典」編纂員になる。城北区城北洞60の44番地に引っ越す。
- 1843年秋、故郷に戻る。
- 1945年9月、みたび上京。朝鮮文化建設協会会員。明倫専門学校の講師。ハングル学会の教本、震檀学会の国史教本の編纂員。
- 1945年、長男、光烈が生まれる。
- 1946年、京畿女子高等学校の教師を務める。
- 1946年、全国文筆家協会中央委員、青年文学協会古典文学部長になる。
- 1947年、東国大学校の講師、高麗大学校文化大学の教授を勤める。
- 1947年、全国文化団体創立委員になる。
- 1948年、次男、学烈が生まれる。
- 1949年、韓国文学家協会創立委員になる。
- 1950年7月、文総救国隊企画委員の委員長になる。
- 1951年、従軍文人団の副団長になる。
- 1952年、長女、恵璟が生まれる。
- 1955年、三男、兌烈が生まれる。
- 1956年、自由文学賞を受賞する。
- 1959年、民権守護国民総連盟中央委員、公明選挙推進全国委員会中央委員になる。
- 1961年9月、国際詩人ベルギー会議に韓国代表として参加する。
- 1963年、高麗大学校民族文化研究所の初代所長になる。
- 1964年、東国大学校の東国訳経院委員になる。
- 1966年、民族文化推進委員会編集委員になる。
- 1967年、韓国詩人協会の会長、韓国新詩60年記念事業会の会長になる。
- 1968年5月17日、午前5時40分、メディカルセンターで気管支拡張のため死亡。
作品
- 1946年6月、詩集『青鹿集』(乙酉文化社)
- 1952年、詩集『草葉断章』
- 1956年、詩集『趙芝薫詩選』(正音社)
- 1959年、詩集『歷史 앞에서』(新丘文化社)
- 1964年、詩集『餘韻』
脚注
- ^ “대한민국헌정회”. rokps.or.kr. 2023年7月28日閲覧。
- ^ “탄생 100주년 ‘승무’ ‘낙화’의 시인 조지훈” (朝鮮語). monthly.chosun.com (2020年6月2日). 2023年7月28日閲覧。
- ^ “박준규 국회의장 재치있는 8선…정치감각 탁월” (朝鮮語). 매일경제 (1992年6月29日). 2023年9月6日閲覧。
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