阪神入団~ブレイザーとの確執
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「岡田彰布」の記事における「阪神入団~ブレイザーとの確執」の解説
上記のように、東京六大学野球史に残る記録を次々に樹立したためにプロ野球各球団の岡田獲得競争は一気に過熱、ドラフト会議の目玉となった。岡田は10月29日のプロ入り表明会見の席において希望球団を問われ、「(地元の)阪神だったら最高ですが、阪急(ブレーブス)などの在阪球団を希望している。その他の球団ならば、指名時に考えてみる。しかし、フロントがしっかりして優勝を争える球団なら行きたい」「巨人、西武も優勝を狙えるし、良いですね」と答えた。しかし、後年のインタビューでは「僕が一人っ子だったことで母が『関西に帰ってきて欲しい』と思っていたから、実際は阪神だけでなく阪急・近鉄・南海という関西の球団ならどこでもよかった」と語っている。ドラフトでは当時史上最多となる6球団が岡田を1位指名したが、抽選の結果、阪神が交渉権を獲得、岡田の阪神入団が決まった。契約金6,000万円、年俸480万円。 1980年春季キャンプで監督のドン・ブレイザーは「オカダはまだ新人。じっくり鍛えたほうが良い」という考えで、二塁や外野の練習をさせていた。岡田はブレイザーとの初対面の際に、通訳兼コーチの市原稔を介して「いくら力のあるルーキーでも、メジャーでは最初から試合に起用することは無い」と告げられたが、岡田は「そんなん関係ないやん」という反骨心が芽生えたと著書に記している。しかし当時の野手陣には三塁手に「ミスター・タイガース」掛布雅之、遊撃手として岡田が入団する前年に太平洋クラブライオンズ→クラウンライターライオンズから加入して、後に岡田の後任で阪神監督を務める真弓明信、二塁手に中村勝広・榊原良行と、ヤクルトスワローズから獲得したデーブ・ヒルトン、一塁手に真弓が加入前まで遊撃手だった藤田平がおり、岡田の入る場所は無かった。しかも、ヒルトンはアリゾナキャンプの途中からチームに合流したため、二塁へのコンバート計画を聞いていた岡田は「なぜ二塁手のヒルトンを獲得するのか」と複雑な気持ちになり、まもなくブレイザーからは外野の練習をするように指示されたという。 1980年の先発内野手は、一塁手ヒルトン、二塁手加藤博一、三塁手掛布雅之、遊撃手真弓明信の布陣でスタートした。ヒルトンはオープン戦で特大本塁打を放ったがシーズン開幕直後から打撃不振に陥ったものの守備面が評価されて起用され続け、その後、掛布が負傷離脱した4月19日、20日も岡田の起用が見合わせられたため(この時、岡田も負傷していたという説もある)、ファンの間から「なぜ岡田を出さない」という不満が盛り上がり、ファンの一部からはヒルトンやブレイザーを悪者扱いし、更には妊娠中の妻が同乗していたヒルトンの車を取り囲み罵声を浴びせ、車を蹴るといった嫌がらせが激しくなった。4月22日の対大洋戦前に小津正次郎球団社長がブレイザー監督と2時間会談して説得し、その日以降は岡田が三塁手で起用された。ヒルトンは18試合出場、打率.197、本塁打0本の不振から抜けられずに5月10日に解雇された。阪神球団は新たにブルース・ボウクレア外野手を獲得したが、これに反対するブレイザーと球団の関係が極度に悪化し、5月15日、球団は不明瞭な形でブレイザーを解任し、コーチだった中西太に監督を交代させた。掛布が復帰した5月17日以降は二塁手で起用され新人王に繋がったが、自らの力でチャンスを掴みたかったので、当時ヒルトンが出場する度に「オカダ・オカダ」とコールが湧いたことに対して、後年のインタビューで「あの岡田コールは嫌だった」と苦言を呈している。また、後年、ブレイザーに親しい人物からブレイザーの「憎くて使わなかったのではなく、期待されて入団してきたルーキーだから余分な力みを生まない楽なところから使ってやりたかった。だから時期がずれた」というコメントを伝えられ、「今となればこのメッセージはある程度、理解できるようになった。ブレイザーもかなり悩んだのだろうし、考えたのだろう。自分も監督になり、そのことはよくわかった」と著書に記している。 この年、オールスターゲームの第1戦において22歳7か月で代打本塁打を放ったが、これは2015年の第2戦で19歳11か月だった森友哉が代打本塁打を放つまでオールスターでの代打本塁打の最年少記録だった。 ブレイザー監督とヒルトン退団の遠因となったこの年の岡田のポジションは、掛布雅之が故障したことで三塁手が最も多く、二塁手、一塁手でも出場している。打順は前半の8番から次第に順番が繰り上がり、終盤は5番で起用された。 1981年には初めて全130試合に出場し、20本塁打を残す。ポジションは二塁手に固定された。 1982年に安藤統男監督が就任し、初の打率3割を記録した。 1983年も開幕から79試合で18本塁打を記録し、本塁打王争いにも加わっていたが、7月10日の対広島戦で右大腿二頭筋を断裂し、残りのシーズンを棒に振る。以後、脚部の負傷に悩まされることになる。岡田が離脱した二塁手に遊撃手だった真弓明信が入り、空いた遊撃手は平田勝男が入った。 1984年、5月19日対広島戦から先発に復帰した。当初二塁手を中心にランディ・バースの帰国時などに時折一塁手も守るという形だったが、後半戦は主に右翼手で起用された。打撃は打率.297、本塁打15本、51打点と、故障明けとしては悪くない成績を残している。 1985年、吉田義男監督が就任し、真弓と入れ替わり、再び二塁手に戻る。4月17日、甲子園での対巨人戦で、バース・掛布に続きバックスクリーン3連発の締めを打った。この時、バース・掛布と続いた後の岡田の打席にかかるプレッシャーは大きく、「ヒットで良いという考えはなかった。こうなったらホームランを狙うしかないやろう。絶対、スライダーしかないな!」と後に振り返っている。また、バックスクリーン3連発前日の対巨人戦でも、1-2で迎えた4回裏二死、四球で出塁した岡田は、佐野仙好が放った平凡なフライを遊撃手河埜和正が落球する間に一塁から一気に本塁生還し、大量7点の猛攻へと繋げる活躍を見せている。監督の吉田義男も「あの岡田の全力疾走が大きかった」と評価した。 同年8月12日、当時の球団社長だった中埜肇が日本航空123便墜落事故で死亡するという悲劇が起こった。特に阪神ナインの中でも中埜に目をかけてもらい、自らも“飛行機派”と称していた岡田の受けたショックは大きかったという。8月は打率.429・10本塁打・31打点の活躍でプロ入り初の月間MVPを受賞。更に9月15日の甲子園での対中日戦ではサヨナラ2点本塁打、翌16日にもサヨナラ中前打を放ち、2試合連続サヨナラ打を記録する。最終的に選手会長兼5番打者として、バースに次ぐリーグ2位の打率.342・リーグ4位の35本塁打・リーグ5位の101打点という自己最高の好成績を残し、真弓・バース・掛布らとともに球団初の日本一に貢献した。 1986年は前年と同じく5番二塁手で開幕戦に先発出場すると、4月後半に掛布が故障離脱したのに伴い4番打者に抜擢された。5月半ばに掛布が復帰すると5番に戻るが、この年の掛布は再離脱を繰り返したため8月末以降はシーズン終了まで4番打者を務めた。9月3日に父を亡くしたが、翌9月4日の対大洋戦に出場して本塁打を放った。前年よりは数字を落としたが、打率.268、本塁打26本、打点70と主軸打者に相応しい成績を残した。 1987年は打率2割5分台・本塁打14本とチームの不振を語るような成績になるが、その後は3年連続20本塁打を記録した。 1988年に村山実監督が就任し、開幕時は5番二塁手で、5月以降は4番二塁手で起用された。打率.267、本塁打23本、打点72と打撃成績が復調した。 1989年、掛布の引退に伴い、大学時代に守っていた三塁手にコンバートされた。6月25日の甲子園での対巨人戦、1-4で迎えた8回裏二死満塁で、ビル・ガリクソンから左翼ポール際へ劇的な逆転満塁本塁打を放った。奇しくも30年前の天覧試合と同じ日で、スコアも5-4と裏返しとなり、天覧試合勝利投手の巨人監督・藤田元司の目の前で、敗戦投手だった村山実の仇討ちを果たした。イニングの最初にスコアボードを見て「2アウト満塁なら自分まで回ってくる」と思っていたら本当に回ってきたと後に語っており、ヒーローインタビューでも「3点差だったので満塁で回ってきたらホームランしかないと思った」と胸を張った。この本塁打を含めて月間8本塁打などの活躍で、同じく9本塁打のチームメイトのセシル・フィルダーを抑えて、プロ入り2度目の月間MVPを受賞した。 1990年から中村勝広監督が就任し、八木裕が遊撃手から三塁手にコンバートされ、岡田は二塁手に戻った。 1991年は規定打席到達では自己ワーストの打率、安打、打点に終わる。 1992年、日本プロ野球選手会会長としてFA制度導入に尽力する。選手としてはこの年から二塁を和田豊に譲り、一塁にコンバートされる。シーズンでは新庄剛志や亀山努の台頭に加えて、打率1割台と深刻な打撃不振に陥り、先発出場は激減。4月25日の試合では代打に亀山を送られた場面もあった。この夜、遠征先の宿舎で食事中に亀山が謝りに来たのに対し「お前はなんも悪ないやろ」と答えたが、その模様を他の若い選手が見て見ぬふりをしているのに気づき、自分に周囲が気を遣っていると感じていた。 1993年、再び外野手として起用されるようになるが出場機会は前年よりさらに少なく、「体力の衰え」という理由で阪神を自由契約になる。
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