阪神入団~ブレイザーとの確執とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 阪神入団~ブレイザーとの確執の意味・解説 

阪神入団~ブレイザーとの確執

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 05:24 UTC 版)

岡田彰布」の記事における「阪神入団~ブレイザーとの確執」の解説

上記のように、東京六大学野球史に残る記録次々樹立したためにプロ野球球団岡田獲得競争一気過熱ドラフト会議目玉となった岡田10月29日プロ入り表明会見の席において希望球団問われ、「(地元の)阪神だったら高ですが、阪急ブレーブス)などの在阪球団希望している。その他の球団ならば、指名時に考えてみる。しかし、フロントしっかりして優勝争え球団ら行きたい」「巨人西武優勝狙えるし、良いですね」と答えた。しかし、後年インタビューでは「僕が一人っ子だったことで母が『関西帰ってきて欲しい』と思っていたから、実際阪神だけでなく阪急近鉄南海という関西球団ならどこでもよかった」と語っている。ドラフトでは当時史上最多となる6球団岡田1位指名したが、抽選結果阪神交渉獲得岡田阪神入団決まった契約金6,000万円年俸480万円1980年春季キャンプ監督ドン・ブレイザーは「オカダはまだ新人。じっくり鍛えたほうが良い」という考えで、二塁外野練習をさせていた。岡田ブレイザーとの初対面の際に、通訳コーチ市原稔を介して「いくら力のあるルーキーでも、メジャーでは最初から試合起用することは無い」と告げられたが、岡田は「そんなん関係ないやん」という反骨心芽生えた著書記している。しかし当時野手陣には三塁手に「ミスター・タイガース掛布雅之遊撃手として岡田入団する前年太平洋クラブライオンズクラウンライターライオンズから加入して、後に岡田後任阪神監督務め真弓明信二塁手中村勝広榊原良行と、ヤクルトスワローズから獲得したデーブ・ヒルトン一塁手真弓加入前まで遊撃手だった藤田平がおり、岡田の入る場所は無かった。しかも、ヒルトンはアリゾナキャンプの途中からチーム合流したため、二塁へのコンバート計画聞いていた岡田は「なぜ二塁手ヒルトン獲得するのか」と複雑な気持ちになり、まもなくブレイザーからは外野練習をするように指示されたという。 1980年先発内野手は、一塁手ヒルトン二塁手加藤博一三塁手掛布雅之遊撃手真弓明信布陣スタートしたヒルトンオープン戦特大本塁打放ったシーズン開幕直後から打撃不振陥ったものの守備面評価され起用され続けその後掛布負傷離脱した4月19日20日岡田起用見合わせられたため(この時、岡田負傷していたという説もある)、ファンの間から「なぜ岡田出さない」という不満が盛り上がりファン一部からはヒルトンブレイザー悪者扱いし、更には妊娠中の妻が同乗していたヒルトンの車を取り囲み罵声浴びせ、車を蹴るといった嫌がらせ激しくなった。4月22日の対大洋戦前小津正次郎球団社長ブレイザー監督と2時間会談し説得しその日以降岡田三塁手起用された。ヒルトン18試合出場打率.197、本塁打0本の不振から抜けられずに5月10日解雇された。阪神球団新たにブルース・ボウクレア外野手獲得したが、これに反対するブレイザー球団の関係が極度に悪化し5月15日球団不明瞭な形でブレイザー解任し、コーチだった中西太監督交代させた。掛布復帰した5月17日以降二塁手起用され新人王繋がったが、自らの力でチャンス掴みたかったので、当時ヒルトン出場する度に「オカダ・オカダ」とコール湧いたことに対して後年インタビューで「あの岡田コール嫌だった」と苦言呈している。また、後年ブレイザー親し人物からブレイザーの「憎くて使わなかったのではなく期待され入団してきたルーキーだから余分な力み生まない楽なころから使ってやりたかった。だから時期がずれた」というコメント伝えられ、「今となればこのメッセージある程度理解できるようになったブレイザーもかなり悩んだのだろうし、考えたのだろう。自分監督になり、そのことはよくわかった」と著書記している。 この年オールスターゲームの第1戦において22歳7か月代打本塁打放ったが、これは2015年の第2戦で19歳11か月だった森友哉代打本塁打放つまでオールスターでの代打本塁打最年少記録だった。 ブレイザー監督ヒルトン退団遠因となったこの年岡田ポジションは、掛布雅之故障したことで三塁手が最も多く二塁手一塁手でも出場している。打順前半の8番から次第順番繰り上がり終盤5番起用された。 1981年には初めて全130試合出場し20本塁打を残す。ポジション二塁手固定された。 1982年安藤統男監督就任し、初の打率3割を記録した1983年開幕から79試合18本塁打記録し本塁打王争いにも加わっていたが、7月10日の対広島戦で右大腿二頭筋断裂し、残りシーズンを棒に振る。以後脚部負傷悩まされることになる。岡田離脱した二塁手遊撃手だった真弓明信入り空いた遊撃手平田勝男入った1984年5月19日広島戦から先発復帰した当初二塁手中心にランディ・バース帰国時などに時折一塁手も守るという形だったが、後半戦は主に右翼手起用された。打撃打率.297、本塁打15本、51打点と、故障明けとしては悪くない成績残している。 1985年吉田義男監督就任し真弓入れ替わり、再び二塁手に戻る。4月17日甲子園での対巨人戦で、バース掛布続きバックスクリーン3連発締め打った。この時、バース掛布続いた後の岡田打席にかかるプレッシャー大きく、「ヒット良いという考えはなかった。こうなったホームランを狙うしかないやろう。絶対スライダーしかないな!」と後に振り返っている。また、バックスクリーン3連発前日の対巨人戦でも、1-2迎えた4回裏二死四球出塁した岡田は、佐野仙好放った平凡なフライ遊撃手河埜和正落球する間に一塁から一気本塁生還し大量7点猛攻へと繋げ活躍見せている。監督吉田義男も「あの岡田全力疾走大きかった」と評価した同年8月12日当時球団社長だった中埜肇日本航空123便墜落事故死亡するという悲劇起こった。特に阪神ナイン中でも中埜に目をかけてもらい、自らも“飛行機派”と称していた岡田受けたショック大きかったという。8月打率.429・10本塁打31打点活躍プロ入り初の月間MVP受賞。更に9月15日甲子園での対中日戦ではサヨナラ2点本塁打、翌16日にもサヨナラ中前打を放ち、2試合連続サヨナラ打記録する最終的に選手会長5番打者としてバースに次ぐリーグ2位の打率.342・リーグ4位の35本塁打リーグ5位の101打点という自己最高の好成績残し真弓バース掛布とともに球団初の日本一貢献した1986年前年同じく5番二塁手開幕戦先発出場すると、4月後半掛布故障離脱したに伴い4番打者抜擢された。5月半ば掛布復帰する5番に戻るが、この年掛布は再離脱繰り返したため8月以降シーズン終了まで4番打者務めた9月3日に父を亡くしたが、翌9月4日の対大洋戦に出場して本塁打放った前年よりは数字落としたが、打率.268、本塁打26本、打点70主軸打者相応し成績残した1987年打率2割5分台・本塁打14本とチーム不振を語るような成績になるが、その後3年連続20本塁打記録した1988年村山実監督就任し開幕時は5番二塁手で、5月以降4番二塁手起用された。打率.267、本塁打23本、打点72打撃成績復調した。 1989年掛布引退に伴い大学時代守っていた三塁手コンバートされた。6月25日甲子園での対巨人戦1-4迎えた8回裏二死満塁で、ビル・ガリクソンから左翼ポール際へ劇的な逆転満塁本塁打放った奇しくも30年前天覧試合と同じ日で、スコア5-4裏返しとなり、天覧試合勝利投手巨人監督藤田元司目の前で敗戦投手だった村山実仇討ち果たしたイニング最初にスコアボード見て「2アウト満塁なら自分まで回ってくる」と思っていたら本当に回ってきたと後に語っており、ヒーローインタビューでも「3点差だったので満塁回ってきたらホームランしかない思ったと胸張った。この本塁打含めて月間8本塁打などの活躍で、同じく9本塁打チームメイトセシル・フィルダー抑えてプロ入り2度目月間MVP受賞した1990年から中村勝広監督就任し八木裕遊撃手から三塁手コンバートされ岡田二塁手戻った1991年規定打席到達では自己ワースト打率安打打点に終わる。 1992年日本プロ野球選手会会長としてFA制度導入尽力する選手としてはこの年から二塁和田豊譲り一塁コンバートされる。シーズンでは新庄剛志亀山努台頭加えて打率1割台と深刻な打撃不振に陥り、先発出場激減4月25日試合では代打亀山送られ場面もあった。この夜、遠征先の宿舎食事中亀山謝りに来たのに対し「お前はなんも悪ないやろ」と答えたが、その模様を他の若い選手見て見ぬふりをしているのに気づき自分周囲気を遣っていると感じていた。 1993年、再び外野手として起用されるようになる出場機会前年よりさらに少なく、「体力衰え」という理由阪神自由契約になる。

※この「阪神入団~ブレイザーとの確執」の解説は、「岡田彰布」の解説の一部です。
「阪神入団~ブレイザーとの確執」を含む「岡田彰布」の記事については、「岡田彰布」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「阪神入団~ブレイザーとの確執」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「阪神入団~ブレイザーとの確執」の関連用語

阪神入団~ブレイザーとの確執のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



阪神入団~ブレイザーとの確執のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの岡田彰布 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS