関りのある人物
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ここでは村上春樹と特にかかわりのある人物を取り上げる(順不同)。 安西水丸 イラストレーター、漫画家(1942年7月22日 - 2014年3月19日)。安西は千駄ヶ谷の「ピーター・キャット」に客として行ったとき初めて村上と会ったという。表紙から挿絵まで数多くのイラストを安西は担当しており、共著の作品も少なくない。対談の数も多い。『夢のサーフシティー』(朝日新聞社、1998年7月)と『スメルジャコフ対織田信長家臣団』(朝日新聞社、2001年4月)には、特別付録として二人の音声対談が収録されている。 安西は村上についてこう評す。「とても人見知りをする人だけれど、友情のあつさにおいては完璧なものがある」「僕は彼の声を〝プラチナの声〟と言っているんですよ。ちなみに、彼の文字はかりん糖。油で揚げたような字を書くんです」 村上は、安西の本名の「渡辺昇(ワタナベノボル)」を様々な作中人物の名前に使った。例として「象の消滅」(象の飼育係)、「ファミリー・アフェア」(妹の恋人)、「双子と沈んだ大陸」(共同経営者)、「ねじまき鳥と火曜日の女たち」(猫および妻の兄)、「中断されたスチーム・アイロンの把手」(壁面芸術家)、「鉛筆削り (あるいは幸運としての渡辺昇①)」、「タイム・マシーン (あるいは幸運としての渡辺昇②)」、「タコ」などがある。そして長編『ノルウェイの森』では「ワタナベトオル」と名を変え、『ねじまき鳥クロニクル』では「ワタヤノボル」となる。 安西は2014年3月19日に急死。『週刊朝日』2014年4月18日号に「週刊村上朝日堂 特別編」が掲載される。村上は「描かれずに終わった一枚の絵―安西水丸さんのこと―」と題する追悼文を書き、安西のイラストもそこに付された。追悼文で村上は「安西水丸さんはこの世界で、僕が心を許すことのできる数少ない人の一人だった」と述べた。 2014年8月、『イラストレーション緊急増刊 安西水丸 青空の下』(玄光社)が刊行。『イラストレーション』2011年3月号に掲載された「特集 安西水丸 村上春樹との全仕事 1981-2011」が同書に再録される。 柴田元幸 英米文学翻訳家、元東京大学教授(1954年7月11日 - )。村上がジョン・アーヴィングの『熊を放つ』(中央公論社、1986年5月)を翻訳した際、柴田が訳文を「細かくチェック」したことから交流が生まれた。村上が柴田の授業に参加したり(『翻訳夜話』、『翻訳教室』)、積極的にインタビューや対談に応じたり(『ナイン・インタビューズ 柴田元幸と9人の作家たち』、『代表質問 16のインタビュー』、『村上春樹 翻訳 (ほとんど) 全仕事』)と、二人の親交は篤い。早川書房から出ているレイモンド・チャンドラーの作品を除いて、村上の主たる翻訳のチェックを行っている。また、CDブック『村上春樹ハイブ・リット』(アルク、2008年11月)の総合監修も行った。「村上朝日堂ホームページ」において、読者からの英文法に関する質問に対して村上の代わりに答えたこともある(同ホームページ、読者&村上春樹フォーラム39、2006年4月17日)。 2006年3月に東京、札幌、神戸で行われた「国際シンポジウム&ワークショップ 春樹をめぐる冒険――世界は村上文学をどう読むか」のアドバイザーおよび司会を務めた。かつ、同シンポジウムを記録した書籍『世界は村上春樹をどう読むか』(文藝春秋、2006年10月)の編集も行った。 村上は、柴田が責任編集を務める文芸誌『MONKEY』(スイッチ・パブリッシング)から依頼を受け、短編小説「シェエラザード」を執筆した。同作品はその後、『女のいない男たち』(文藝春秋、2014年4月)に収録された。 ジェイ・ルービン 日本文学研究者、翻訳家(1941年 - )。村上の作品の主たる英訳者、アルフレッド・バーンバウム、ジェイ・ルービン、フィリップ・ガブリエルの3人のうちで、個人的にもとりわけ交流が深いのがルービンである。『ねじまき鳥クロニクル』の翻訳を、同作品がまだ『新潮』に連載中のときに村上本人から依頼を受けて行う。これまでに長編小説を4編(『1Q84』はBOOK1とBOOK2のみ)、短編小説を24編訳している。また2009年2月にイスラエルで行われたエルサレム賞授賞式の英文スピーチの英訳も行った。 ルービンは自著『ハルキ・ムラカミと言葉の音楽』(新潮社、2006年9月、畔柳和代訳)の参考文献として、村上の私信や講演の未刊原稿、村上夫妻の未公開のインタビューや談話を多く用いている。 『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(岩波書店、1996年12月)の対談の席にルービンは、発言こそ取り除かれたものの陽子夫人と共に参加した。東京大学文学部で行われた柴田元幸の翻訳演習の授業にも村上と共に参加した。このときの授業の模様は『翻訳教室』(新書館、2006年3月)に収録されている。 2006年3月に東京、札幌、神戸で行われた「国際シンポジウム&ワークショップ 春樹をめぐる冒険――世界は村上文学をどう読むか」に参加。同年6月、アイルランドで開かれたフランク・オコナー国際短編賞授賞式(受賞作品は短編集『Blind Willow, Sleeping Woman』)に村上の代理として出席した。 村上はルービンが訳した芥川龍之介の短編集『Rashōmon and Seventeen Other Stories』(2006年)の序文を書いている。同書は2007年6月、新潮社から日本語版が出版された(『芥川龍之介短篇集』)。 2015年5月、初の小説『The Sun Gods』を上梓。日本語版は同年7月に『日々の光』として新潮社より刊行された。村上は『波』2015年8月号に書評を寄せた。2016年11月、『小澤征爾さんと、音楽について話をする』(新潮社、2011年)の翻訳を行った。 河合隼雄 心理学者、元文化庁長官(1928年6月23日 - 2007年7月19日)。河合は年長の学識者の中で、村上が唯一繰り返し対談した人物。 「僕にとっての『小説の意味』みたいなものをきちんと総合的にすっと理解し、正面から受けとめてくれた人は河合先生一人しかいませんでした。『物語』というのが我々の魂にとってどれほど強い治癒力をもち、また同時にどれほど危険なものでもあるかということを、非常に深いレベルで把握しておられる方です。」「河合先生に会うたびに、僕は元気づけられます。ああいう人ってなかなかいないです。」「僕が『物語』という言葉を使って話すときに、その意味をきちんと理解してくれるのは、河合先生ぐらいだった」と語っている。 2013年5月6日、村上は河合隼雄物語賞・学芸賞創設を記念して公開インタビューとスピーチを京都大学で行った。 活字になった河合と村上の対談は以下のとおり。現代の物語とはなにか『こころの声を聴く―河合隼雄対話集』新潮文庫 ISBN 978-4-10-125223-0 初出:新潮 1994年7月 91巻 260-282頁 『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』新潮文庫 ISBN 978-4-10-100145-6 初出:世界 1996年4月号 621号 257-280頁、1996年5月号 662号 210-235頁 「地下鉄サリン事件と日本人」現代 1997年7月号 31巻 28-41頁 話題の書『アンダーグラウンド』をめぐって 村上春樹、河合隼雄 河合隼雄氏との対話(『アンダーグラウンド』をめぐって 「悪」を抱えて生きる)『約束された場所で―underground 2』ISBN 978-4-16-750204-1 初出: 文藝春秋 1998年11月号 76巻 262-277頁「ポストアンダーグラウンド」をめぐって―麻原・ヒットラー・チャップリン 連続対談 河合隼雄x村上春樹 京都での対話(上)(下) 臨床心理学者と作家が語り合った2日間 フォーサイト(新潮社) 2003年10月号第14巻第10号通巻163号 52-57頁、2003年11月号第14巻第11号通巻164号 52-58頁 安原顯 編集者(1939年4月29日 - 2003年1月20日)。安原は中央公論社で文芸誌『海』や『マリ・クレール』の編集に携わった人物。村上が経営するジャズ喫茶の客で、『風の歌を聴け』が出版される1979年以前より交流があった。「中国行きのスロウ・ボート」を『海』1980年4月号に掲載する際、初めて書いた短編小説であるにもかかわらず、安原から書き直しは一切要求されなかったという。「細かい実務的な作業は、この人の好むところではないようだった」と村上は述べている。2003年1月20日に肺がんのため死去した。 村上は 2006年3月10日発売の『文藝春秋』4月号に、『ある編集者の生と死――安原顯氏のこと』と題するエッセイを発表。自身の直筆原稿が本人に無断で、安原によって流出させられ、東京・神田神保町の古本屋や、インターネットオークションで販売されていることを述べた。「基本的な職業モラルに反している(中略)のではあるまいか」「それら(注・安原ルートで流出した自筆原稿)が不正に持ち出された一種の盗品であり、金銭を得るために売却されたものであることをここで明確にしておきたい」とコメントをしている。 この発表は各方面に大きな波紋を広げ、出版業界にはびこる「自筆原稿の流出」という、半ば公然の闇の事態が明らかとなった。安原が故人であったため「死者に鞭打つような仕打ち」と一部で批判する者もあったが、村上はこのような事態が、彼に関してのみならず、多くの作家に関しても未だに行われていることを指摘しつつ、誰かが声高に叫ばなければ、流出によって傷つけられる、生きている者たちの痛みはなくならないのではないか、と反論している。なおこれら一連の動きから、明確な意思表示がない限り「生原稿は作家の所有物である」との確認が日本文芸家協会によって行われ、「生原稿『流出』等についての要望」としてまとめられものが、関係各所へと配布された。 村上龍 小説家(1952年2月19日 - )。群像新人文学賞受賞によりほぼ同時期にデビューを果たしたこと(龍は1976年、春樹は1979年)、年齢が比較的近いこと(春樹が3つ年上)、いずれも人気作家となったことなどから二人は「W村上」としばしば呼ばれる。両者を論じた評論『MURAKAMI龍と春樹の時代』(清水良典著、2008年)もある。 龍は学生時代、春樹の経営する「ピーター・キャット」に通っており、デビュー前からの顔見知りであった。初期には互いのエッセイで頻繁に言及しあっており、1981年には対談集『ウォーク・ドント・ラン』を出版した。同年夏、春樹は龍からアビシニアンの子猫を譲り受けている。龍の3作目の長編小説『コインロッカー・ベイビーズ』(1980年10月刊行)に刺激を受け、『羊をめぐる冒険』を書いたことは春樹本人が様々な媒体で語っている。 春樹は『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』の中で、龍が「最初から暴力というものを、はっきりと予見的に書いている」という点で鋭い感覚を持った作家だと評価したうえで、自分は「あそこへ行くまでに時間がかかるというか、彼とぼくとは社会に対するアプローチが違う」と述べている。
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