線路とプラットホームの増設計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 21:03 UTC 版)
「東京駅の歴史」の記事における「線路とプラットホームの増設計画」の解説
東京駅に発着する列車は、開業当初東海道本線が上下52本、横須賀線が上下28本であったが、1935年(昭和10年)にはそれぞれ上下104本、上下98本へと増加した。これに加えて回送列車の運転もあり複線では運転本数の限界に達していた。さらに山手線・京浜線電車も当初は2 - 3両程度の電車が15分おきに発着していたものが、この頃には5 - 8両連結の電車が1分40秒間隔で運転されるようになり、それでもラッシュ時には混雑率が200パーセントに達するという状況であった。開業時1日平均9,500人であった乗客数は、1934年(昭和9年)調査では1日平均列車客9,733人、電車客110,691人と12倍強に増加し、駅の開業から20年でほぼ限界に達していた。さらに満州事変に伴う軍需景気などで輸送量は増加の傾向にあったことから、1935年(昭和10年)の計画で東京駅の改良工事に着手することが議会の承認を受けた。 この東京駅改良計画では、八重洲側にあった車両基地を郊外へ移転させ、その跡地に第5から第7の3つのプラットホームを増設することになっていた。さらに東京と田町の間で2線を増設して都合6線にすることも計画に含まれていた。この線路増設はいずれ必要になると以前から見込まれていたため、必要な土地は関東大震災復興事業の際に鉄道当局から帝都復興院に委託して買収を進めてあり、この時点ですでに買収が完了していた。1918年(大正7年)2月15日に既に田町 - 品川間では京浜線と山手線の線路が分離され、東海道本線と合わせて都合6線になっていたので、この工事が完成すれば東京から品川までが6線になることになる。1940年(昭和15年)に東京でオリンピックと万国博覧会が計画されていたため、これに間に合わせることを目標に工事に着手された。しかし戦争の激化に伴いオリンピック・万国博覧会は中止となり、増設計画も大幅に遅延・縮小することになった。 八重洲側の車両基地移転では、移転の適地として当時品川にあった貨車操車場が選ばれたが、そのために品川貨車操車場を玉突きで郊外に移転させる必要があった。そこで1929年(昭和4年)8月21日に通称品鶴線と呼ばれる貨物別線とともに開設されていた新鶴見操車場をさらに拡張して品川貨車操車場の役割を引き受けることになり、1935年(昭和10年)6月に拡張工事が開始された。1936年(昭和11年)8月にひとまず第一期拡張工事が完成するが、その後も第二次世界大戦後に至るまで拡張工事が続けられ、日本を代表する大操車場として発展していった。一方品川の客車操車場については1937年(昭和12年)10月に着工されたものの、戦争激化に伴う労働力や資材の不足に悩まされ、完成は1945年(昭和20年)8月となった。こうした玉突き移転作業には時間を要し、その間急務であった東京駅のホーム増設に着手できないのは問題であったことから、第5プラットホームに支障する部分のみを先行して留置線の縮小を行い、その分は尾久の車両基地を拡張して車両を留置することになった。東京から品川への客車操車場の移転は、1939年(昭和14年)11月に一部が実施され、1942年(昭和17年)10月に移転完了した。その後も東京駅に品川検車区東京支区として一部の設備が残されていたが、第二次世界大戦後さらなるホームの増設工事が進められる過程で縮小され、1952年(昭和27年)7月1日に地上の線路は消滅した。東京機関区についても1942年(昭和17年)11月3日に移転完了となった。 増設される2線の利用方法については2種類の案が検討された。東京駅開業以来、西側の2線を電車線として山手線と京浜線が共用し、東側の2線を列車線として東海道本線と横須賀線が共用していた。田町 - 品川間では既に山手線と京浜線が分離されており立体交差が造られていたので、第1の案はこれをそのまま利用して増設線を山手線と京浜線の分離運転に充てるというものであった。しかしこの案では同様に逼迫している列車線の窮状は改善されないという問題があった。特に、東海道本線の客車操車場が品川に移転されると、東京 - 品川間の回送列車が増えることになるので、東京駅のホームをせっかく増設してもそれを生かして東海道本線の増発を図ることは困難であった。第2案は、列車線のうち横須賀線と電車線のうち京浜線の一部を増設線に移すというもので、横須賀線が移される分だけ東海道本線の増発を図ることができ、また需要増の著しかった京浜線についても増発を図ることができるものであった。京浜線については増設線に移す分について急行運転(現在で言うところの快速運転)とする構想で、増設線はこのことから「京浜急行線」と呼ばれたが、これは私鉄の京浜急行電鉄とは関係が無い。この案は山手線・京浜線・東海道本線・横須賀線のすべてのダイヤが絡み合ってダイヤ乱れが相互波及するという点や、田町の前後に複雑な立体交差を建設しなければならないという問題があったが、最終的にこの案が採用されることになった。 これを前提として東京駅のプラットホーム使用計画が決められた。第1プラットホーム(1・2番線)は中央線折り返し、第2プラットホーム3番線は京浜線緩行北行・山手線内回り、4番線は京浜線急行北行、第3プラットホーム(5・6番線)は横須賀線折り返し、第4プラットホーム7番線は京浜線急行南行、8番線は京浜線緩行南行・山手線外回り、第5プラットホーム(9・10番線)は東海道線到着、中間の11番線に機回し線・回送列車の着発線が入り、第6プラットホーム(12・13番線)および第7プラットホーム(14・15番線)は東海道線列車の着発、一番外側のホームに面しない16番線が機回し線・回送列車の着発線とする計画であった。新設プラットホームはいずれも従来プラットホームに倣って幅を12 mとした。また従来架道橋部分の桁下高さは3.5 mで造られていたが、新しい道路構造令で4.5 mが要求されることになったため、新設プラットホームの線路に関しては従来より1.2 mレール面を高くすることになった。従来のプラットホームは盛土構造であったが、新設部分についてはその下を旅客コンコースとして利用するために鉄筋コンクリート高架橋とすることになった。この他、八重洲口の駅舎は1929年の開設以来仮設のままであったのでこの機会に本建築とし、駅前広場の整備も行うことになった。しかし外堀があって整備余地は残されていなかったため、駅舎北側のスペースを自動車の駐車場に充てることになっていた。通路については、第2ホームまでしかなかった中央通路を八重洲側まで貫通させるとともに、乗車通路の北側にもう1本通路を新設してこれを列車客の乗車通路に、従来通路を電車客の乗車通路に分離する構想とされ、この他に自由通路を新設する計画が作られた。 1937年(昭和12年)(資料によっては1938年)に東京駅第5プラットホームに着工された。9番線となる1線2柱式の高架橋と、10番線から12番線となる3線3柱式の高架橋が建設され、プラットホームは幅12 m、長さ300 mとされた。当初東京駅を請け負ったのと同じ大林組が建設を担当した。鉄筋や鉄桁の溶接を鉄道重構造物としては初めて採用した。資材不足により大幅に遅延したものの、1942年(昭和17年)9月25日に供用開始され、戦時下で激化していた混雑を幾分緩和することができた。 田町までの線増工事については1936年(昭和11年)1月に着工された。この区間についても鉄筋コンクリート高架橋とされ、既存の煉瓦アーチ橋とできるだけ径間を揃える努力がされている。また一部外堀に沿う区間では外堀の中に橋脚を建てる必要があり、その流水阻害分を補うために堀の反対側の道路を買収して堀にした。浜松町 - 田町間および田町 - 品川間には立体交差のための跨線線路橋が必要で、複雑な配線の構内で建設する困難な工事となった。1942年(昭和17年)7月に線増工事が完成し、まずは新設した高架橋に東海道本線と横須賀線の運転を移転した。その後従来列車線が使用してきた高架橋の修復・老朽化対策工事を行ったうえで、横須賀線を戻し京浜線急行電車の運転を開始する予定であったが、戦争の激化に伴いこの部分は未完成で中止となった。 大陸での軍事行動に伴い、輸送力増強とスピードアップが求められるようになったことから、1940年度(昭和15年度)には弾丸列車の計画が始まった。これは東海道本線に標準軌(当時の言葉では広軌)複線を増設するという、後の新幹線につながる計画で、東京におけるターミナル駅はいくつか案があったが東京駅に乗り入れる案もあった。東京駅に乗り入れる案では、建設に取り掛かっていた在来線用第7プラットホームよりさらに八重洲側に幅15 m、長さ400 mのプラットホームを到着用2面、出発用2面の合計4面増設する計画となっていた。このために八重洲口の駅舎は大きく東側に移され、その東側にさらに広大な駅前広場を建設する予定になっていた。また田端方面まで線路を延長してその先に車両基地を造る計画ともなっていた。しかし弾丸列車計画は戦争の激化に伴い中止となっている。
※この「線路とプラットホームの増設計画」の解説は、「東京駅の歴史」の解説の一部です。
「線路とプラットホームの増設計画」を含む「東京駅の歴史」の記事については、「東京駅の歴史」の概要を参照ください。
- 線路とプラットホームの増設計画のページへのリンク