急行電車の運転
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 16:46 UTC 版)
天満橋駅 - 五条駅間の所要時間は開業当初1時間40分で、7月から1時間30分に、大正時代に入った1912年には1時間20分まで短縮した。さらなる所要時間の短縮を狙い、1914年には日本初となる急行電車の運転を開始した。当初は深夜の運転で天満橋駅 - 五条駅間をノンストップで走り1時間で結ぶことに成功。翌1915年からは日本で初めて自動閉塞信号機を導入し、日中にも運転時間帯を拡大した。三条延伸開業後は途中、四条駅(現在の祇園四条駅)のみ停車となったが、天満橋駅 - 三条駅間の所要時間は1時間で変わらなかった。1916年からはこの急行を最急行に格上げし、主要駅停車の急行を新設した。ただし、最急行は改称後4か月で廃止されている(「京阪特急#前身」も参照)。 1917年(大正6年)この年は京阪本線にとって最悪の1年となった。元日午後3時3分枚方駅(現在の枚方公園駅)で停車していた普通電車に急行電車が追突、普通電車は200mも押し出され急行電車は脱線した。事故原因は「急行電車の運転士が御屠蘇を飲んでの飲酒運転に因る前方不注意」というものであった。そして1月17日の早朝深草車庫から出火、客車15両・営業貨車1両・土木貨車3両と検車庫・工場・事務所を焼失した。そこで南海鉄道より路面電車4両を借り、名古屋電車製作所に車体を発注、焼け残った足回りを組み合わせて6両が3月末から4月にかけて到着した。同年9月25日から「大正大水害」と呼ばれる豪雨による洪水で10月1日枚方東口駅 - 樟葉駅間・淀駅 - 中書島駅間で堤防決壊で軌道浸水・軌道流失・軌道閉塞、中書島駅西側の伏見変電所も浸水して機能停止したため枚方東口より京都側は運転不能となった。すぐに復旧工事に入るも同月10日再度水害に見舞われて修復が遅れ、同月11日中書島駅 - 三条駅間の運転再開・淀駅 - 枚方東口駅間が14日に再開、18日午前11時・淀駅 - 中書島駅間が仮復旧して全線の運行が再開された。 昭和になった1927年には、ロマンスカーと称した初代600型を登場させ、急行に使用した。このため、「ロマンスカー」という名称を使用したのは小田急電鉄ではなく京阪電鉄が最初となる。併せて、この時期は併用軌道の専用軌道化、守口駅 - 野江駅間の複々線化・立体交差化などの路線の改良、天満橋駅の改築、宇治川・木津川に架かる鉄橋の架け替えなどの更新が重ねられた。 1922年には新京阪鉄道を設立、1928年に新京阪線(現在の阪急京都本線)天神橋筋六丁目駅 - 西院駅間を開通させた。戦中に京阪神急行電鉄(1973年に阪急電鉄と改称)に統合され、戦後の1949年に新京阪線を阪急に残した形(同時に京都本線と改称)で京阪電気鉄道として再発足した。大阪大空襲からの復興・疎開の影響による京阪間移動需要の急増を踏まえて、1950年7月には急行の所要時間を戦前と同水準とし、さらに9月には特急の運転を開始した。
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