派生作
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(「文芸」における本作の派生作・2次創作は、明治以降現在まで把握困難なほどの数が存在するため、ここでは「演芸」のみを扱う) 本作以前、しのだづまものの浄瑠璃・歌舞伎の演目は多数存在し、頻繁に上演されていたが、本作が登場するとそれらは影を潜め、もっぱら本作が上演されることとなる。その意味で、本作はしのだづまものの決定版ということができる。また、人気作であったにも関わらず、「書替狂言」のような大規模な改作はそれほど多くないことが、本作の完成度の高さを物語っている。とはいえ、少数ながら本作の派生作は存在する。 嫁入信田妻(よめいりしのだづま。嫁入信田褄。歌舞伎・浄瑠璃) 寛政5年(1793年)大坂北新地初演の『嫁入信田妻』は、数少ない『芦屋道満大内鑑』の改作のひとつである。上演回数はかなり多く、明治に入っても頻繁にかけられた演目である(記録上は大歌舞伎における最終上演が明治34年=1901年)。上演台本は明治期の写本が日本大学に所蔵されていることが確認されているが、一般に公開されておらず、印影や翻刻も未刊行であることから、内容の詳細については不明。内容について簡単に触れている『系統別歌舞伎戯曲解題』によれば、大体は「大内鑑」なのだが、保名と葛の葉が船での馴れ染め(原文ママ)に狐を助ける。保名の許へ葛の葉姫を伴うのが与勘平である。左近太郎の妻お町が女非人になっていたが、照綱は妻を殺して、六の君の身替りに父権之守照久へ差出すなど、「大内鑑」にない筋も加わっている。 とされており、『芦屋道満大内鑑』の改作であることが明白である。 信田妻名残狐別(しのだづまなごりのこわかれ。歌舞伎) 享和2年(1802年)、3代目瀬川路考(菊之丞)が「口筆」を演じた伝説的な公演。外題の「名残」は路考が金比羅参詣に出かける前の最終公演を意味する。外題が独自なので改作とも考えられるが、この公演の番付を見る限り、『芦屋道満大内鑑』の2段目(信田社の段)と4段目(子別れの段)の上演であった可能性の方が大きい。 信田妻粧鏡(しのだづまけはいのすがたみ。しのだづまけはひのすがたみ。浄瑠璃) 文化5年(1808年)9月、大坂で上演された本作の改作である。正本が残っていないので内容の詳細は不明だが、段名に「入唐のだん」、人形役割に「きび大臣」の記述があることから、『簠簋抄』『安倍晴明物語』といったしのだづま伝承の原典にあった吉備真備伝説が冒頭で語られたことが推定できる。これだけでは単なるしのだづまものの可能性も残るが、人形役割に『芦屋道満大内鑑』固有の登場人物が多数見られるので、改作であることがわかる。 左近太郎雪辻能(さこんたろうゆきつじのう。歌舞伎) 慶応元年(1865年)10月、江戸市村座初演の書替狂言。2幕3場構成。作者は河竹黙阿弥。単独の演目ではなく、『芦屋道満大内鑑』の増補の体裁をとり、演目としての外題も『芦屋道満大内鑑』とされた。番付を見る限り、上演では保名内の場の前に挿入される形をとったものと推定される。内容は原作と整合性がなく、現代風にいうならパラレルワールドものとなっている。プロットを一言で表すなら「芦屋道満のいない『芦屋道満大内鑑』」。六の君の誘拐・殺害への加担を道満が当初から拒絶した世界の話であり、原作の道満サイドのパート(2段目の前半とそこからつながる3段目全部)を置換する形をとる。左近太郎は誘拐された六の君を奪還し、花町の実家に匿うが、取り戻そうとした岩倉治郎太夫は花町の父である鼓師畑作を拉致し、無事返して欲しければ六の君の首級を差し出すよう要求する。この苦境を脱するために、当作品オリジナルキャラクターである楓(花町の妹)・柏木衛門之助(左近太郎の弟)の恋人同士が自らを犠牲とする。道満抜きの話であるため、原作由来の人物(多くが原作における脇役陣)の設定が原作とは大きく異なる。 信田褄妙術一巻(しのだづまみょうじゅついっかん。歌舞伎) 明治10年(1877年)10月に京都の東向演劇で上演された『信田褄妙術一巻』の配役には、『芦屋道満大内鑑』の1段目にしか登場しない榊御前・加茂後室・乾平馬、3段目にしか登場しない芦屋将監・妻花町・妻筑羽根の名前が見える。これらの登場人物すべてが4部構成中の前演劇に登場しているので、『芦屋道満大内鑑』の改作、あるいは名場面ダイジェストと思われる。ただし公演はこの1回だけで、内容については伝わっておらず、推測の域を出ない。なお、この『信田褄妙術一巻』をもって芦屋将監・花町・筑羽根が配役された記録は途絶えており、『芦屋道満大内鑑』の3段目に相当する場面の歌舞伎における上演はなくなった。 保名(清元) 現在でも上演される派生作としては、『芦屋道満大内鑑』の2段目中の所作事である「小袖物狂い」を元にした清元節の『保名』がある。四季七変化『深山桜及兼樹振』(みやまのはなとどかぬえだぶり)の春の部のひとつで、作詞は篠田金治(2代目並木五瓶)、作曲は清沢万吉(初代清元斎兵衛)、振付は藤間新三郎・藤間大助(初代藤間勘十郎)。初演は文化15年(1818年)、江戸都座。演じたのは3代目尾上菊五郎。清元の名曲として伝わっていたが、振り付けは幕末で一度途絶える。これを明治に入って9代目市川團十郎が復活させた。さらに大正11年(1922年)6代目尾上菊五郎が新たな解釈のもと、斬新な演出および舞台装置(担当:田中良)でリニューアルを図り、現在はこの6代目菊五郎の型が主流である。 葛の葉障子の曲(曲芸) 本作を元にした各種演芸、たとえば漫才、浪曲、浪花節といったものが多数制作されたが、それらが現在まで残ることはなかった。その中で唯一の例外ともいえるのが『葛の葉障子の曲』である。これは天保2年(1831年)に江戸両国で、鉄割熊蔵(後に弥吉と改名)率いる一座が披露した見世物小屋の曲芸で、大ヒットした。『芦屋道満大内鑑』4段目での葛の葉の曲書きの場面をモチーフにした「足芸」であり、明治以降も演目としての命脈を保ち、現在でも木下大サーカスの伝統芸として上演されている。
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