武歴・経歴とは? わかりやすく解説

武歴・経歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 03:36 UTC 版)

島袋龍夫」の記事における「武歴・経歴」の解説

島袋那覇市商業学校入学。そこで1927年昭和2年)、19歳の時より那覇手宮城長順師事している。宮城自派1930年(昭5年)に「剛柔流」と命名した日本最初空手流派名である。この流派誕生する3年前入門したことになる。那覇商では後世空手大家 長嶺将真同期で、2人宮城謦咳接しながら文武両道目指し青春謳歌している。島袋具志川から那覇まで遠距離厭う事なく2時間余かけて通学した。これは彼にとって厳し通い稽古意味するものであった強力な意志強靭な体力相応お金なければ到底長続きのしない難行であったそういう遠距離通い稽古こそ島袋にとって生涯空手最初ハードルになるものであった。だが島袋遠距離通い稽古という不便を少しも気にする事なく、それに耐え続けるのも修行一つだと考え平然としていた。そういう志を持った島袋宮城高く評価し熱心に指導したが、数年後首里手大家喜屋武朝徳紹介したその頃喜屋武北谷村嘉手納比謝川河畔に居を構え沖縄県立農林学校生徒嘉手納署員中部界隈青少年空手指導していた。前後の程は不確かだが、喜屋武門下には長嶺将真松林開祖)、仲里常延(少林寺開祖)、島袋善良国際沖縄少林聖武館)等が熱心に稽古励んでいた。彼らは相互に切磋琢磨しあい、喜屋武教え後世伝えた武人達である。島袋本部朝基教え受けたというが、その事については明らかになっていない。また1959年頃より、琉球古武術大家 平信賢より、棒や釵などの古武術教え受けている。数年間宮城に指示した島袋商業学校卒業する社会的に期待される教師になることはせず、意外な事に運送業荷馬車業)を始めた喜屋武荷馬車であった為、心情的直通するものがあり、職業という名の境遇分かち合う為の心理的同一世を無意識に求めた可能性があった。島袋スポーツ空手先駆者でもあり、当時はまだ組手異端視される時代である中で、防具付き空手用の防具開発着用し組手研究行った島袋若い頃から「力抜山蓋世(力は山を抜き気は世を蓋う)の鋭い気魄持ち主であったそういう精神彼の開発した防具組手背景思想をなすものであったいえよう。この防具組手をもって島袋世に冠絶する存在になり、世界諸国一心空手普及させる源になるものであった島袋器械体操鉄棒あん馬平均台跳び箱)の名手でもあり、特に鉄棒は他の追随許さぬ程の腕前で、沖縄県陸競技大会では中頭郡代表として出場し那覇代表の仲井眞仲井眞弘多県知事の父)と再三渡って沖縄一を競い合った実力お互いに紙一重の差で、勝敗はいつも時の運次第であった。彼らは勝敗分かち合ったが、いつも島袋が勝つか仲井眞が勝つかで前評判であった2人お互い実力認め合っていたが一歩譲らぬ好敵手同士であった島袋のこの足腰弾力性や体全体俊敏な動き器械体操培ったものであり、それが大い空手生かされた。島袋具志川村喜屋武道場開設したのは1945年昭和20年)の暮れで、太平洋戦争惨敗した日本人価値観転換迫られ世の生末が全くわからない時であり、人心落ち着かないであった。彼は混沌極める敢然と戦う為には武の心が一番良いと、人々積極的に啓蒙した。その為に沖縄県中部農林高校隣接する所で道場開いたであった。、高校生米国軍人次々入門し道場盛況極めた島袋1956年昭和31年)に一心流を興し、「一心空手道協会」とした。

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武歴・経歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/25 03:22 UTC 版)

平信賢」の記事における「武歴・経歴」の解説

武術を習う為、東京辿り着いた平は、はじめリハビリ兼ねながら柔道を習うつもりであったが、ひょんな事から船越義珍出会い門下生となった時に1922年大正11年)、平信賢25歳の歳であった。その年の9月東京小石川区水道橋盟正塾(空手)に入門以来1940年昭和15年)に帰郷するまで18年修業し船越右腕として空手道普及専念した空手紹介演武の際には、船越が型の演武を、平が板割り一寸(約3cm)6)をしたといわれている。当時、平が船越と共に空手指導当たっていた学校以下のとおりである。陸軍戸山学校中央大学早稲田大学日本医科大学慶応義塾大学法政大学東京農業大学国士館大学國學院大學等々である。平は1929年昭和4年)、空手指導の為上京していた屋比久孟伝より、琉球古武道棒術と釵術)の指導を受ける。1932年昭和7年)、群馬県伊香保温泉船越配下支部道場開き空手琉球古武道指導に当たる。その翌年1933年昭和8年)の8月には、屋比久より琉球古武道師範免状授与される。そして、1929年より1940年7月まで引き続き屋比久に師事する1934年昭和9年)、大阪より首里手大家摩文仁賢和伊香保温泉松濤館支部招き6ヵ月間師事する。1940年10月帰郷那覇市古武道道場開設以来沖縄及び、関東関西において、琉球古武道指導当たった。平は、沖縄古武道指導後継者もなく日々衰退しつつあることを甚だ遺憾に感じ、「琉球古武道保存振興趣意書」の中で次のように述べている。「琉球古武道このまま死滅させるには忍びない。何とか記録にでも止めて広く永久に伝承させたい。(中略)この尊い無形文化財武術保存為に研究していくのが我々の義務であり責任であります古武道農村地方埋めないで広く世界紹介して国民体育資料として普及させる可きであると確信するものであります1964年昭和39年7月1日全日本古武道連盟総裁賀陽恒憲宮殿下)より、範士称号授与される同年8月、「琉球古武道大鑑」を著す。琉球古武術保存振興会長2代目宗家井上貴勝は新版刊行寄せて、「平先生の琉球古武術に関する最大功績は、空手双璧位置付けられている琉球武器術衰微憂慮し沖縄各地残存埋没していた武器術の型を探し求め、ついに八種の武器からなる四十二の型を集大成された事である。そしてこれらの型は当時保存努めておられた沖縄各地長老先生方との型合わせ成果含め沖縄継承されていた武器術の型の全てといって過言ではない。」と述べている。平は、清貧甘んじた武人であり、一生古武道研究普及発展尽力し沖縄に伝わる42種類の型を保持し後輩に遺している。1970年昭和45年9月1日那覇市神原自宅にて73年武道一筋生涯全うする

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