武歴・経歴
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島袋は那覇市立商業学校に入学。そこで1927年(昭和2年)、19歳の時より那覇手の宮城長順に師事している。宮城は自派を1930年(昭5年)に「剛柔流」と命名した。日本最初の空手の流派名である。この流派が誕生する3年前に入門したことになる。那覇商では後世の空手の大家 長嶺将真と同期で、2人は宮城の謦咳に接しながら文武両道を目指して青春を謳歌している。島袋は具志川から那覇まで遠距離を厭う事なく2時間余かけて通学した。これは彼にとって厳しい通い稽古を意味するものであった。強力な意志と強靭な体力、相応のお金がなければ到底長続きのしない難行であった。そういう遠距離通い稽古こそ島袋にとって生涯空手の最初のハードルになるものであった。だが島袋は遠距離通い稽古という不便を少しも気にする事なく、それに耐え続けるのも修行の一つだと考え、平然としていた。そういう志を持った島袋を宮城は高く評価し、熱心に指導したが、数年後首里手の大家、喜屋武朝徳に紹介した。その頃、喜屋武は北谷村嘉手納の比謝川河畔に居を構え、沖縄県立農林学校の生徒、嘉手納署員、中部界隈の青少年に空手を指導していた。前後の程は不確かだが、喜屋武門下には長嶺将真(松林流開祖)、仲里常延(少林寺流開祖)、島袋善良(国際沖縄少林流聖武館)等が熱心に稽古に励んでいた。彼らは相互に切磋琢磨しあい、喜屋武の教えを後世に伝えた武人達である。島袋は本部朝基の教えも受けたというが、その事については明らかになっていない。また1959年頃より、琉球古武術の大家 平信賢より、棒や釵などの古武術の教えも受けている。数年間宮城に指示した島袋は商業学校を卒業すると社会的に期待される教師になることはせず、意外な事に運送業(荷馬車業)を始めた。喜屋武も荷馬車業であった為、心情的直通するものがあり、職業という名の境遇を分かち合う為の心理的同一世を無意識に求めた可能性があった。島袋はスポーツ空手の先駆者でもあり、当時はまだ組手が異端視される時代である中で、防具付き空手用の防具を開発、着用し組手の研究を行った。島袋は若い頃から「力抜山気蓋世(力は山を抜き、気は世を蓋う)の鋭い気魄の持ち主であった。そういう精神が彼の開発した防具付組手の背景思想をなすものであったといえよう。この防具付組手をもって島袋は世に冠絶する存在になり、世界諸国へ一心流空手を普及させる源になるものであった。島袋は器械体操(鉄棒・あん馬・平均台・跳び箱)の名手でもあり、特に鉄棒は他の追随を許さぬ程の腕前で、沖縄県陸上競技大会では中頭郡代表として出場し、那覇代表の仲井眞元櫂(仲井眞弘多元県知事の父)と再三に渡って沖縄一を競い合った。実力はお互いに紙一重の差で、勝敗はいつも時の運次第であった。彼らは勝敗を分かち合ったが、いつも島袋が勝つか仲井眞が勝つかで前評判であった。2人はお互いの実力を認め合っていたが一歩も譲らぬ好敵手同士であった。島袋のこの足腰の弾力性や体全体の俊敏な動きは器械体操で培ったものであり、それが大いに空手に生かされた。島袋が具志川村喜屋武に道場を開設したのは1945年(昭和20年)の暮れで、太平洋戦争で惨敗した日本人が価値観の転換を迫られ、世の生末が全くわからない時であり、人心が落ち着かない時であった。彼は混沌を極める敢然と戦う為には武の心が一番良いと、人々を積極的に啓蒙した。その為に沖縄県立中部農林高校に隣接する所で道場を開いたのであった。、高校生や米国軍人が次々に入門し、道場は盛況を極めた。島袋は1956年(昭和31年)に一心流を興し、「一心流空手道協会」とした。
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武歴・経歴
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武術を習う為、東京に辿り着いた平は、はじめリハビリを兼ねながら柔道を習うつもりであったが、ひょんな事から船越義珍と出会い、門下生となった。時に1922年(大正11年)、平信賢25歳の歳であった。その年の9月、東京小石川区水道橋盟正塾(空手)に入門、以来1940年(昭和15年)に帰郷するまで18年間修業し、船越の右腕として空手道の普及に専念した。空手の紹介演武の際には、船越が型の演武を、平が板割り(一寸(約3cm)6枚)をしたといわれている。当時、平が船越と共に空手の指導に当たっていた学校は以下のとおりである。陸軍戸山学校、中央大学、早稲田大学、日本医科大学、慶応義塾大学、法政大学、東京農業大学、国士館大学、國學院大學等々である。平は1929年(昭和4年)、空手指導の為上京していた屋比久孟伝より、琉球古武道(棒術と釵術)の指導を受ける。1932年(昭和7年)、群馬県伊香保温泉に船越配下の支部道場を開き、空手と琉球古武道の指導に当たる。その翌年の1933年(昭和8年)の8月には、屋比久より琉球古武道の師範免状を授与される。そして、1929年より1940年7月まで引き続き屋比久に師事する。1934年(昭和9年)、大阪より首里手の大家摩文仁賢和を伊香保温泉町松濤館支部に招き6ヵ月間師事する。1940年10月に帰郷、那覇市に古武道の道場を開設。以来沖縄及び、関東・関西において、琉球古武道の指導に当たった。平は、沖縄の古武道が指導後継者もなく日々衰退しつつあることを甚だ遺憾に感じ、「琉球古武道保存振興会趣意書」の中で次のように述べている。「琉球の古武道をこのまま死滅させるには忍びない。何とか記録にでも止めて、広く永久に伝承させたい。(中略)この尊い無形文化財武術を保存の為に研究していくのが我々の義務であり責任であります。古武道が農村の地方に埋めないで広く世界に紹介して国民体育の資料として普及させる可きであると確信するものであります」1964年(昭和39年)7月1日、全日本古武道連盟総裁賀陽恒憲(宮殿下)より、範士の称号を授与される。同年8月、「琉球古武道大鑑」を著す。琉球古武術保存振興会会長2代目宗家井上貴勝は新版刊行に寄せて、「平先生の琉球古武術に関する最大の功績は、空手と双璧に位置付けられている琉球の武器術の衰微を憂慮し、沖縄各地に残存埋没していた武器術の型を探し求め、ついに八種の武器からなる計四十二の型を集大成された事である。そしてこれらの型は当時保存に努めておられた沖縄各地の長老の先生方との型合わせの成果を含め、沖縄に継承されていた武器術の型の全てといっても過言ではない。」と述べている。平は、清貧に甘んじた武人であり、一生を古武道の研究・普及・発展に尽力し、沖縄に伝わる42種類の型を保持し、後輩に遺している。1970年(昭和45年)9月1日、那覇市神原の自宅にて73年の武道一筋の生涯を全うする。
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