構造改革論争以後
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鈴木派の実力者だった佐々木更三は、同じ鈴木派の江田三郎が構造改革論を唱えると、社会主義協会と手を組んで構造改革論批判をはじめ、構造改革論争を引き起こした。この論争はやがて、「江田おろし」の様相を呈するようになり、党内では熾烈な派閥抗争が展開されるようになった。佐々木派は中華人民共和国と、社会主義協会はソビエト連邦との関係を深めたが、そのため左派が掲げる非武装中立主義に対する国民の信頼は薄くなっていった。 1970年代には、社会主義協会が活動家の支持を受けて勢いを振るうようになり、プロレタリア独裁を肯定するなど過激な主張をするようになった。そのため、社会党が左傾化した責任を協会のみに負わせようとする者もいたが、実際には当時の右派の幹部よりも、向坂逸郎・太田薫らの方が極左と言われる人々に対しては批判的だった。しかし、1977年(昭和52年)の江田離党とその後の死をきっかけに、右派と中国派がともに向坂協会を糾弾し、理論研究集団に徹することを約束させた。以後、右派の発言権が高まり、左派出身の委員長の下で、社会党のイデオロギーや政治路線の見直しが右派の主張に従って進められるという状態が続いた。1986年(昭和61年)の「日本社会党の新宣言」決定で、路線上の左派優位は収束した。 土井たか子は、1970年代には右派系の新しい流れの会に属し、本来は左派とはいえない人物であった。1986年(昭和61年)のダブル選挙敗北による石橋委員長辞任により、委員長に選出された。土井は消費税に絶対反対の姿勢を貫き1989年参院選挙、1990年総選挙で社会党は躍進した。 この時期の主な政治家は以下のとおり。 藤原豊次郎 - 市川市議を経て旧千葉1区から当選。日中友好運動に尽力し、後に「日本社会党中国派」を結成する。 佐々木更三 - 社会主義協会と組んで執拗な江田批判をおこなう。しかし、次第に自らの政治基盤を社会主義協会に侵食され、江田と和解し、反協会派を形成する。 成田知巳 - 委員長。「福祉国家の道は採らない。社会主義で行く」と言明。ヨーロッパにおける社会主義像の変化に鈍感であった。第三国を経由せず船で日本海を横断して北朝鮮を訪問した。 亀田得治 - 成田の盟友だったが、社公連合政権構想や社公民路線に反発し離党。共産党との共闘を進め、全国革新懇代表世話人となった。 馬場昇 - 副委員長。中間左派「日本社会党新生研究会」代表委員。社公民路線に懐疑的で、委員長石橋政嗣の「自衛隊違憲合法論」に批判的だった。 高沢寅男 - 学生時代は共産党国際派として、不破哲三、安東仁兵衛、武井昭夫らと活動した。社会党入党後は社会主義協会に所属し、「協会のプリンス」と呼ばれる。晩年は自民党推薦で練馬区長選に出馬、落選した。 土井たか子 - 反自民の風潮に乗って「マドンナブーム」を引き起こすが、政権戦略に欠けていたため、ブームを一過性のものにしか出来なかった。
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構造改革論争以後
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1959年(昭和34年)、社会党で西尾除名問題が立ち上がり、社会党右派のうち西尾派と河上派の半分が民主社会党を結成し、社会党からの離党に追い込まれる。旧来の右派は、河上派の残存グループとなる。 その後、欧州で最も現実主義的な共産党のイタリア共産党は、革命は永続的な改革であるとして、議会主義を受け入れる構造改革理論の研究が国内で始まり、日本共産党や日本社会党の専従者などに影響を与える。日本共産党では構造改革論が封じられ、従来からの半封建的な日本社会の民主化過程として、地域の世話焼き活動などに消化される。 一方で、社会党左派の理論は一段階革命であったため、革命理論と、戦後体制を是認する議会主義や民主主義との矛盾を整理する理論が必要とされたことから、日々の改革を革命と位置づけ議会主義を正当化する構造改革論が受け入れられた。 1960年の浅沼刺殺事件の直後、構造改革理論は党の理論として採択された。その後、最大派閥で江田が所属していた社会主義研究会(佐々木派)が構造改革理論に反対の立場となり、江田は佐々木派と袂を分かつ。ここから構造改革理論を推進する江田派・和田派・河上派が右派と呼ばれるようになった。 1969年(昭和44年)の総選挙で社会党が大敗すると、江田は公明党や民社党と共闘することにより議会を通じて非自民政権を目指すようになるが、一方、和田派の後継派閥勝間田清一派の多数派は左派寄りになっていった。一時、江田派・公明党・民社党による新党結成の動きもあったが、党内の左傾化、とりわけ最左派の社会主義協会派の伸長により、江田が決断出来ず頓挫した。 1977年(昭和52年)の社会党大会で、社会主義協会派により江田除名が議題になり、江田が離党する。その直後、江田は急死する。それまで執拗に江田を攻撃してきた社会主義協会に対する不満が党内外から噴出し、社会主義協会規制をめぐって党内論争が繰り広げられる。 この頃になると、最大派閥の佐々木派の軌道修正が図られ、社会主義協会の包囲網に加わる。右派の隊列が強化され、以後、かつて江田が主張した社公民連合による政権獲得が目指されるようになった。 イデオロギーと理想の実現よりも現実の政権獲得を第一の目標とする傾向があり、自衛隊の存在を事実上容認した。しかし、江田三郎ら一部を除いて、自民党政権に代わる新たな政権(社公民政権)の青写真を示すだけの力量を持った政治家が登場しなかったことは、組織の発展にとって少なからぬネックとなった(これは左派にもいえる)。外交・安全保障問題で前述のようなスタンスを取るようになったことから、社会党右派を「保守でも革新でもない中途半端なイメージ」と評する声もあった。 この時期の主な政治家は以下のとおり。 江田三郎 - 戦前は地方議員で、社会大衆党にあっては反戦姿勢が強かった。社共共闘に反対し、社公民路線を主張したことから、側近の大柴滋夫らと共に離党を余儀なくされ、婦人有権者同盟のシンボル、市川房枝を担いだ市民運動のホープ菅直人と共に社会市民連合を結成した。しかし、立候補を予定した参院選を目前に急死した。息子の江田五月が裁判官を退官し、代わって出馬し当選する。翌年、社会党右派で江田側近だった阿部昭吾、やはり右派の新しい流れの会から、田英夫、楢崎弥之助、秦豊らが離党してこれに合流、社会民主連合となった。 加藤清政 - 自治労および都議出身。飛鳥田一雄と対立し離党する。後に自民党に入り、千代田区長となった。 田邊誠 - 江田三郎離党後の右派の中心人物。河上丈太郎委員長以来、26年ぶりに右派出身の委員長となる。金丸信と親交を持ち、自民党と協調する一方で、中道政党との連携も推し進めた。しかし、PKO法案採決の際には左派の強硬姿勢を抑えられなかった。 畑和 - 元埼玉県知事。1992年(平成4年)の県知事選挙で続投を辞退し、自由民主党所属の土屋義彦・参議院議長に事実上の禅譲を果たした。「地方自治に保守も革新もない」という「新・現実主義」なる比較的現実的な県政運営を行い、県民からの強い支持を背景に5期20年の長期在任となった。 横路孝弘 - 元北海道知事。動燃建設に反対してくれることを期待されて、多数の勝手連の支援の下に当選を果たしたが、現実対応と称して動燃建設に賛成した。民主党には率先して参加し、小沢一郎と自衛隊海外派遣で合意した。 田英夫 - 元ニュースキャスターで「新しい流れの会」出身。MPD・平和と民主運動呼びかけ人。社民連の代表となった。細川内閣以後は國弘正雄らとともに新党護憲リベラルを結党。平和・市民を経て社会民主党へ合流した。 上田哲 - NHK労組出身で中間右派「火曜会」所属。社会主義協会と対立する一方、護憲派として活動。田邊や土井たか子の対抗馬として社会党委員長選挙に出馬した。1993年(平成5年)の落選後は離党し、護憲新党あかつき、スポーツ平和党、社会党 (2000年)、老人党東京などで活動し、各種選挙に多数出馬した。 安恒良一 - 日本私鉄労働組合総連合会(私鉄総連)書記長、原水爆禁止日本国民会議(原水禁)常任執行委員、日本労働組合総評議会(総評)副議長などを歴任するが、東京佐川急便事件により失脚した。 上田卓三 - ソ連派の日本共産党(日本のこえ)出身。部落解放同盟活動家、KGBスパイとして暗躍した。また、リクルート事件に関与した。後に経営者団体のティグレを設立する。 千葉佳男 - 1967年に初当選し1期務めるが、その後落選し離党した。右翼団体「大行社政治連盟」に移籍した。
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