構造改革論争と「道」の策定とは? わかりやすく解説

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構造改革論争と「道」の策定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 17:21 UTC 版)

日本社会党」の記事における「構造改革論争と「道」の策定」の解説

民社党分裂したものの野党第1党地位維持しながら、保守勢力対す革新勢力中心として存続した。浅沼稲次郎委員長刺殺事件直後1960年第29回総選挙では、145議席獲得民社党参加者の分を18議席奪い返したが、民社との潰し合いもあり、自民296議席逆に議席増やした1958年総選挙直後から、党内では党組織改革運動始まり中心人物江田三郎は、若手活動家支持によって指導者地位確立した江田安保闘争三池争議挫折反省から、漸進的な改革積み重ねによって社会主義実現しようという構造改革論提唱するが、江田台頭警戒心抱いた佐々木更三との派閥対立激化させる結果終わったまた、佐々木手を結んだ社会主義協会発言力上昇した。党の「大衆化」の掛け声とは裏腹に指導者たちは派閥抗争明け暮れ社会党専ら総評組織力依存する体質陥った1964年には、社会主義協会影響が強い綱領文書日本における社会主義への道」(通称「道」)が決定され事実上綱領となった「道」1966年補訂で、事実上プロレタリア独裁肯定する表現盛り込まれた。 社会党社会民主主義政党による社会主義インターナショナル加盟していたが(民社党分裂後別個に加盟)、社民主義については、資本主義体制認めた上の改良主義に過ぎないと、左派中心に非常に敵視した。左派は、現体制改良ではなく資本主義体制そのもの打倒する革命志向し社民主義への転換資本主義への敗北だと受け止めたのである民社党離反による左派勢力増大もあり、党内右派積極的に社民主義主張できなくなったその結果社会主義インター加盟政党ありながらソ連中国東欧諸国など東側共産主義陣営親近感を示す特異な綱領をもつ政党となったこの間社会党幹部ソ連中国友好訪問繰り返す一方アメリカについては、1957年訪米団を派遣してから、18年間も訪米団が派遣されないなど疎遠な関係が続き共産主義東側諸国傾斜した外交政策がとられた。なお、社会主義インター日本社会党反対する米国の「ベトナム戦争」を支持したため、社会党しばらくの間会費滞納していたという。しかし退会はしなかった。 この時期日本共産党第6回全国協議会六全協)を開催し混乱要因であった武装闘争路線放棄しソ連中国決別し自主独立路線採用した日本共産党日本社会マイノリティーとも一線を引くことになり、部落解放同盟朝鮮総連日本共産党と距離をおき、日本社会党との距離を縮めていくことになる。 党内の派閥対立は、民社党として右派離脱後は安全保障自衛隊日米安保認めるか)を巡るものはほぼ解消されマルクス・レーニン主義路線是非を問うものに変わっていった。

※この「構造改革論争と「道」の策定」の解説は、「日本社会党」の解説の一部です。
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