概史・年表
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 14:15 UTC 版)
以下、各国史書に基づき、三韓征伐に関する、新羅、倭国、百済ほかの歴史を概説する。なお、年代は計算によっても異なるので、三韓征伐を現時点で特定できない以上、新羅と倭国はじめ関係諸国の史書における記録を網羅する。 新羅初代王赫居世居西干の時代(在位:紀元前57年 - 紀元後4年)紀元前50年、倭人が侵攻してくるが、赫居世王の説得に応じて倭軍は撤退する。また重臣に、もとは倭人の瓠公がいた。 2代王南解次次雄の時代(在位:4年 - 24年)14年には倭人が兵船100艘余りで攻め寄せ、海岸の民家を略奪した。これに対して六部の精兵を派遣したところ、手薄になった首都を楽浪軍に攻められた。しかし、流星が楽浪軍の陣に落ちたため、彼らは恐れて引き上げたという。さらに六部の兵を送って追撃させたが、賊軍が多いので追撃は中止となった。 第4代新羅王の脱解尼師今の時代(在位57年-80年)脱解尼師今は倭国から東北一千里の多婆那国の王の子といわれ、この多婆那国は日本列島の丹波国に比定される事が多い。脱解尼師今の出身氏族である昔氏は倭国と交易していた倭人の氏族とされる。 73年、倭人が木出島(慶尚南道蔚山広域市の目島)に進入してきたので、角干(1等官の伊伐飡の別名)の羽烏(うう)を派遣したが敗れ、羽烏は戦死した。 77年には伽耶と戦って大勝した阿飡(6等官)の吉門を波珍飡(4等官)に引き上げた。 第5代新羅王の婆娑尼師今の時代(在位80年-112年)倭国に服属した新羅王(波沙寐錦、はさむきむ)のことを指すともいわれる。また、414年に建てられた広開土王碑の第三面二行に「新羅寐錦」とあり、中原高句麗碑では、高句麗を「大王」、新羅王を「東夷之寐錦」としていることから、「寐錦」は、新羅の固有の君主号ともいう。法興王11年(524年)の建立とされる蔚珍鳳坪碑に法興王は「寐錦王」として現れている。また、同時に連なっている高官に「葛文王」の表記が見られることから、6世紀初頭当時の新羅が絶対的な「王」による一元的な王権の支配下にあったわけではなく、寐錦王と葛文王という二つの権力の並存であったとする説もある。なお、法興王の前代の智証麻立干(500-514年)の時代に国号を新羅、君主号を王に定めた。 第6代新羅王の祇摩尼師今の時代(在位:112年 - 134年)121年2月に大甑山城(釜山広域市東莱区)を築いた。同年4月に倭人が東部海岸に侵入した。 翌年123年3月に倭国と講和した。 第8代新羅王の阿達羅尼師今の時代(在位:154年 - 184年)158年、倭人が来訪する。 173年5月、倭の女王卑彌乎が新羅に使者を送る。しかしこれは、『三国志』東夷伝倭人条からの造作で、かつ干支を一運遡らせたとする説もある。 第9代新羅王の伐休尼師今の時代(在位:184年 - 196年)193年6月には倭人が飢饉に見舞われ、食を求めて1千余人が新羅に流入した。 第10代王奈解尼師今の時代(在位:196年 - 230年)200年(仲哀天皇9年)天皇崩御後、応神天皇を身籠っていた神功皇后は対馬より半島に至り、新羅王都に到る。新羅王の波沙寐綿は抵抗することなく降伏し、微叱己知波珍干岐を人質に出し、「馬飼部」となることを宣言し、毎年の男女を貢ぐと誓約した。なお、古事記は仲哀天皇崩御を362年とする。 205年(神功皇后摂政5年)人質の微叱旱岐が新羅に逃げ帰った。 208年夏4月、倭人が国境を侵す。奈解王は将軍昔利音に反撃させた。 第11代王助賁尼師今の時代(在位:230年 - 247年)232年4月に倭人が首都金城に攻め入った。王も出陣して倭人を壊滅させ、騎馬隊を派遣して首級1千をあげた。 233年5月、倭人が東部国境に侵入。同7月、将軍の昔于老が沙道で倭軍を撃退、倭人の兵船を焼き払う。 第12代王沾解尼師今の時代(在位:247年 - 261年)249年夏4月、倭人が昔于老を殺害。 249年(神功皇后摂政49年)、荒田別・鹿我別を派遣し、百済の木羅斤資らと共に新羅を破る。 第13代王味鄒尼師今の時代(在位:262年 - 284年)262年(神功皇后摂政62年)、新羅が朝貢しなかったので葛城襲津彦を派遣して討たせた。 272年(応神天皇3年)、百済の辰斯王が天皇に礼を失したので、紀角宿禰・羽田矢代宿禰・蘇我石川宿禰・平群木菟宿禰が遣わされ、その無礼を責めた。これに対して百済は辰斯王を殺して謝罪した。そして紀角宿禰らは阿花王を立てて帰国した。 277年(応神天皇8年)、百済の阿花王は王子の直支(とき)を人質として日本に送った。 283年(応神天皇14年)、弓月君が百済から来て、天皇に奏上した。「私の国の百二十県の民が帰化を求めていますが、新羅人が阻むため、みな加羅国に留まっています。」天皇は葛城襲津彦を遣わして、加羅国の弓月の民を召したが、三年を経ても襲津彦は帰らなかった。 第14代の王儒礼尼師今の時代(在位:284年 - 298年)285年(応神天皇16年)、天皇は平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)、的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)を加羅に遣わした。天皇は精兵を授けて、「襲津彦が帰らないのは、きっと新羅が邪魔をしているからだ。お前達は速やかに赴いて新羅を撃ちその道を開け。」と命じた。木菟宿禰らは精兵を進めて新羅の国境に臨んだ。新羅王は恐れて、その罪に服した。二人は弓月の民を率いて襲津彦と共に倭国に帰ってきた。 285年(応神天皇16年)、百済の阿花王が薨去した。日本に人質として滞在していた直支が帰国して王となった。 287年4月、倭人が一礼部に来たり、集落に放火し、1千人を捕虜にして立ち去った。 292年、倭兵が沙道城(慶尚北道浦項市)を陥落させようとしたので一吉飡の大谷に命じて救援させたが、倭軍が攻略した。 294年、倭兵が長峯城を攻略した。また、沙道城を改築して沙伐州(慶尚北道尚州市)の有力な80余家を移住させ、倭に備えたという。 297年、伊西国に攻められ首都金城(慶州市)を包囲されるが、竹葉軍の助力で防衛に成功した。 297年(応神天皇28年)、高句麗王が遣使し朝貢した。その上表文に「高麗王教日本國也」とあった。太子の菟道稚郎子は無礼を怒り、高句麗の使者を責め、表を破った。 第15代の王基臨尼師今の時代(在位:298年 - 310年)300年1月、倭国と使者を交わした。 307年、国号を新羅に戻した。 第16代の王訖解尼師今の時代(在位:310年 - 356年)312年、倭国王が王子の通婚を要求。王子ではないが、阿飡(6等官)の急利の娘を嫁として送った。 323年(仁徳天皇11年)、新羅が朝貢に参じる。 329年(仁徳天皇17年)、新羅が朝貢を怠る。9月、砥田宿禰と賢遺臣を派遣して詰問すると、新羅は貢納を果たした。 344年、倭国は再び通婚を要求。しかし、新羅側は娘は嫁に行ったとして断った。 345年、倭国は怒り、国書を送って国交断絶。 346年、倭国は風島を襲撃し、さらに進撃して首都金城を包囲攻撃した。訖解尼師今は出撃しようとしたが、伊伐飡の康正の進言によって倭軍の疲弊するのを待ち、食料が尽きて退却する倭軍を追撃して敗走させたとする。 353年(仁徳天皇41年)、天皇の命で紀角宿禰が百済に遣わされ、初めて国郡の境を分けて郷土の産物を記録した。その際、百済王同族の酒君に無礼があったので紀角宿禰が叱責すると、百済王はかしこまり、鉄鎖で酒君を縛り葛城襲津彦に従わせて日本に送った。 新羅17代王奈勿尼師今の時代(在位:356年 - 402年)356年、奈勿尼師今が即位。新羅の実質上の建国年とも。 364年4月、倭軍が侵入。数千体の草人形に服を着せて兵器を持たせて吐含山(標高746m)の麓に並べ、1千人を斧峴(慶州市南東部?)の東に伏兵としておき、倭軍に不意討ちをかけて撃退したとする。 365年(仁徳天皇53年)5月、新羅が朝貢を怠ったため竹葉瀬・田道を派遣し征伐。率いる兵が少ないため砦へ篭って防戦に努めていたが、新羅軍の虚を突いて壊滅させ、四つの村の民を捕虜として連れ帰る。 391年(辛卯年)倭が海を渡って百済(百残)・加羅(二字不明で異説あり)・新羅を破り、倭国の臣民となした。 392年正月に高句麗は新羅に使者を送ってきた。新羅は高句麗を恐れ、王族の伊飡(2等官)大西知の子の実聖(後の実聖尼師今)を人質として差し出した。秋7月、高句麗王好太王が4万の兵で百済北の国境を攻め、石峴など10余りの城を落とした。冬10月、高句麗は百済の関彌城を落とした。百済の辰斯王が11月、狗原の行宮にて死去した。 393年5月に倭軍が侵入し首都金城(慶州市)を包囲されたが、倭軍の退却中に騎兵200を送って退路を塞ぎ、歩兵1千を送って独山(慶尚北道慶州市)付近で挟撃させ、倭軍を大敗させた。 397年、百済の阿莘王は王子腆支を人質として倭に差し出し服属した(『三国史記』百済本紀)。 399年(永楽9年)、百済は高句麗との誓いを破って倭と和通したため、高句麗王は百済を討つため平壌に侵攻した。同じ頃、新羅は倭軍が国境を越えて城を攻略し民を奴客となし、首都を囲んでいるため、高句麗に救援を求めた。新羅の長が自ら使者として高句麗王に拝謁し「多くの倭人が新羅に侵入して城を落とし首都を囲んでいる」と窮状を訴え、高句麗の臣下になる事を願い出たので、大王は救援することにした。 400年(永楽10年)、高句麗は倭の侵攻を受けていた新羅に歩騎五万を派遣し、新羅を救援する。このとき新羅の首都は倭軍の侵攻を受けていたが、高句麗軍が迫ると、倭軍は任那・加羅まで後退を始め高句麗軍は後を追った。ところが、倭傘下の安羅軍などが逆を突いて、新羅の首都を占領した。 新羅18代王実聖尼師今の時代(在位:402年 - 417年)402年、三月、新羅が倭国と通好し、新羅は奈勿尼師今の子、未斯欣を人質として倭に送った。 404年(永楽14年)、帯方界で倭軍の攻撃を受けるが高句麗は撃退した。 405年、倭兵が明活城を攻める。 405年、百済の阿莘王が薨去し、倭国の人質になっていた腆支が帰国して即位した(『三国史記』百済本紀)。 407年、春3月、倭人が東辺を侵し、夏6月にまた南辺を攻める。 新羅19代王訥祇麻立干の時代(在位:417年 - 458年)418年、人質の未斯欣が倭国から逃げ帰った。
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