日本のプロレス団体との関係
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「ワールド・レスリング・アソシエーション (ティフアナ)」の記事における「日本のプロレス団体との関係」の解説
日本のプロレス界との関係としては、創生期のFMWと深く関わり、コネクションを築いてきたことが挙げられる。 WWAが女子王座を新設した際には、その初代王者決定戦を東京で開催(1990年11月5日、駒沢オリンピック公園総合運動場体育館)。日本代表として出場のコンバット豊田が、アメリカ代表のビースティ・ザ・ロード・ウォリアーを破り、初代王者に就いている。 1991年、FMWとDILA(ソビエト連邦のプロ格闘家の組織)と共に、タイトル管理を業務とするWFDAを組織。ブラスナックル王座(大仁田厚が保持)の後継にあたる世界マーシャルアーツ王座と世界マーシャルアーツタッグ王座を認定。 若手だった上野幸秀や市原昭仁も、WWAのテリトリーだったメキシコで海外修業を行っている。 1992年5月、FMWが(団体ごとパッケージという形での)初の海外遠征に赴いた際に回ったのも、やはりWWAのエリアだったメキシコのティファナとアメリカのロサンゼルスだった。
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日本のプロレス団体との関係
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「NWA (プロレス)」の記事における「日本のプロレス団体との関係」の解説
日本では、日本プロレスが1960年代後半にNWAへ加盟した。それ以前にも正式な加盟はしていなかったものの、力道山の存命中から、当時の世界王者であったルー・テーズの招聘を実現させタイトルマッチを組むなどNWA本部とは友好な関係を構築し、正式な加盟後も日プロは崩壊まで、芳の里淳三を名義人として加盟していた。 ジャイアント馬場が日プロを脱退し設立した全日本プロレスは、馬場が日プロ時代にアメリカ遠征していたことからNWAとの関わりが強く、全日本創立直後に日本では日プロがすでに加盟していたにも関わらず、臨時総会まで開いて加盟が認められている(馬場と友好関係にあったアマリロのプロモーターである、ドリー・ファンク・シニアの強力な働きかけによるとされる)。1984年より馬場は、4期に渡って日本人唯一のNWA第一副会長を務めた。だが、ジム・クロケット・ジュニアの権限が強大化したことによってNWA内部のバランスが崩れ、アライアンスとしてのNWAの体制が形骸化したことや、NWAから「鶴田、天龍の世界ヘビー級王座への挑戦は認めない」という指示が出たことにより、全日本はNWAとの関係を見直すようになり、最終的には1990年代前半に脱退し、団体内での闘いにシフトしていった。 新日本プロレスに関しては、当時の社長であったアントニオ猪木が加盟を申請したが、NWA側から拒否され、坂口征二と新間寿が新日本側の加盟名義人として申請し、加盟を認められている。だが、NWAへの加盟は認められたものの、世界ヘビー級タイトルマッチは全日本のみに限られ、新日本では行うことはできなかったりと、待遇には差があった。猪木はこれを逆用して「NWA王者は俺が恐くて挑戦を逃げた」というアングルを展開した。新日本は、NWAを脱退していたWWWF(現:WWE)と提携を結び、WWWFがNWAに再加盟してWWFに改称した後も、NWA反主流派同士として関係は続いた。その後、WWFと提携解消に至ると、全日本がNWAと徐々に疎遠になっていったのとは対照的に、NWAとの関係を深め、当時提携していたWCWと連携し、空位になった世界ヘビー級王座の決定トーナメントを開催するなどしていたが、WCWがNWAから脱退したことで、新日本も脱退している。 なお、全日本と新日本の他にも、国際プロレスの吉原功社長も1970年に加盟申請しているが、日プロによる妨害工作で却下されている。また、大木金太郎が韓国のプロモーターとして加盟している。新日本脱退からプロレスリングZERO-ONEの加盟までは、I.W.A.JAPAN、レッスル夢ファクトリー、UFOが加盟していた。I.W.A.JAPAN創始者のビクター・キニョネスはプエルトリコのプロモーターとして1994年から2001年まで加盟していた。 女子では日本女子プロレスが創立して間もなく松永高司を名義人として加盟していたが、松永は日女を離脱して全日本女子プロレスを旗揚げしたため、そのまま全女に移るも、1970年にWWWAの権利を獲得したのもありNWAとの関係は疎遠になっていた。しかし、1970年代末期に全女はファビュラス・ムーラと、その一門をNWAチャンピオンとして招聘し、ムーラの女子王座をナンシー久美に女子タッグ王座を横田利美&塙せい子に、それぞれ挑戦させている。2000年にはNEO女子プロレスが加盟し、NWA女子パシフィック王座&NEOシングル王座を創設している。 2001年に橋本真也が率いるプロレスリングZERO-ONEがNWAに加盟し、実質的な日本支部として活動を行い、「NWA」の冠の付いた王座を複数認定していた。2004年にZERO-ONEが崩壊したことで関係は一時途絶えるが、後継団体のプロレスリングZERO1では引き続き独自に「NWA」の冠がつくタッグ王座の管理・認定を続けた。2011年にはZERO1がNWAに加盟(実質的には再加盟)したことで、これらZERO1が管理するNWA王座もNWA側により追認された。しかしザ・シーク(2代目)が持つNWA世界ヘビー級王座の剥奪に抗議して同年限りでNWAから脱退し、同じNWAの略称を持つ独自の組織たる「ニュー・レスリング・アライアンス(New Wrestling Alliance)」を創設した。 一方、ZERO-ONE崩壊後、当時新日本取締役だったサイモン・ケリー猪木がNWAに加盟し、再び新日本と関係を持つが、サイモンの新日本退社とIGF旗揚げに伴い、新日本はNWAから脱退し、代わりにIGFが加盟。IGFでは澤田敦士がNWAヘリテイジ王座を獲得しており、NWA傘下当時のZERO1主催の大会「火祭り」にNWA枠として出場した。 2013年3月、NWA側から新日本へ挑戦表明の映像が公開され、同年4月開催予定の新日本両国国技館大会への参戦を直訴し、世界ヘビー級王座、世界ジュニアヘビー級王座、世界タッグ王座のタイトルマッチが行われるなど、再び交流を持つようになった。だが、あくまで新日本では、同団体の王座であるIWGPを格上の王座として対応している。 2015年、NWA世界女子王者のサンタナ・ギャレットがスターダムに参戦し、同団体にて世界女子王座のタイトルマッチが行われることになった。 2016年以降、新日本との交流が無くなり、その後はDSW(ダイヤモンド・スターズ・レスリング)の興行でNWA世界王者が来日し、タイトルマッチを行っていたが、翌2017年にはDSWとの関係も無くなり(DSWは2018年解散)、スターダムへも女子王者が来日する事もなくなり、日本のプロレス団体とは交流の無い状態が続いている。
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日本のプロレス団体との関係
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「ROH」の記事における「日本のプロレス団体との関係」の解説
試合内容重視の方針と相まって、ROHへの日本人選手の参戦者は多い。2019年現在は新日本プロレス、並びにスターダムとの業務提携を結んでいる。過去にはプロレスリング・ノアからの参戦者が多く、DRAGON GATEも選手派遣を実施していた。前述の2団体以外にも、選手個人として、または個人事務所を通して参戦したことがあるものも多数いる。 主な日本人の参戦経験者は、武藤敬司、小橋建太、獣神サンダー・ライガー、田中将斗、大谷晋二郎、ミラノコレクションA.T.、丸藤正道、KENTA、CIMA、飯伏幸太、坂井澄江、松本浩代、中川ともか、栗原あゆみなどがいる。2007年2月には、森嶋猛がホミサイドを破り、ROHヘビー級王座を獲得。3月には、土井成樹と鷹木信悟がROH世界タッグ王座を獲得している。 2003年12月27日には、「全日本プロレス vs ROH」と銘打たれた興行が行われ、全日本の主力選手が参戦している。 2006年9月12日に発足したグローバル・レスリング連盟には設立当時から加盟している。 2007年7月16日にディファ有明、7月17日に大阪府立体育会館第2競技場で、ROH初の日本で興行を開催。なお、この興行は、友好関係にあるノアとDRAGON GATEが全面バックアップを行った。 2008年9月13日と14日には、東京・ディファ有明で2度目の日本で興行を開催。1日目は、DRAGON GATE、2日目はノアの協力のもとに行われた(なお、2009年4月、DRAGON GATEは、この大会におけるROHからのギャランティが未払いとなっていることを理由に現在は絶縁状態にあることを発表。その後、ROHを離脱したゲイブ・サポルスキーを迎えてDRAGON GATE USAを設立)。 日本でのテレビ放送は、2007年にFIGHTING TV サムライで過去の試合を放送するレギュラー番組枠が出来たほか(現在は終了)、日本テレビと提携しているノアの選手が登場する時はノアの中継番組内で試合の様子をダイジェストで放送することがある。 2009年6月13日のニューヨーク大会では、同日急逝した三沢光晴に対して選手全員で追悼の10カウントゴングを捧げた。 2012年5月と2013年5月にはトロントで「Boder Wars」と大会名で新日本プロレスと合同で開催。 2013年8月5日のトロント大会には新日本プロレスのKUSHIDAが参戦。 2014年2月23日、ROHと新日本が5月10日にトロントで「Global Wars」、17日にニューヨークで「War Of The Worlds」共同大会を開催すると発表。以降、マット・ターバン、マイケル・ベネット、マリア・ケネリスが新日本に参戦。 2015年5月12日から16日にかけてもトロントなど北米地区で新日本と共同で開催。オカダ・カズチカ、棚橋弘至、中邑真輔、内藤哲也、獣神サンダー・ライガー、外道が参戦。 2016年5月にもトロントなど北米地区で新日本と共同で開催。 2019年4月6日にはマジソン・スクエア・ガーデンで新日本プロレスとの合同興行「G1 SUPERCARD」を開催。
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日本のプロレス団体との関係
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「AAA (プロレス)」の記事における「日本のプロレス団体との関係」の解説
2000年、後楽園ホールで年間最大イベント「トリプレマニア8」を開催して横浜、名古屋、神戸、大阪のJAPANツアーを開催。 2003年と2004年には日本で単独興行を開催。 2007年9月3日、ディファ有明でプロレスリング・ノアとの共催で「トリプレセム」を開催。 2008年5月25日、「レイナ・デ・レイナス」にOZアカデミー女子プロレスの選手が参戦。 2010年3月19日、メキシコでノア所属選手の森嶋猛&石森太二組がAAA世界タッグ王座を獲得。 2011年10月23日、全日本プロレス両国国技館大会でダーク・オズ&ダーク・クエルボ組が世界タッグ王座を獲得。 2012年11月27日、プロレスリングWAVEとのコラボレーション興行を後楽園ホールで開催して10回目となる「レイナ・デ・レイナス」も興行内に盛り込まれた。 2015年5月24日、メキシコシティのパラシオ・デ・ロス・デポルテスで開催した第1回「ルチャリブレ・ワールドカップ」に日本から高山善廣(高山堂)&石森(ノア)&小峠篤司(ノア)組とKENSO(全日本)&3代目タイガーマスク(フリー)&政宗(フリー)組が出場。 2016年5月24日、第2回「ルチャリブレ・ワールドカップ」に丸藤正道(ノア)&マイバッハ谷口(ノア)&石森(ノア)組と曙(王道)&田中将斗(プロレスリングZERO1)&日高郁人(ZERO1)組が出場。新たに立ち上げた女子部にアジャ・コング(OZアカデミー)&宮崎有妃(フリー)&夏すみれ(WAVE)組が出場。10月26日、後楽園ホールで「Star Battle Japan 2016」を単独興行を開催。
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日本のプロレス団体との関係
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「アメリカン・レスリング・アソシエーション」の記事における「日本のプロレス団体との関係」の解説
日本のプロレス団体とはNWAが日本プロレスと業務提携を結んでいたため、その対抗策として1970年に国際プロレスと業務提携を結んだ。AWA世界ヘビー級王者のバーン・ガニアをはじめ、AWA世界タッグ王者のマッドドッグ・バション&ブッチャー・バションやニック・ボックウィンクル&レイ・スティーブンス、初来日の「まだ見ぬ強豪」だったダスティ・ローデスやワフー・マクダニエルなどのスター選手が続々と国際プロレスに来日している。その一方で、ビル・ロビンソンやモンスター・ロシモフなど、国際プロレスに参戦していたヨーロッパの選手がAWAに登場して、彼らのアメリカ進出の契機ともなった。しかし、団体のエースだったストロング小林の離脱やTBSのテレビ放送打ち切りなどで経営状態が悪化した国際プロレスは、高額なブッキング料が必要とされるAWAとの提携を1975年に解消。カルガリーに居住していた大剛鉄之助をブッカーに、カナダを外国人選手の新しい招聘ルートとした。 以降、AWAは全日本プロレスと提携を開始したが、もともと全日本プロレスは国際プロレスと友好的な関係にあったこともあり、1979年から1980年にかけては、当時のAWA世界ヘビー級王者ボックウィンクルが国際プロレスに再登場し、ラッシャー木村や大木金太郎を相手に防衛戦を行った。ガニアもこの時期に国際に再登場しており、国際の看板タイトルIWA世界ヘビー級王座をガニアが一度奪取しているのは業務提携期ではなくこの頃のことである。1981年の国際プロレス崩壊後は日本での提携先を全日本プロレスに絞り、1984年にはジャンボ鶴田が日本人初のAWA世界ヘビー級王者となっている。活動末期の1980年代末からは、マサ斎藤の仲介で新日本プロレスとも関係を持つようになった(斎藤はかつてAWAでヒールとして活躍していた。なお鶴田も斎藤もガニア同様レスリングのオリンピック選手からプロに転向した人物である)。女子プロレス団体では1980年代後半にジャパン女子プロレスと接点を持ち、AWA世界女子王者のシェリー・マーテルが来日して防衛戦を行っている。
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