援護法適用のための偽証との見方
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「沖縄戦における集団自決」の記事における「援護法適用のための偽証との見方」の解説
渡嘉敷島・座間味島の事例などについて、軍による強制であるとの証言が行われてきたのは、援護法の適用を受けるための偽証だったのではないかとの主張もある。ただし、これが当時島に駐留した部隊関係者以外の者からも強く主張され始めたのは、2000年に宮城晴美が著した「(母の遺したもの)」の中でその母である宮城初枝(座間味島)が自身には梅沢が自決を指示したことはなかったことが書かれ、それを梅澤裕と赤松嘉次の遺族が2005年に起こした後述の名誉棄損訴訟の提訴理由の中で挙げてから以後のことである。下記議論中の発言や証言は、2005年以前の発言や証言とされるものについても、その幾つかが実際に聞かれるようになったのは、しばしばこの2005年の裁判以降のことであることに注意する必要がある。(なお、渡嘉敷を取りあげた曽野綾子の「ある神話の背景」(1973年)の中にも、渡嘉敷島の赤松隊員であった元兵士から、既にこの主張が自己正当化のためになされていることが書かれている。その一方で、渡嘉敷の場合は、自決命令があったからというよりも、そもそも島民がほぼ何かしらの軍の要請で動員されていたため、全員が準軍属として援護法適用対象となったものであることも、曽野は同書で指摘している。しかし、同時に、"役所というものは意地悪なものであるから、援護法適用の対象となるには軍の自決命令があったと主張する必要がある"という意識が島民の方にはあったに違いないと、曽野は、純然たる民間人の島側住民の話は聞かずに元赤松隊の兵士の話だけで事実上決めつけている。) 宮城晴美(座間味島)は「厚生省の職員が年金受給者を調査するため座間味島を訪れたときに、生き証人である母(宮城初枝)は島の長老に呼び出されて命令があったと言って欲しいと頼まれ、調査に対し、隊長命令は聞いていないが命令があったことにした」(『母の遺したもの』2000年版)と自著に記していた。しかし大江・岩波沖縄戦裁判が始まると、玉砕命令に関する部分については、米軍上陸前夜のその時点の自分らの直接の出来事を述べたのであり、梅澤らの提訴理由は「母は直接聞いていない」とした箇所が都合よく利用されたもので、集団自決自体は軍の強制であると新聞で主張した。(なお、長老からの初枝への依頼は、梅澤隊長の元に自決の話をしにいった5人の唯一の生き残りということで証言依頼が来たもので、島民側もその時そこで自決が決定されたと思っていたためである。) 櫻井よしこは、週刊新潮の自身のコラム『日本ルネッサンス』において、宮城初枝は、上記の告白後、「国の補償金がとまったら、弁償しろ」などと村民等から非難を浴びることとなったが、彼女が再び発言を変えることはなく、数人の住民も真実を語り始め、自決命令は宮里盛秀助役が下した、と書いている。(ただし、原文を読む限り、櫻井自身が実際に何か見たとか聞いたとか云ったことではなく、"きっとこのような事が起こったのではないか"という、櫻井の想像を述べただけのものであるように思われる。)一方、上記『母の遺したもの』の著作者である娘の宮城晴美は、集団自決の命令について座間味島の民間人全員が直接告げられていなかったとしても軍からは島の指導者層に伝えられていたとする。 『神戸新聞』は1987年4月18日付け記事で、座間味島の宮里盛秀助役の弟の宮村幸延が、「兄の宮里盛秀(当時の助役・兵事係)は軍から自決命令を受けていない、梅澤命令説は援護法の適用を受けるために創り出されたものであった」 と認めたと報じた。ただし、これに関し、宮村幸延は、梅澤から”軍命はなかった。住民は自発的に集団自決した”という内容の文書に「公表しない。家内に見せるためだけのものだ」として押印してくれと頼まれ、いったんは断ったものの、その後、直接の面識はないが宮村の戦友に当たると称して訪ねてきた人物らと共に夜通し泡盛を呑み、翌朝酔っている中で再訪してきた梅澤から頼まれ、つい文書に押印したものだと生前語っていたことが、後記の名誉棄損訴訟の中で認められている(当該訴訟が起こされたのは宮村幸延が亡くなってからである)。また、宮平春子(宮里・宮村兄弟の妹)は、さらに集団自決事件当時そもそも宮村幸延は徴兵で福岡に行って座間味にはおらず、このような文書内容を証明出来る筈もないとした上で、この発言内容を認めている。 戦後の琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった照屋昇雄は、「遺族たちに援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。当時、軍命令とする住民は1人もいなかった」「戦後、島の村長らが赤松嘉次元大尉に連絡し、命令を出したことにしてほしいと依頼し、赤松元大尉から同意を得て(本当は命令していないが)命令があった事となった」と語っている。ただし実際には、赤松自身は単に自決は自分の命令したものではないと語ったことしかない。(なお、座間味の梅澤の方は、宮城初枝から自決命令は聞いていなかったとの告白を受けた時に、島の人が助かるならば自分が悪者になるのはかまわない、自身の家族に真実が伝われば十分と語っている。娘の宮城晴美は、このとき母の初枝が雑誌に投稿したことがあったことまでは語っていなかったようで、それが梅澤に裏切られたような思いを与えたのではないかと解している。)また、照屋昇雄は自らを昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課に勤務していたと述べるが、彼が社会局援護課で勤務を始めたのは琉球政府の資料に依れば昭和33年(あるいはせいぜい昭和32年10月から)とする主張もあり、沖縄の集団自決そのものについて適用方針自体は遅くとも昭和32年7月には決まっており、同年の事前に行われた支給対象者の聞取り調査には照屋は援護課職員として間に合っていなかった筈で、照屋の主張は信頼できないとする説がある。 中村粲は、当時、島にいた守備隊の兵士を対象とした自身の調査の結果として「命令がなかったことが明らかであり、年金支給のために軍命令があったという証言が発生した」とする。 他には、赤松ら部隊関係者が1970年にこの時の村長らに招かれて沖縄を訪問した際に激しい抗議運動に沖縄本島で直面し、記者会見を行ったが、そこで赤松の部下であった連下政市元小隊長が「もし本当のことを言ったら大変なことになる。真相はいろんな人に迷惑がかかるから言えない」と語ったことを、援護法適用に結びつける向きもある。ただし、彼らの沖縄訪問の目的はあくまで英霊慰霊のためと主張が一貫しており、彼ら自身が懺悔という言葉を使ったこともなく、会見報道の印象の限りでは、迷惑云々は事件当時の旧軍関係者に対してであり、あくまでも内輪向きの都合を語った主張であるように見受けられる。 そもそも援護法適用については、沖縄復帰にあたっての厚生省の事前調査で悲惨な沖縄戦の状況から救済措置を取る必要が痛感され、そこで、住民がしばしば軍のための作業協力や物資確保に動員され、ときには末端の兵士にまで食事の提供や道案内・情報提供をしていたことに着目し、これらの行為があれば、純然たる雇用関係でなくとも、軍のもとに置かれた何らかの身分類似の関係があるとして、援護法の適用対象にすることが可能ではないかとして考えられたものとされる。準軍属という身分を設け、その中に戦闘参加者という類型を立て、さらにその中で集団自決をした者も対象とされた。何を対象とするかについては軍への積極的な協力が線引の基準とされたとも言われるが、集団自決に関し文言上は軍命の有無は要件とされていない。 また、援護法の性格上、雇用等の身分類似の関係に基づいて権利が発生するものであり、その身分で戦傷病・戦没したときには本来当然に適用対象となる筈のものである。むしろ、純粋な法理論の問題としては、軍の強制ということを殊更強調すれば、積極的な協力者ではなく軍の不法行為による被害者ということになり、また別種の法律適用の問題ではないかとの議論になりかねない。この点について、石原昌家は、軍強制による集団自決となれば積極的な協力者とされないので寧ろ援護法の適用対象から除外されるとしている。現に、戦闘参加者の類型中、壕提供に関しては、兵士らに壕から追い出された住民がその事実のまま援護法適用を申請すると、(提供という言葉に対する審査担当者の単なる言語感覚の問題であったのかもしれないが)自発的な壕提供・軍協力でないとして援護法適用が却下されることがあり、申請窓口担当者に"厚意で"壕提供に書き直させられるケースが生じているとされる。 これに対して、石原俊は、集団自決に関しては事実上軍の強制があったことを前提に援護金が支給されていること、また、行政の担当部門への取材結果として、軍命を受けた結果として軍と自決者の間に命令を受けるような身分類似の関係が発生したものとして行政担当者から扱われているらしきこと、あくまでもその意味において認定に軍の命令が要求されているようであることを報告している。(石原昌家は積極的な協力ということを協力の質や貢献程度の問題として考えたようであるが、審査担当官としては、例えば自発的な難民誘導のように軍の要請が全くない場合は適用不能だが、根こそぎ動員や単なる集合命令であっても軍命を受けて応じたという事実があれば協力者として準軍属の身分が発生し、死が集団自決であれば私的な自殺でなく戦死の一種として認定に十分だったのではないかと考えられる。宮城晴美は自身も軍命が必要だと思っていたが、これは後に作られた説であり、慶良間諸島の場合は当初の段階から全て認定する方針であったことを知ったとしている。もちろん、そうであっても、住民側で自決命令まで軍から出ている必要があると誤解していた可能性はある。) 家永三郎は、『太平洋戦争』の第二版(1986年)では、赤松命令説に関する記述を削除している(ただし梅澤命令説は削除していない)。 しかし、大江・岩波沖縄戦裁判の大阪高裁(2008年10月31日判決)は、次のように判示した。最高裁(2011年4月21日判決)も支持している。 宮城晴美『(母の遺したもの)』について。「『母の遺したもの』から集団自決について援護法の適用のために梅澤命令説が捏造されたとは 認めることはできない。」 宮村幸延の「証言」と題する親書について。作成経緯に疑念がある上、宮村幸延は、「集団自決が発生した際には、座間味島にいなかったのであって、集団自決は 盛秀の命令で行われたとか、梅澤命令が実際にはなかったなどと語れる立場になかったことは明らか」 「当時の 事情を知らず、日本軍と村の関係や集団自決の背景には通じていないのであり、自決命令について語れる立場になかった」として、証拠採用しなかった。 照屋昇雄の証言について。「反対尋問を経ていないこと」「あいまいな点が多く、裏付け調査がされた形跡もないことなど問題が極めて多いものといわざるを得ない」よって「照屋昇雄の話は全く信用できず」として、証拠採用しなかった。 以上のように原告提出の証拠の信用性を否定した上で、「村当局から、援護法適用のため自決命令を出したことにしてくれなどという依頼がなされた形跡はなく、梅澤もその様な依頼を受けたことを述ぺていない。厚生省は現地調査をしているのであり、旧日本軍側への調査なしに(援護法の適用が)なされたとは考えにくい」「梅澤命令説及び赤松命令説は、沖縄において援護法の適用が意識される以前から具体的な内容をともなって存在していたことが認められる」。「日本軍がその作戦に様々な形で住民を協カさせ、軍と行動を共にさせるなどして集団自決などの悲惨な結果を招いていることは沖縄戦全体の特徴(であるとして厚生省は広く適用を認める認定要綱を作成しており、なかでも慶良間諸島は)戦闘に協カした住民を広く準軍属として処遇することになっていたのであるから、梅澤命令説及び赤松命令説を後日になってあえて握造する必要があったとはにわかに考え難い。」よって「援護法適用のために捏造されたものであるとする主張は採用できない」とした。
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