平安期以前とは? わかりやすく解説

平安期以前

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 08:00 UTC 版)

日本庭園」の記事における「平安期以前」の解説

3世紀からの日本列島では国(クニ)の統合政治的連合などが進むなかで、高塚式の墳墓を伴う古墳造られ始めた時代考えられ石室造営石棺の製作と古墳葺石および居館周濠の貼石など大量石材使用と、大きな石材積み上げ固い石を加工するといった技術がみられ、墳丘造成版築呼ばれる工法使用されたり、池溝開作築堤など大規模な土木工事が行われるようになっていた。 『日本書紀』にも庭園に関する記事いくつかみられるが、庭園に関する表現中国典籍からの引用があり、注意要する記述として、たとえば紀元1世紀在位した景行天皇4年74年)春2月には、泳(くくり)の宮の庭をたいそう気に入り、庭にある池を金色で充たしたというくだりがある。この少し後の古墳時代には、庭園古代から仏教世界中心とされてきた須弥山を表す石の山のまわり営まれているとされる。この象徴の山は7世紀にはさかんに造られたらしいことがわかっている。仲哀天皇8年199年春正月では周文王の徳を尊んで庶民集まって霊沼が日ならずしてできた様子記載され白鳥高々飛んで沼池満ち跳ねるといった故事思わせる允恭天皇2年413年)は一人で園に遊ぶ皇后にまがきにのぞんで内のになっているアララギをもとめる記事がある。宅地区画するまがきを設け薗をつくって蔬菜栽培したりするような実質的な空間成立し允恭天皇8年419年)の、井の傍ら櫻華をみる、といった記事自然環境的な美意識確立していた段階見て妥当とされる『日本書紀』によると、7世紀前半在位していた推古天皇も宮の南に須弥山呉橋のある庭を持っていたことや、7世紀後半在位する斉明天皇についても同様であったとされる推古天皇20年612年)に、百済から渡来した人物の中に山岳の形をつくるのに巧みなものがおり、天皇彼に命じて宮廷南庭須弥山しゅみせん)と呉橋(くれのはし)を構えさせたという。また、その話の中には朝鮮百済から渡来した人々中に顔や体に白斑のある者がいたため、病気恐れて海中の島に捨てようとしたのだが、「山岳の形を築く才能が少しはあります」というので皇居南庭に築かせたところ、「須弥山しゅみせん)」と「呉橋(くれのはし)」を巧みにつくったという記述から、斉明天皇の宮では、百済寄留していたイラン系胡人帰化人である路子工(みちのこのたくみ)(別名「芝耆摩呂〈しきまろ〉」)が皇居南庭石上池畔須弥山呉橋屋根欄干付き)を築いたとされる。また620年ごろ蘇我馬子邸宅敷地方形の池を設けこのために「嶋大臣」と呼ばれ、この庭園珍しく評判になっていたという記録がある。平坦な広場として実用的に使われていた「庭」に小池掘り小島築いて観賞対象としての庭園」が造られのである百済から仏教伝えられたとき、崇仏か否か論争があったが、崇仏側の蘇我氏が勝ちを占め飛鳥寺建立された。庭園がこの蘇我氏によってつくられたことは、庭園技術百済より伝来した想像させるまた、斉明天皇3年657年)には都貨邏(とから)国から漂流して筑紫の国着いた男女6人が召され大和飛鳥寺の西に須弥山造ったという記述があり、斉明天皇5年659年)、6年660年)にも須弥山造ったという記述がある。 厳島神社は、空間的特徴海上に浮かぶ大鳥居平舞台本殿を結ぶ軸線対し曲折する回廊取り囲み自然に溶け込む社殿大鳥居アプローチにしたがって見え隠れする配置で、海を庭園池泉見立て背後を囲む山岳神体見立てたもので、海と山を一体的取込んだ雄大な風景組みこまれている。対岸地御前神社厳島神社の対応に至っては、身をもって味わい得ても、図示することは不可能だったと、厳島神社建築庭園実測行った建築家西澤文隆言葉がある。 三重県伊賀市発掘されている祭事関連遺跡である城之越遺跡は後の庭園修景意識技術にかんする遺構有していたため国の名勝及び史跡指定され保護されている。この遺跡古墳時代前期4世紀後半属するとみられ、3箇所からの涌き水合流して大溝となって集落付近流下し、涌き水近く石組み加工木材井戸状に囲い、貼り石護岸有する合流地点の岬部分大石配していくつか立石として景を整え様子うかがわれている。これは後世の流の屈曲点に石を添え手法につながる工法意識であるとされる大化の改新後、天武天皇皇子草壁皇子島大臣〈しまのおとど〉)の邸宅にも庭が設けられその様子は「万葉集」に草壁皇子早世悲しんで春宮舎人たちの詠んだ歌が『万葉集』巻二に残されている。この歌から草壁皇子庭園のようすが相当明らかにされる。庭園には池がうがたれ荒磯思わせる石組みがあり、石組みの間にはツツジ植えられ池中には島があり、このために「の島宮」と称せられたという。また『万葉集』中に見られる古い苑池を詠った歌首の中に例えば「島の宮匂まがり」の池の放ち鳥人目に恋ひて池に潜(かつ)かず(170)」、「御立せし島の荒磯(ありそ)を今見れば生ひざりし草生びにけるかも(181)」、「水伝磯の浦廻(うらみ)の石(いわ)つつじもく咲く道をまた見なむかも(185)」など天武日並皇子の「島の宮」離宮を詠った数首がある。また『懐風藻』(751)の中の(曲水賦)にしても中国古来三月上己の曲水宴日本的風物中に詠い込んだ日本的曲水観と見ることも出来る。このように中国色を巧みに日本の風物の中に調和させてゆくその原点に我国の特色ある景勝地印象無視するわけにはまいらない。それが奈良期では吉野川離宮)であり、平安期では大井河嵐山ということになる。何れも山あり、谷あり、流れあり、滝あり、岩組あり、淀みあり、紅葉新緑もあって正に造園手法典型自然に作っていたと見ることも出来る。このように、池を掘って海の風景表現しようとしたことは、以後日本庭園にも長く受け継がれる記録海浜荒磯・島など海景描写の多いことは日本庭園形成基幹をなすものとして重要で、海からはるかにい山にあっても、海景とくに瀬戸内海美し風景は、この頃からあこがれ追憶対象であり、これを庭園のなかに再現しようとする努力から、築山池・島白砂水流・滝などの自然要素構成される伝統様式へと発展し、すでにこの時代その先駆がみられることを示している。 飛鳥宮平城京跡の庭園発掘がすすみ、文献では得られない知見加えている。1975年昭和50年)に発掘調査おこなわれた平城京左京三条二坊六坪からは、長さ55メートル最大幅5メートルの、細長く屈曲し、底に玉石敷きつめた池が発掘され公的な曲水の宴催され庭園として注目された。池の水深浅く汀線複雑に湾曲しており、池底玉石敷き池縁に石を立てるなど、奈良時代作庭技法当時庭園様子を伺うことができる。

※この「平安期以前」の解説は、「日本庭園」の解説の一部です。
「平安期以前」を含む「日本庭園」の記事については、「日本庭園」の概要を参照ください。

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