弘文天皇陵治定運動
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「白山神社 (君津市俵田)」の記事における「弘文天皇陵治定運動」の解説
白山神社古墳を弘文天皇陵として治定させようという運動は、旧久留里藩士の森勝蔵を中心に繰り広げられた。 発端は、明治4年2月14日付の太政官からの達である。この達は、府・藩・県に対して、管内にある后妃・皇子・皇女などの陵墓の捜索・報告を指示するものであった。これを受けて、俵田村の農民・古老に聞き取り調査が行われ、「白山神社縁起考」と題する報告書が藩知事・神祇官に上げられた。森は、このとき所有していた「久留里記」「上総古図」などを提供した。 明治8年ころ、教部省の官吏らが白山神社古墳の実地調査に訪れた。弘文天皇陵が治定される前のことであり、関係者に期待を抱かせたが、「住民の伝える大友皇子の年代よりさらに古い古墳のように思われる」という見解が示されたのち、音沙汰がなくなった。そうこうしているうちに明治10年6月、弘文天皇陵は長等山前陵に治定されてしまった。 しかし、小櫃の住民や旧久留里藩士はこれで主張を放棄したわけではなく、むしろ、本格的な治定運動に乗り出していった。宮内省から「未確定な陵墓が存在するため、古墳を発見した場合は絵図面を提出するように」「祭祀を営む子孫がいない諸王の墳墓がある場合は、在地伝説などを添えて報告するように」などの指示が出たためである。これに応じる形で「弘文天皇御陵之儀ニ付建言」と題する建言書が宮内省に提出された。 この建言書は却下されることとなるが、治定運動はその後も明治30年代まで続いた。 明治31年、東京帝国大学人類学教室の八木裝三郎らが白山神社古墳の実地調査を行った。不十分ながらも初めての考古学的調査であり、陪塚と思しき場所から鏡と剣が発見された。彼らの調査結果は、白山神社古墳は推古朝以降平安期以前のものであるとされ、弘文天皇陵である可能性を否定はしなかった。
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