弘文天皇陵治定運動とは? わかりやすく解説

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弘文天皇陵治定運動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 04:33 UTC 版)

白山神社 (君津市俵田)」の記事における「弘文天皇陵治定運動」の解説

白山神社古墳弘文天皇陵として治定させようという運動は、旧久留里藩士の森勝蔵中心に繰り広げられた。 発端は、明治4年2月14日付の太政官からの達である。この達は、府・藩・県に対して管内にある后妃皇子皇女などの陵墓捜索報告指示するものであった。これを受けて俵田農民古老聞き取り調査が行われ、「白山神社縁起考」と題する報告書藩知事神祇官上げられた。は、このとき所有していた「久留里記」「上総古図」などを提供した明治8年ころ、教部省官吏らが白山神社古墳実地調査訪れた弘文天皇陵治定される前のことであり、関係者期待を抱かせたが、「住民伝え大友皇子年代よりさらに古い古墳のように思われる」という見解示されたのち、音沙汰なくなったそうこうしているうちに明治10年6月弘文天皇陵長等山前陵に治定されてしまった。 しかし、小櫃住民や旧久留里藩士はこれで主張放棄したわけではなく、むしろ、本格的な治定運動乗り出していった。宮内省から「未確定な陵墓存在するため、古墳発見した場合絵図面提出するように」「祭祀を営む子孫がいない諸王墳墓がある場合は、在地伝説などを添えて報告するように」などの指示出たためである。これに応じる形で「弘文天皇御陵之儀ニ付建言」と題する建言書が宮内省提出された。 この建言書は却下されることとなるが、治定運動その後明治30年代まで続いた明治31年東京帝国大学人類学教室八木三郎らが白山神社古墳実地調査行った不十分ながらも初めての考古学的調査であり、陪塚思しき場所から鏡と剣が発見された。彼らの調査結果は、白山神社古墳推古朝以降平安期以前のものであるとされ、弘文天皇陵である可能性否定はしなかった。

※この「弘文天皇陵治定運動」の解説は、「白山神社 (君津市俵田)」の解説の一部です。
「弘文天皇陵治定運動」を含む「白山神社 (君津市俵田)」の記事については、「白山神社 (君津市俵田)」の概要を参照ください。

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