平安末期から源平合戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 02:15 UTC 版)
高梨氏は、同じ北信濃の名族清和源氏井上氏流を名乗り、井上家季の息子高梨盛光の末裔(まつえい)であると称している(『尊卑分脈』)。本家の井上氏に従い、前九年の役に出陣した後、本郷高梨氏(総領家)と山田高梨氏に別れたとされるものの、系図には疑うべき余地も多く、実際には源平合戦(治承・寿永の乱)の際は井上一族ではなく安曇郡の桓武平氏仁科氏らと行動を共にしていたので、当時の慣習から見て別の一族であった可能性がある。 高梨高信・高梨忠直らは源義仲傘下として越後から南下した城助職率いる平家方を破り、その後も源義仲に最後まで従ったと思われ、高梨忠直は京都の六条河原で刑死した記録が残されている。また、建久元年(1190年)頼朝が上洛した際の御家人の中に高梨次郎の名が見え、鎌倉時代も御家人として存続していたことが伺われる。その後は保科氏らと婚姻関係を結びつつ北方へ領土を拡大していった。建治元年(1275年)5月六条八幡新宮の造営費用が全国の御家人に求められると、信濃国に住む高梨判官代跡(後裔)が5貫文を納めている。
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