筑紫国
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筑紫国(つくしのくに、7世紀ごろまで)は、現在の福岡県のうち東部(豊国の地域)を除いた範囲にあたる。古代の国である。645年の大化の改新と律令制により筑前国・筑後国(令制国)に分割された。
- ^ 尾崎雅嘉『蘿月菴國書漫抄』吉川弘文館(日本随筆大成 巻2)、1927年,500頁が引用する「益軒文集」、著者は19世紀初頭の人、貝原益軒は17~18世紀の人である。
- ^ のちの九州西部の国は、肥前、筑前、肥後という配置であったが、肥前と肥後はもとは1つの火国だったのであり、筑前も火国であった可能性がある。
- ^ 他方、『古事記』に現われる同じ宇沙都比古は、豊国の豪族であるとされている。
- ^ 菟狭津彦の後裔である宇佐公(宇佐国造)はのちの8世紀には、南側で筑紫国に接する豊国で栄えた。
- ^ 前田氏加賀前田家の加賀藩本家は明治維新後侯爵となっている[7]。
- ^ カバネ参照。
- ^ 真人参照。
- ^ 筑紫国造の氏族。#人物を参照。
- ^ のちの肥後国の一部にあたる地域である火国におかれた火国造の氏族である肥氏。君(カバネ参照)は姓。
- ^ 継体天皇晩年の編年は、『百済本記』の伝える辛亥の変(継体・欽明朝の内乱)により3年繰り上げられたとする説がある。その場合、書紀の527年から528年という紀年は、実際には530年から531年の出来事になる[19]。
- ^ a b 筑紫国造(筑紫) - 日本辞典(2017年10月17日午前11時33分(JST)閲覧)
- ^ 王勇 (2010年). “「人」と「物」の流動—隋唐時期を中心に” (PDF). 日中歴史共同研究報告書 (日中歴史共同研究): p. 121-122. オリジナルの2021年10月8日時点におけるアーカイブ。
- ^ 『福岡県の地名』志賀海神社項。
- ^ a b 『日本歴史地図 原始・古代編 下』。
- ^ a b 『国史大系. 第7巻』
- ^ a b c d 『新訂増補國史大系 第7巻』
- ^ 『寛政重修諸家譜』『金沢市史』『藩史大事典』
- ^ a b c 筑紫君葛子(古代氏族) 2010.
- ^ 岩戸山歴史資料館 2009, p. 13.
- ^ 『姓氏家系大辞典. 第2巻』
- ^ 『福岡県の地名』筑紫神社項
- ^ a b 『日本の神々』筑紫神社項。
- ^ 鞍手町再発見(史跡) - 鞍手町オフィシャル(2018年5月5日午後8時30分(JST)閲覧)
- ^ 鞍手町再発見(歴史) - 鞍手町オフィシャル
- ^ a b c 岩戸山歴史資料館 2009, p. 9.
- ^ a b c d 岩戸山歴史資料館 2009, p. 16.
- ^ 岩戸山歴史資料館 2009, p. 14.
- ^ 岩戸山歴史資料館 2009, p. 24.
- ^ a b 磐井の乱(古代史) 2006.
- ^ 磐井(古代氏族) 2010.
- ^ 『日本書紀』舒明天皇14年条5月3日条
- ^ 『日本書紀』舒明天皇15年条
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