城之越遺跡とは? わかりやすく解説

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城之越遺跡

名称: 城之越遺跡
ふりがな じょうのこしいせき
種別 名勝
種別2: 史跡
都道府県 三重県
市区町村 伊賀市比土古都
管理団体
指定年月日 1993.10.29(平成5.10.29)
指定基準 名1,史1,史3
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 遺跡は、上野市最南部、周囲を低丘陵囲まれ一・五キロメートル四方の小盆地東端所在する遺跡西方約七〇〇メートルところを流れ木津川は、七キロメートルほど北流して上野市市街地西端達し、そこから山間部を西に向かい笠置・山城地方へと続く。
 平成三年度に実施された、県営圃場整備事業に伴う発掘調査によって、古墳時代築造された三か所に湧水源をもつ大形の溝(以下大溝という)とともにそれを取り込むように古墳時代から中世まで連続的に推移する竪穴住居跡群や掘立柱建物群が発見された。
 後述するように、大溝石組、貼石、立石修景されており、出土遺物からみて祭祀の場として造られ使われたものであるまた、竪穴住居跡総数二九棟以上、掘立柱建物跡総数五〇棟以上が検出された。
 発掘調査区域は、低丘陵の裾から北西なだらかに下る水田中の微高地であり、約一三〇〇〇平方メートル範囲である。
 遺跡全体での遺構変遷について概説する。まず古墳時代前期後半四世後半)頃、竪穴住居広く散在するとともに遺跡の北半部中央大溝素掘りの形で構築される続いて大溝上流部護岸の貼石や岬部分立石湧水部での石組施される。この時期には、大溝以外には顕著な遺構がなく、大溝とそれに接続する広場状の空間独立した祭祀の場として存在する次に世紀に入ると、大溝での祭祀継続するものの大溝自体埋没し始め周囲竪穴住居掘立柱建物造られてゆく。古墳時代後期(六世紀)には、大溝立石や貼石部にも埋没し祭祀存在もわからなくなる。周囲では倉庫建物を含む掘立柱建物多くなってくる。続いて奈良時代に入ると大溝は完全に埋没し遺跡全体掘立柱建物建てられ竪穴住居造られる大溝の上埋土に「建」の墨書をもつ土器が入る。平安時代から中世にかけては建物疎らになる。
 この遺跡最大特徴は、大溝形態性格である。
 大溝はその上流端(南西側)においてそれぞれ一二~三メートル間隔で三か所の湧水をもち水源としている。うち西端湧水部は素掘り窪地状を呈しているが、中央東端湧水部には状の石組設け水の浄化水量調節行っている。中央西端湧水から、それぞれ幅二メートルほどの流路形成される合流点では岬状の地形造成し、五〇センチメートルほどの高さの石を立石状に組み込んでいる。両岸部には拳大の石を貼るようにまた小口積みのように詰め並べている。この合流点から約一五メートル下流において、東端湧水からの流路合流しここでも岬状の地形造成している。この岬にはやや大型の石が集積しているが、もとは階段状の構造水面下りる施設考えられる流路ここから一本で幅約五メートル素掘り溝となり北西流れる。検出され溝の長さは約五〇メートルであるが、溝は近畿日本鉄道伊賀線路敷を越えてなお続くことが判明している。岬や貼石護岸上方台地状および広場状の一定の区域には建物など遺構存在しない
 遺物主として大溝から検出されている。土器では、小型丸底壺(胴部穿孔付を含む)と高杯内部彩付を含む)が多い。木製遺物では、日常品建築部材のほか刀形、剣形、飾弓、案などが出土されている。これらのことから、大溝とこれに接する場所で祭祀が行われていたことは確実であり、かつ、祭祀関係の遺物がほとんど流路から検出され湧水自体からの出土品僅少であり、湧水清浄に保っていたことから、湧水自体聖なるもの聖なる地として祭祀が行われたと考えられる
 この遺跡を含む集落全体の構造はまだ把握されていないものの、古墳時代集落における祭祀形態明確な祭祀場の関係を知る上で類例少な貴重な史跡である。
 さらに、この遺跡のうちの大溝とそれに接するある範囲空間は、曲線多用した流路、岬状の貼石などから、単なる水源流路としての機能越えたものと確認できる。そこには景観造形上の美意識とそれを表現する技術存在十分にうかがわれ飛鳥時代以降次第形成されていく伝統的日本庭園造形美技術系譜考え上で庭園史上の価値極めて高い。
史跡名勝記念物のほかの用語一覧
史跡:  垂井一里塚  垂柳遺跡  垂水斎王頓宮跡  城之越遺跡  城山  城山  城生柵跡

城之越遺跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/12 23:28 UTC 版)

城之越遺跡 概観
大溝祭祀遺構の下流部から上流部を望む。奥中央に広場、広場左右および右端の3ヵ所に井泉が所在する。
城之越遺跡
城之越遺跡の位置

城之越遺跡(じょのこしいせき/じょうのこしいせき)は、三重県伊賀市比土にある遺跡。国の名勝史跡および三重県指定史跡に指定されている。

概要

伊賀盆地南東部、木津川右岸の丘陵端部、周囲を低丘陵で囲まれた小盆地南東隅に位置する。1991年度(平成3年度)以降に発掘調査が実施されている[1]

遺跡域は、平野部のA地区と丘陵斜面地のB地区に分かれる。特徴的な遺構として、A地区では大溝祭祀遺構が、A地区・B地区では四面庇付大型掘立柱建物計4棟が検出されている。大溝祭祀遺構は、3ヵ所の井泉からの湧水を引き込んだ貼石溝であり、湧水自体を対象として祭祀が斎行された遺構になる。その景観は後世の日本庭園にも通じるほか、多くの祭祀関連遺物が出土した点でも注目される。また4棟の四面庇付大型掘立柱建物は、古墳時代当時としては非常に大規模なもので、大溝における祭祀との関連が指摘される。

この城之越遺跡は、古墳時代前期後半-中期の4世紀後半-5世紀頃に祭祀の盛期を持つと推定される。大規模な貼石遺構や大型建物4棟の規模から、有力な首長層が祭祀主体を担ったと推測される点で注目される遺跡になる[2][1][3]

遺跡域は1992年(平成4年)に三重県指定史跡に指定され、そのうち中心部が1993年(平成5年)に国の名勝史跡に指定された[4]。現在では史跡整備のうえで史跡公園「城之越遺跡」として公開されている。

遺跡歴

  • 1990年度(平成2年度)、県営圃場整備事業・農免農道建設事業に伴う分布・試掘調査。(三重県埋蔵文化財センター)。
  • 1991年度(平成3年度)、県営圃場整備事業・農免農道建設事業に伴う発掘調査。大溝祭祀遺構を検出(三重県埋蔵文化財センター、1992年に報告書刊行)[1]
  • 1992年(平成4年)2月21日、三重県指定史跡に指定。
  • 1992年度(平成4年度)、保存整備事業に伴う発掘調査(上野市教育委員会)[1]
  • 1993年(平成5年)10月29日、中心部が国の名勝史跡に指定[4]
  • 1994年度(平成6年度)、保存整備事業に伴う発掘調査(上野市教育委員会、1998年に報告書刊行)。
  • 1996年度(平成8年)度、農道整備事業に伴う発掘調査(三重県埋蔵文化財センター、1997年に報告書刊行)。
  • 1997年(平成9年)10月、史跡公園「城之越遺跡」の開園。

遺構

遺跡は、平野部のA地区と、A地区南東部の谷筋に入った丘陵斜面地のB地区に分かれる[1]。特徴的な遺構として、A地区では大溝祭祀遺構が、A地区・B地区では四面庇付大型掘立柱建物が各2棟検出されている。

大溝祭祀遺構

大溝祭祀遺構の広場

大溝祭祀遺構は、城之越遺跡を最も特徴づける遺構で、平野部のA地区で検出されている。3ヵ所の井泉(2ヵ所は石積み)からの湧水を引いた溝(流路)であり、溝の法面には貼石が施される[2][1][3]。溝と溝との合流部には、立石を配した突出部や、溝に下りるための階段が配されており、後世の日本庭園的景観として注目される[2][1][3]。すべての溝が合流した地点より下流は素掘りの大溝とする[1][3]。また貼石溝に囲まれた中央部には、周囲を石で囲まれた15メートル×10メートルの楕円形の広場があり、祭祀行為の斎行場所と推定される[2][1][3]

大溝からの出土遺物としては、多量の土器・木製品・植物遺体がある。土器は、古式土師器の小型丸底壺・高坏の割合が非常に高く、小型丸底壺のうちには胴部に穿孔を有するものがある[2][1][3]。また当時としては希少な、韓式系土器の把手付鍋・甕が各1点検出されている[1]。木製品としては、この時期で最も一般的な耕作用農具が一切認められない一方で、扉などの建築部材、飾弓・刀形などの祭祀具が検出されている[2][1][3]。植物遺体としては、多量の桃核のほか、井泉の1つから出土したヒョウタンがある[1]。植物相の分析によれば、祭祀遺構当時には大溝周辺は森林であり、大溝の水は非常に清浄であったとされる[1]

この大溝祭祀遺構は、古墳時代前期後半-中期の4世紀後半-5世紀頃に祭祀の盛期を持つと推定される[2][3]。大溝は古墳時代後期には埋没しつつあり、奈良時代には完全に埋没したとされるが、その時期の遺物の「庭」の墨書銘土器(須恵器坏)の出土が注目される[1]

四面庇付大型掘立柱建物

大型掘立柱建物の遺構標示

四面庇付大型掘立柱建物は、大溝祭祀遺構とともに城之越遺跡を特徴づける遺構であり、A地区・B地区で各2棟が検出されている。

A地区では、大溝祭祀遺構の東約100メートルにおいて東西2棟が検出されている[1][3]。いずれも母屋は2間×2間で、庇を含めると一方は5間×4間で他方は4間×4間である[1][3]。営造時期は古墳時代中期の5世紀前半頃と推定され、時期・位置から大溝祭祀遺構とセットで使用されたと見られる[2][1][3]

B地区では、丘陵斜面地上で東西2棟が検出されている[1]。柱筋を揃えて東西に並んでおり、いずれも母屋は2間×2間で、庇を含めると5間×4間である[1]。東側建物が一回り大きく、A地区の西側建物(大きい方の建物)とほぼ同形同大になる[1]。付近は遺跡を取り巻く小河川(北川)が谷から盆地へ出る水分の地であることから、それに関わる祭祀用施設と推測される[1]

城之越遺跡で検出された四面庇付掘立柱建物4棟は、古墳時代の大型建物のうちでも非常に規模が大きく、豪族居館が検出されている三ツ寺I遺跡群馬県高崎市)の主屋建物と外郭線がほぼ同大であることから、祭祀主体の有力性が指摘される[1]。これらの4棟を豪族居館と捉える説もあるが、豪族居館であれば伴うべき区画施設が認められていないことから、首長層によって造成された大規模祭祀場と捉える説も挙げられている[2][1]

その他

大溝が埋没しつつあった古墳時代後期には、大溝を取り囲むように多数の小規模掘立柱建物が営造されている[1]。遺跡全体としては古墳時代から中世期の建物群が検出されており、検出された竪穴建物は29棟以上、掘立柱建物は50棟以上におよぶ[5]

文化財

国の名勝・史跡

  • 城之越遺跡 - 1993年(平成5年)10月29日指定[4]

三重県指定文化財

  • 史跡
    • 城之越遺跡 - 1992年(平成4年)2月21日指定。

現地情報

所在地

関連施設

  • 城之越学習館(伊賀市古郡) - 城之越遺跡に隣接するガイダンス施設。
    • 開館時間:午前9時〜午後4時30分
    • 休館日:月曜日~木曜日、12/29-1/3
    • 料金:大人300円、学生100円、中学生以下無料、団体(大人)200円、団体(学生)60円

交通アクセス

周辺

脚注

参考文献

(記事執筆に使用した文献)

関連文献

(記事執筆に使用していない関連文献)

関連項目

外部リンク

座標: 北緯34度40分44.28秒 東経136度9分45.33秒 / 北緯34.6789667度 東経136.1625917度 / 34.6789667; 136.1625917



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