城生柵跡とは? わかりやすく解説

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城生柵跡

名称: 城生柵跡
ふりがな じょうのさくあと
種別 史跡
種別2:
都道府県 宮城県
市区町村 加美郡加美町
管理団体
指定年月日 1979.05.18(昭和54.05.18)
指定基準 史2
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: S53-12-023[[城生柵跡]じょうのさくあと].txt: 宮城県北部大崎平野向かって西方奥羽山脈から脈生す丘陵東南端の台地状をなす地点に城生柵跡が所在する
 この遺跡は、既に元禄年間地図3面土塁状の記入があったものであるが、昭和30年、東1キロメートルにある奈良時代の瓦を出す菜切谷廃寺跡が伊東信雄等によって調査された時、多賀城跡同種の瓦と土塁良く残る遺跡として注目されたもので、多賀城関連施設一つとして新田町教育委員会が、測量及び発掘調査実施した調査結果、本遺跡丘陵上に東西ほぼ360メートル南北370メートル平坦面を占めて営まれたものである
 東北隅の土塁遺構が鍵ノ手状に残る部分では、それが厚さ2.4メートル築地構造本体犬走り及びその外側約7~8メートルにある幅3~4メートル外濠から成り外濠大きく2度改修されている。この状況西北隅でもほぼおり返した状況検出された。築地東面西面ともさらに南に続く。遺構のほぼ中央にある観音堂東側の狭い調査区では、基壇建物堀込地形2か所、掘立柱建物5、竪穴住居跡1等検出された。掘立柱建物3期以上に分かれ、内1期基壇建物以前属する。これら建物規模等から倉庫考えられ、その周囲からは炭化米が検出されている。
 なお、遺跡南端中央附近では既に掘立柱掘方の存在知られていたが、新たに積土による整地がされ、2棟上の掘立柱建物存在確認され、ここが遺跡のほぼ南端に当たるものと判断された。出土品としては瓦類土師類・須恵器円面硯釘・焼米さらに縄文式土器石器出土している。
 本遺跡奈良時代中期頃には既に造営されており、平安時代まで続いたことが知られる構造的時代的にも多賀城等と関連すること再確認され、東北地方で城あるいは柵として現れる施設一つであると考えられる至った。この施設について天平9年現れる多賀城関連の5柵のうち玉造柵、色麻柵、他の柵とする説、賀美郡衙等かとする説もあるが、遺構等から郡衙とする明証今のところほとんどない上記いずれかに当たるか否かはまだ不明であるので、城輪柵払田柵跡と同様、地名冠した柵跡として指定するのである
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史跡:  城之越遺跡  城山  城山  城生柵跡  城輪柵跡  埴科古墳群  埼玉古墳群

城生柵跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/06 14:37 UTC 版)

城生柵跡(じょうのさくあと)は、宮城県加美郡加美町城生にある奈良時代城柵遺跡。「城生」は現在の地名によるもので、かつてのどの施設に比定するかについては諸説ある。国の史跡に指定されている[1]


  1. ^ a b 「文化財一覧」加美町公式HP


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