三重構造城柵の出現とは? わかりやすく解説

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三重構造城柵の出現

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 07:22 UTC 版)

城柵」の記事における「三重構造城柵の出現」の解説

III段階城柵は、8世紀後半造営されたもので、新規に築かれたものとしては雄勝城桃生城伊治城挙げられ同時期に秋田城改修を受け、出羽柵から改称し秋田城(阿支太城)と称されるようになったまた、同じく多賀城大改修を受け、その荘重な装飾性においてピーク達した時期にあたる。先述通り雄勝城桃生城造営一度廃止され鎮兵制の復活軌を一にするものであり、朝廷による征服事業再始動を示すものであった。これはまさしく中央において藤原仲麻呂専権握り聖武天皇後期領土不拡大方針放棄して再度積極的な征服目指す方針転換したことによるのである。 この藤原仲麻呂政権確立先立つことおよそ20年前、天平5年733年)の出羽柵移転北進(=秋田城造営)の後、天平9年735年)に陸奥国から出羽柵最短距離で結ぶ奥羽連絡路建設計画されたことがあった。当時藤原四子政権時代であり、藤原四兄弟一人藤原麻呂持節大使として多賀城派遣され奥羽連絡路建設のためにルート上の賊地」である雄勝(男勝村)の制圧企てられのである。なお、この時は東国から騎兵1,000人が集められたが、これらの大半天皇代理人である持節大使とともに多賀城ほかの城柵留守番役割充てられ、実際軍事行動陸奥按察使鎮守将軍兼ねた大野東人が、これらの城柵に元々配置されていた常備軍勢鎮兵兵士)を率いて行った先述騎兵1,000人のうち196人が大野東人預けられ大野東人騎兵196人、鎮兵499人、陸奥国の兵5,000人、帰順した蝦夷249人という陣容のもと、奥羽連絡路開削しながら雄勝制圧向かったのである。この時の軍事行動は、強硬な侵攻策の非と損失訴えて寛大な処置主張する出羽守田辺難波建言を容れた大野東人が、雄勝征服中止して途中の比羅保許山までの道路開通成果として撤退し藤原麻呂もこれを了承したために、一度戦闘もともなわずに終結することとなった。この時はあくまで暫定的な侵攻中止であったが、同年の内に帰京した藤原麻呂が都で猖獗振るっていた天然痘倒れて病没し、藤原四子政権崩壊聖武天皇仏教への傾斜深め大仏国分寺建立国力傾注する中で、それまで行ってきた征服版図拡大方針その後20年余りにわたって凍結されることとなったのである天平勝宝8歳756年)の聖武天皇崩御の翌天平宝字元年757年)、自身結びつきの強い大炊王立太子翌年天皇即位、後に淳仁天皇諡号される)させ、比類なき権力確立した藤原仲麻呂は、聖武後半において凍結されていた本州北東部への征服事業再始動させることとなる。この時期造営されたのが前代未着となっていた雄勝城桃生城であり、陸奥国浮浪人坂東諸国から徴発した労働力により造営進められた。これらの事業現地にて指揮したのが仲麻呂の四男(三男とも)藤原朝狩である。朝狩大炊王立太子後の天平宝字元年起きた橘奈良麻呂の乱の後、奈良麻呂の同調者目され変により自害追い込まれ佐伯全成の跡を襲い陸奥守及び按察使就任その後上記雄勝桃生の2城柵造営のほか、出羽国雄勝平鹿の2郡を設置陸奥国から秋田城まで7つ宿駅を置き連絡路開通させた。天平宝字4年760年)、朝廷では朝狩雄勝城一戦交えず完成させたこと、それまで蝦夷領域とみられていた北上川対岸桃生城築き蝦夷たちを驚嘆させたことを称揚して、朝狩従四位下を授けた同年朝狩多賀城改修にも着手し天平宝字6年762年)に多賀城碑設置して自らの功績称揚させている。この多賀城碑は、それまで多賀柵と呼ばれていた城柵多賀城記されるようになった初見である。これは中国風の名称を好んだ麻呂政権性格反映したものと考えられており、同時期に改修受けたII出羽柵も「阿支太城」(秋田城)と記されている。 このように麻呂政権では藤原朝狩指示のもと積極的な政策展開し天平9年735年)に一時中断された征服事業継承しながら、より発展させていくこととなった。特に桃生城造営それまで1世紀渡って暗黙の裡に守られてきた朝廷蝦夷境界踏み越えるものであり、以後急速に高まっていく蝦夷との緊張関係は、最終的に海道蝦夷蜂起きっかけとした「三十八年戦争」(虎尾俊哉による命名後述)を惹起していくこととなる。このような背景のもと造営されたこの時期城柵軍事的な緊張関係を窺わせる構成となっており、桃生城現在の宮城県石巻市所在)は比高差80mほどの急峻な丘陵上に立地し中枢部は政庁中心とした中央郭に、西郭住民住居域を取り込んだ東郭とが取り付く構造となっている。仲麻呂政権打倒し称徳道鏡政権においても強硬な征服政策引き継がれたことで朝廷蝦夷との対立は更に深刻化し東国から送り込まれ柵戸鎮兵逃亡する事態を招くこととなったこのような時勢のもと、神護景雲元年767年)に造営され伊治城現在の宮城県栗原市所在)では、三重構造城柵という新たな形態みられることとなる。 三重構造城柵とは、通常の城郭みられる材木塀ないし築地塀区画され政庁及び外郭の更に外側にさらに区画施設巡らし居住域をも城柵中に取り込んだのである伊治城の最外郭は南辺が築地塀である以外は土塁空堀であり、さらに北辺には土塁二条巡らしていて、北方蝦夷からの防御意識していることが明白である。この最外郭内側居住域存在し多数竪穴式住居検出されている。この時期には東山遺跡宮城県加美町)、城生柵跡(同)など、8世紀前半造営され近隣城柵も、城外集落取り込むように防御施設巡らして三重構造化していたことが判明しており、先述桃生城住居域を城柵内部取り込む端緒みられることを考え合わせると、「三十八年戦争以前に既に城柵周辺不穏な情勢窺うことが出来る。

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