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城輪柵跡 (山形県)


城輪柵跡

名称: 城輪柵跡
ふりがな きのわさくあと
種別 史跡
種別2:
都道府県 山形県
市区町村 酒田市城輪
管理団体 酒田市(昭7・910)
指定年月日 1932.04.25(昭和7.04.25)
指定基準 史2
特別指定年月日
追加指定年月日 昭和56.02.23
解説文: 庄内平野北部最上川ノ北約六キロノ地点ニアリ方約四百間ヲ有スル地域周縁地下一尺ノ深サニ並列セル角材アリ 角材ハ約六、七寸ニ 七、八寸ノ長方形ヲナシ長サ約一尺乃至三尺ノ間ニアリ 角材並列セル四邊ノ各中央一個圓柱アリ圓柱角材ト等シクニシテ直徑二尺乃至尺五寸配列ニヨリテ三間二面ノ門阯タルコトヲ推定シ得ベシ四隅角材圓柱ノ群アリ西南隅及東南隅ノモノハ例材多ク原形ヲ知ルベカラザルモ東北隅及西北隅ノモノハ共ニ東西四間南北二間半ノ配列ヲ示シ角阯ト認メラル
地域中央部大畑トス嘗テ此地ヨリ蓮華紋ノ巴瓦唐草瓦等ヲ出土シ其西部床下ケヲ行ヒタル圓柱數本發掘セシコトアリ大畑東方水田ニハ今猶材ノ圓柱二本ヲ存ス以上ノ遺跡古代ニ於テ東北拓殖ノタメニ築造セル柵阯ト推定セラル
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城輪柵

(城輪柵跡 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/13 06:38 UTC 版)

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城輪柵
山形県
城輪柵 標柱・東門(復元)
城郭構造 古代城柵
築城主 大和朝廷
築城年 不明
廃城年 不明
遺構 政庁跡など
指定文化財 国の史跡「城輪柵跡」
再建造物 南門、東門、築地塀(一部)
地図
城輪柵
城輪柵
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城輪柵(きのわのき/きのわのさく)は、現在の山形県酒田市城輪にあった日本の古代城柵。国の史跡に指定されている(指定名称は「城輪柵跡」)。

奈良時代末期に造営された出羽国国府所在地の有力な候補となっている(これ以前の所在、歴史は出羽柵を参照)。保存整備事業により、政庁南門、東門、築地塀の一部が復元されている。

発掘調査の沿革

初めて発掘調査が行われた1931年以前にも、「城輪」という地名から遺跡の存在が推測されている。

  • 『往古此辺に官人の居城ありて、城外に祭れる神を城輪と称し、城地の内を城の内(きのうち)と称せしを後世城を木に改けるにや』(進藤重記「出羽風土略記」1762年)
    「木の内」は遺跡北西部の集落。
  • 『柵戸の遺跡とも疑はるる節あり』(吉田東伍「大日本地名辞書」1907年)
    城輪、木の内という名称から柵戸の存在を推測。

他にも、歴史学者の喜田貞吉は「城輪・木の内」以外にも「本楯(遺跡中心部から北西2.5キロメートル)・新田目(北西2.0キロメートル)・政所(南東0.8キロメートル)・門田」といった地名が近隣に存在することから、飽海郡衙の存在を推測している[1]。また、須恵器や瓦、礎石と思われる石が出土したことから、阿部正巳によって出羽国国分寺説も提唱された[2]

  • 1931年(昭和6年) - 文部省嘱託の上田三平[3]らによる発掘調査により、25センチメートル角の角材が密接して並ぶ遺構が検出される。ほぼ正方位による一辺約720メートルの方形を成しており、外郭には門や櫓が存在していたことが判明した。
  • 1932年(昭和7年) - 国の史跡に指定[4]
  • 1964年(昭和39年) - 酒田市教育委員会による予備調査。遺跡中心部の「オ(大)畑」と呼ばれる、周辺水田よりも1メートルほど高い台地部分から掘立柱建物跡と礎石建物跡、二つの異なる時代の遺構が検出される。
  • 1965年(昭和40年) - 文化財保護委員会(文化庁の前身)による発掘調査。正殿、西脇殿、南門など主要な遺構配置が判明。
  • 1971年(昭和46年) - 酒田市教育委員会による継続調査
  • 1981年(昭和56年) - 国指定の史跡に追加指定[4]
  • 1984年(昭和59年) - 保存整備事業開始

遺構

山形県庄内地方北部の荒瀬川扇状地に位置し、一辺約720メートルの築地塀で区切られた正方形の外郭と、その中央に一辺約115メートルの築地等で囲まれた政庁(内郭)部分によって構成される総面積52万平方メートルの遺跡である。外郭の各辺中央にある門からは、政庁中心に向かって幅9メートルの大路が伸び、政庁の配置もこれにあわせた律令制官衙様式(正殿・後殿東西脇殿や後殿に付属する東西脇殿)となっている。内郭の東西南北各築地の中央には八御門が開いていた。

政庁遺構は、その建築様式において大きく4期に分けられ、前半2期においては掘立柱建物、後半2期では礎石建物へと変わる。また、4期では板塀から築地塀へと変化が見られる。

記録の中の城輪柵

観光

  • アクセス - JR酒田駅からバスで約20分
  • イベント - 毎年8月に、篝火の下で民俗芸能などが演じられる「国府の火まつり」が行われている。

脚注

  1. ^ 喜田貞吉「社会史研究」、1923年
  2. ^ 阿部正巳『出羽国分寺遺址調査』、1923年
  3. ^ 前年に秋田県払田柵跡大仙市)を調査している。
  4. ^ a b 城輪柵跡 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  5. ^ 「貞観地震からの復興」『日本人は大災害をどう乗り越えてきたのか』p102、文化庁編、2017年6月25日、朝日新聞出版社、全国書誌番号:22919396

関連項目

外部リンク

座標: 北緯38度57分49.0秒 東経139度54分33.2秒 / 北緯38.963611度 東経139.909222度 / 38.963611; 139.909222



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