城柵の時代の終焉とは? わかりやすく解説

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城柵の時代の終焉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 07:22 UTC 版)

城柵」の記事における「城柵の時代の終焉」の解説

鎮守府胆沢城(ついで志波城)に移して軍事的な性格後退した多賀城は、他国国府共通する官衙としての性格強めていくこととなる。史料上に多賀城が「城」として表記されるのは「忽至城下」(たちまち城下に至る)と記録され貞観11年869年)が最後で、その復旧貞観12年870年)「修理府」(府を修理す)とあり、以後はすべて多賀国府記されるようになり、城柵としての位置づけ希薄となっていく。承和年間834年-847年とみられる徳丹城玉造塞停止をもって9世紀中葉残存する城柵は、多賀城秋田城胆沢城、第II雄勝城とみられる払田柵跡出羽国とみられる城輪柵跡5つとなった。これらの5城柵10世紀中葉までは機能していたもの考えられ最後まで残った多賀国府多賀城)、秋田城10世紀中葉あるいは11世紀前半ごろまで機能したものと考えられる。また胆沢城も、10世紀中葉以降の姿は考古学的には瞭らかでないものの、文献資料の上では胆沢鎮守府として後代まで現れており、鎮守府将軍職名後々まで残ることとなる。終末期まで残った城柵は、鎮守府在庁官人として現地機構掌握していたとみられる安倍氏や、同じく中央の貴族下向して雄勝城在庁官人として土着したとみられる清原氏など、その後東北地方歴史関わる存在にとっての揺籃役割果たした。特に終末期まで残り東北地方北部の「第二国府」的な役割果たした胆沢城鎮守府)、秋田城通じた支配体制は「鎮守府秋田城体制」とも呼ばれるが、一方で鎮守府秋田城体制」はあくまで中世史研究上の要請基づいて理論化されたものであるという面を指摘し鎮守府秋田城とも陸奥出羽両国府の被官上の存在でなく、これに見直しを迫る見解存在する国家事業としての征夷終息迎え軍事的な緊張緩和され中でも、ただちに蝦夷支配安定した訳でなかった。9世紀中葉には陸奥国の奥郡で蝦夷住民移民住民対立による騒乱連年のように発生しており、出羽国では元慶2年878年)、同国史上空前反乱である元慶の乱発生している。また、9世紀から10世紀にかけての日本なかんずく東北地方貞観11年869年)の貞観津波あるいは十和田火山噴火など巨大な自然災害頻発した時期でもある。このような情勢のもと、東北地方社会全体不安定な状況9世紀後半から10世紀にかけて続くことになったまた、あるいは10世紀中葉以降は、考古学的に検出される城柵遺構消滅していく時期にあたり、これは全国的に他の国遺構でも軌を一にする現象でもある。これは律令国家から王朝国家へと変容していく中で、地方支配受領通じた徴税請負特化していき、律令体制のような壮大な官衙ではなく国司館のような「館」支配へと転換していったとみられることによる実際城柵消滅していくにもかかわらず文献上に国守鎮守府将軍秋田城介といった官職現れるのは、地方支配拠点城柵内の政庁ではなくこれら官人公邸である館へと転換していたことを窺わせるのである

※この「城柵の時代の終焉」の解説は、「城柵」の解説の一部です。
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