城柵を支配した官人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 07:22 UTC 版)
城柵を統括したのが城司である。朝廷から官人が派遣されて城司の任に就き、国家権力の代理人としての権能をふるった。これを示すのが、国府でない城柵に対しても政庁が用意され、都の朝堂あるいは各国の国衙に倣う様式となっていた事実である。朝廷にとって蝦夷の服属を受け入れて朝貢関係を結ぶことは、国内に中国に倣う華夷秩序を現出する意味を持った。したがって城柵がその拠点として機能するためには、都と同じ様式の儀礼的な空間を必要としたのである。また、このような政治的な意味からも、蝦夷の服属を受け入れる城司は中央政府の代理人である必要があった。 城司として派遣された官人は国司や鎮官であり、8世紀には鎮官を兼任する国司が、9世紀から両官が別々に任命されて城司となった。『類聚三代格』所収の承和十一年(844年)九月八日官符によると、陸奥国司と鎮官をあわせて「辺城之吏」と称しており、国司が城柵に駐在する存在であったことを示すものである。また天平五年(733年)十一月十四日勅符は、陸奥国に派遣される国司以下官人に護衛の兵士をつける内容であり、奥地にある「塞」に派遣される場合は更に護衛を増員する規定が記されていることから、国司が城柵に派遣されていたことを裏付けるものとなっている。 出羽国においては、『続日本紀』宝亀十一年八月二十三日条に記された秋田城停廃問題において、新たに専任の国司(秋田城介)を置いて秋田城を存続させる決定がなされていることから、秋田城に国司が派遣されたことが明らかである。また『類聚三代格』所収、天長七年閏十二月二十六日格からは、出羽国では秋田城・雄勝城と国府に国司を配していて人員が足りないことから、目(さかん)以下の官員を増員したことが記されており、雄勝城にも国司が駐在していたことを確認できる。 このように各種史料によって城柵に国司が派遣されていたことを確認できる一方で、律令制下では国司以下官人の定員が規定されていることから、全ての城柵に城司が駐在したのか検討する必要がある。これについては、陸奥国・出羽国に置かれた城柵の数と両国の国司(四等官)及び史生の総定員の比較から、定員内で全ての城柵に国司を派遣することが可能であり、全ての城柵に城司を置いたのが原則であると考えられている。ただし、一つの城柵に複数の城司を置く場合もあったことから、この場合国司・史生の定員内で城司をまかなうのが苦しくなる。この対応策として、出羽国では国司の増員がなされ、陸奥国では胆沢城設置を契機として鎮官を独立の官とした。より最前線に近い志波城・徳丹城にも鎮守府から鎮官が派遣され、城司を務めたものと考えられている。 城司の役割は、辺遠国である陸奥・出羽・越後の三か国の守のみに規定された特別の職掌である「饗給(撫慰)」、「征討」、「斥候」を、現地の拠点である城柵において分担して遂行することにあったと言える。したがって駐在にあたっては軍団の兵士を率い、有事の際は鎮兵や俘囚により編成された俘軍の指揮権を持った。
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