城柵に駐屯した軍事力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 07:22 UTC 版)
冒頭で記したように、城柵に対する考古学調査の進展は、その基本的な構成要素が官衙にあるとする知見をもたらした。一方で城柵が朝廷による本州北東部征服事業の拠点であり、蝦夷を支配する場としての機能も担った以上、その軍事的な性格も決して軽視できないものである。 律令国家の地方軍制は、軍団を基本とし、それは辺遠国である陸奥国(及び石城国・石背国)においても例外でなかった。軍団に務める兵士は、当該令制国内の公民の中から徴募され、同じく国内の営に配された。養老4年(720年)当時、陸奥国には名取団・丹取団の2団が、石城国には行方団が、石背国には安積団があったと推測され、4個軍団を合わせると4,000人の常備兵がいたことになる。しかしながら、軍団制は交代で勤務(番上)するものであるため、実質的な兵力はその6分の1の670人程度に過ぎなかった。前掲の養老4年の蝦夷の大反乱は、このような従前の軍団では兵力が全く不足していたことを露呈させ、さらに按察使を介して陸奥・石城・石背の3か国を連携させるプランにも問題があることを明らかにした。したがって、軍団の兵力をより弾力的に運用できるようにするとともに、令外の全く新しい兵制として鎮兵制を導入し、それを統括する機関として、鎮守府を置くことになったのである。 鎮兵制の成立は、神亀元年(724年)頃とみられている。養老4年の蝦夷の大反乱を受けた一連の支配体制の立て直しは、神亀元年体制とも称され、その要旨は前掲の税制の見直しや、石城・石背国の陸奥国への再併合、鎮兵制と鎮守府の創設、黒川以北十郡の設置、玉造柵や牡鹿柵等五柵の設置と、国府と鎮守府を兼ねた陸奥国の新たな拠点としての多賀城造営等からなる。多賀城は政庁による内郭と、それを取り囲む外郭という以降の城柵の基本構造(二重構造城柵)を決定づけたものであり、政庁の規格化や屋根瓦の統一など、その後各地に展開される城郭のモデルとなった。なお、設置当初の多賀城は多賀柵と称しており、城の文字が使われるのは多賀城碑が初出である。他の城柵においても、8世紀末には「城」の表記が一般化する。 鎮兵制の創設に先立つ養老6年(722年)の政策見直しでは、陸奥国の「鎮所」に穀物の献上を募っており、これは兵力の駐屯に先立って軍糧を備蓄する目的で行われたものとみられている。国内から徴兵される軍団と異なり、鎮兵は主として坂東を中心とした東国の兵士が派遣され、専門の兵士として城柵に常勤(長上)した。東国の兵を陸奥国に常駐させる制度である鎮兵の性格は、征夷軍の常設化と言えるものであった。また、その人的な基盤を東国の兵士に求める鎮兵の性格は、九州北部に置かれた防人と類似するものである。これはまさに、朝廷が東国の軍事力を九州北部と東北で必要に応じて配置転換していたことを意味していた。九州で防人が停止された天平2年(730年)は、陸奥で鎮兵が実施された時期にあたっている。鎮兵は天平18年(746年)、軍団を6,000人規模に拡充した際に一度全廃されたが、天平宝字元年(757年)桃生城・雄勝城の造営にあたって復活した。天平宝字元年もまた、九州で復活させた東国防人の制度が再び停止され、九州北部の防衛を西海道出身の兵士に切り替える決定がなされている。九州ではその後東国出身者による防人は復活せず、逆に陸奥の鎮兵は「三十八年戦争」が終結する9世紀初頭まで廃止されることはなかった。鎮兵が全廃されるのは弘仁6年(815年)のことである。 石城国・石背国の2国は、養老2年(718年)に陸奥国の一部を分割して設置したものだが、その存続期間は短く、養老5年(721年)の8月から10月までの約2カ月の時期に、陸奥国に再併合されたものとみられている。これも、養老4年の蝦夷の大反乱を受けた朝廷の政策見直しの一環として、石城・石背両国の軍団を陸奥国の有事に動員しやすくする目的で行われたと考えられており、これにより陸奥国司は自らの権限で動員できる兵力が増大した。また、両国の再併合は多賀城造営の費用負担を求める理由もあったと思われ、多賀城創建期の瓦には磐城郡進と記されたものが見つかっている。 なお、鎮兵制の創設と軍団制度の再編により、城柵に駐屯する軍事力は、軍団と鎮兵の二本立てとなったが、前者が基幹的、後者が補完的な制度である。このように城柵に駐屯する軍事力は朝廷の征服事業の遂行過程で次第に増強されていったが、それは在地の蝦夷社会にとって大きな脅威となっていった。
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