城東電気軌道・第五銀行
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「橋本梅太郎」の記事における「城東電気軌道・第五銀行」の解説
1910年(明治43年)に友人の千葉胤義と、城東電気軌道株式会社設立を計画したが、なかなか資金が集まらなかった。それで渋沢栄一に援助を求めたところ、大川平三郎・尾高次郎・大倉発身たちが重役になり、橋本梅太郎は常務から取締役を経て一株主となった{{sfn|橋本梅太郎君伝記編纂会|p=96-101。また1913年(大正2年)に、経営難の日東銀行を買収して第五銀行に改称し専務取締役になったが、当時、曹洞宗貫主石川素童師が鶴見に総持寺を建立する最中だったので、巨額を融資し、見返りに日本全国の檀家に第五銀行への預金を奨励してもらい、銀行員が僧に同行して預金を集めた。こうして第五銀行は総持寺の機関銀行になった。また城東電気軌道沿線の町長・村長・有力者を代理店にして預金を集めた。1916年(大正5年)に経営権が浅野財閥に移り浅野昼夜銀行と改称して、白石元治郎が頭取に就任すると銀行を辞めた。
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