第五銀行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 01:16 UTC 版)
当時日糖事件があり「にっとう」のイメージが悪かったので、橋本梅太郎は、日東銀行を第五銀行(もともと第五銀行は薩摩の島津家の機関銀行の名称だったが、既に合併して改称していた。)に改称して城東電気軌道社長の広沢金次郎伯爵を頭取に据えて、資本金十万円で開業し、自らは専務取締役になり経営に当ったが、当時曹洞宗貫主石川素童師が鶴見に総持寺を建立する最中だったので、巨額を融資して、その見返りに日本全国の檀家に第五銀行への預金を奨励してもらい、銀行員が僧に同行して預金を集めた。こうして第五銀行は総持寺の機関銀行になった。さらに城東電気軌道沿線の町長・村長・有力者を代理店にして預金を集めた。1913年(大正2年)6月に浅野泰治郎(浅野総一郎の長男)が取締役に就任し、1914年(大正3年)8月には藤堂大蔵(後に浅野財閥の番頭になった人物)が支配人になった。
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