墓所・霊廟とは? わかりやすく解説

墓所・霊廟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 14:35 UTC 版)

山崎闇斎」の記事における「墓所・霊廟」の解説

山崎闇斎は、人間心(心神)は、即ち天神同源であり同一であるとの思想から、自らの心神自宅の祠に祀った生祀)。社名は、闇斎霊社号と同じ、垂加霊社。のちに下御霊神社境内遷座して、猿田彦神社合祀され、現存している。 墓所は、京都市左京区黒谷町金戒光明寺にある。

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墓所・霊廟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 07:54 UTC 版)

坂上田村麻呂」の記事における「墓所・霊廟」の解説

京都市山科区にある「西野山古墓」は、昭和48年1973年)に地元歴史考古学研究家である鳥居治夫が、条里制復元研究結果もとづき同墓が坂上田村麻呂の墓である可能性指摘した平成19年2007年)、京都大学大学院文学研究科教授吉川真司清水寺縁起弘仁2年811年10月17日付の太政官符表題記述当時地図条里図)を基にした山城国宇治郡山科郷古図(東京大学)とを照合することで坂上田村麻呂墓説を裏付けた。また山科西野山古墳出土品のうち革帯飾石は三位以上および四位参議用いた白玉の可能性高く鉄鏃出土弓矢副葬意味している。また瓦硯年代長岡京期から平安時代初期とされている。このことから被葬者8世紀末から9世紀初頭死去した公卿クラスの上貴族であり、武官であった考えられ位置年代内容のどれをとっても坂上田村麻呂一致する。現在では西野山古墓墓所推定されている。 京都市東山区清水寺本堂近くにある「開山堂田村堂)」では、清水寺創建大本願として堂内中央の須弥上の厨子内に坂上田村麻呂夫妻の像が祀られている。 京都市東山区東山にある「将軍塚」は、古墳時代円墳3基からなる将軍塚古墳群のうち京を見下ろす東山の峰の華頂山築かれ古墳であるが、いつごろからか王城鎮護守護神とされた坂上田村麻呂イメージ投影され田村麻呂の塚墓と考えられ習合されるようになり、『田邑麻呂伝記』に記され国家非常時があれば塚墓はあたかも鼓を打ち、あるいは雷電が鳴るとの田村麻呂の塚墓にまつわる伝説が、中世以降田村麻呂の塚墓と混同同一視され将軍塚にも将軍塚鳴動伝承として付会された。 宮城県遠田郡涌谷町箟峯寺宮城県石巻市零羊崎神社には、文化7年坂上田村麻呂没後1000年年忌供養塔建立されている。 京都市山科区坂上田村麻呂公園内にある「坂上田村麻呂之墓」は、明治28年1895年)の平安遷都千百年祭にさいし田村麻呂の墓として整備されたが、現在では栗栖野丘陵一帯広がる中臣遺跡のひとつで中臣氏有力者の墓と考えられている。墓碑には丸に抱き茗荷紋が刻まれている。

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墓所・霊廟

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本多忠国」の記事における「墓所・霊廟」の解説

兵庫県姫路市圓教寺本多家廟屋があり、忠国の廟所宝永元年1704年)に建立された。

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墓所・霊廟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 02:26 UTC 版)

上杉謙信」の記事における「墓所・霊廟」の解説

謙信遺骸甲冑着せて甕に納め葬られといわれる。この遺骸当初春日山城内の不識院に埋葬され林泉寺供養塔建立された。通説では長尾上杉家転封伴って若松城、ついで米沢城内に改葬されとされる明治維新後は米沢藩歴代藩主が眠る上杉家廟所山形県米沢市)に再度改葬された。春日山林泉寺新潟県上越市)と岩殿山明静院新潟県上越市)と高野山栃尾美術館前庭新潟県長岡市)にも供養塔残されている。 また、江戸時代米沢藩では謙信藩祖として崇敬集めた明治5年1872年)に米沢城本丸跡創建された上杉神社別格官幣社)に上杉鷹山と共に祀られ明治35年別格官幣社昇格し神体謙信一柱となった(なお上鷹山は、松岬神社にて上杉景勝直江兼続と共に祀られるようになった)。明治41年1908年9月9日には、従二位贈られた。 なお、直江兼続上杉遺民一揆の際に越後国内の旧臣らを扇動する際、「上杉謙信公の墓を守れ」という檄文使ったとされている。

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墓所・霊廟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 19:14 UTC 版)

別所長治」の記事における「墓所・霊廟」の解説

雲龍寺首塚):三木市上の丸町毎年祥月命日1月17日には法要営まれ飢餓喘いだ城兵食したという故事にちなん見立てたうどんが振るまわれる法界寺霊廟別所家菩提寺):三木市別所町東這田月命日にあたる4月17日追悼法要営まれており、当時合戦様子を語る「三木合戦絵解きが行われている。 その他、毎年5月5日には長治偲ぶ別所春祭」が催され辞世の歌碑を前にした歌碑祭の他、武者行列などのイベントが行われる。

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墓所・霊廟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 02:52 UTC 版)

徳川光圀」の記事における「墓所・霊廟」の解説

墓所 - 常陸太田市瑞竜町瑞龍山にあり、現在、日本最大の儒式墓所となっている。 霊廟 - 母の菩提寺である常陸太田市新宿町久昌寺義公廟がある。 奉斎神社 - 水戸市常磐町鎮座常磐神社主祭神として祀る瑞龍山 義公

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墓所・霊廟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 05:59 UTC 版)

徳川家康」の記事における「墓所・霊廟」の解説

本光国師日記』によると、家康遺言として「臨終候はば御躰をば久能へ納。御葬禮をば增上寺にて申付御位牌をば三川大樹寺に立。一周忌も過候て以後日光山に小き堂をたて。勧請し候へ。」としている。この遺言従い葬儀5月17日増上寺行われ安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士院殿号)(蓮社号)(誉号)(戒名)(位号)」という浄土宗戒名つけられた。この葬儀は神として祀られたため内々行われ諸大名参列香典無用、僧も近国からのみの参集であった遺体駿府南東久能山(現久能山東照宮)に葬られ遺言通り一周忌経て関東平野最北部にある日光の東照社分霊された。天海指揮による日光への改葬説が、幕府文献などにも「改葬」と記述されていたため広く信じられてきたが、近年になってその矛盾指摘する議論研究が盛んとなり、日光運ばれた「神」の中に遺体はなかったとする説が有力となっている。 神号側近天海崇伝神龍院梵舜の間で、権現明神のいずれとするかが争われたが、秀吉が「豊国大明神」だったために明神不吉とされ、山王一実神道則って薬師如来本地とする権現とされた。この後、小孝亮が二条関白邸で「日本大権現」「東光大権現」の二つ示し、また一説によると菊亭晴季も「威霊大権現」「東照大権現」の二案を勧進した。日本大権現が有力候補であったが、元和3年1617年2月21日東照大権現神号3月9日神階正一位贈られるまた、東照社今川直房酒井忠勝尽力により正保2年1645年11月3日宮号宣下があり、東照宮となり、さらに東照宮正一位神階贈られ家康江戸幕府始祖として東照神君権現様とも呼ばれ江戸時代通して崇拝された。徳川家中においては明治維新後も権現様として崇拝され続けた徳川家康埋葬地としての墓所」は一般に久能山東照宮の廟所宝塔神廟)と、日光東照宮の奥社宝塔2つとされる徳川宗家18当主徳川恒孝は、「徳川家康顕彰四百年記事業に際して静岡商工会議所広報誌連載したコラムで、「日本各地開催され家康公の四百忌の大祭は、駿府築かれた公の御墓所である久能山東照宮大祭からスタートしと書き記した徳川将軍15人中寛永寺増上寺のどちらにも墓所がないのは家康以外には徳川家光徳川慶喜がいる。 久能山東照宮の廟所宝塔 元和2年1616年)に創建された。創建当初木造桧皮葺造りであったが、寛永17年1640年)に家光により現在の石宝塔造替された。「神廟」ともいう。家康遺命により西向き建てられている。1955年6月22日重要文化財指定された。 日光東照宮の奥社宝塔 元和3年1617年4月日光社殿完成し4月8日家康奥院廟塔に改葬された。そして一周忌にあたる4月17日遷座祭が行われた。奥社宝塔は「ほくしゃほうとう」と読む[要出典]。1908年8月1日旧国宝(重要文化財)に指定された。 その他 寛永20年1643年)、将軍家光は高野山10年歳月をかけて、家康秀忠祀る霊屋徳川家霊台)を建てた向かって右建物家康霊屋である。1926年4月19日旧国宝(重要文化財)に指定された。 1969年4月松平氏菩提寺である愛知県岡崎市大樹寺において、松平八代墓の隣に家康墓碑建てられた。形は久能山東照宮の廟所宝塔にも日光東照宮の奥社宝塔にも似ているが、実際に日光東照宮宝塔模して制作された。 久能山東照宮神廟 日光東照宮の奥社宝塔 徳川家霊台家康霊屋 大樹寺家康墓碑

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墓所・霊廟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 04:42 UTC 版)

本多忠政」の記事における「墓所・霊廟」の解説

兵庫県姫路市圓教寺本多家廟屋があり、忠政の廟所寛永8年1631年)に建立された。

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墓所・霊廟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 04:42 UTC 版)

本多政朝」の記事における「墓所・霊廟」の解説

兵庫県姫路市圓教寺本多家廟屋があり、忠政の廟所寛永15年1638年)に建立された。

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