墓所・肖像画・木像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 05:37 UTC 版)
墓所 法名は寶篋院瑞山道權。墓所は京都府京都市北区の萬年山等持院。また、京都府京都市右京区の善入山宝筐院や静岡県三島市川原ケ谷の地福山宝鏡院にも伝承がある。 肖像画 宝筐院本(束帯姿。重要文化財) 記録上では義詮の画像はいくつか確認できるが、現在そう言い伝えられている作品は、これ以外ほとんど無い。美術史学者の米倉迪夫は、神護寺三像(国宝)の一つ「伝藤原光能像」について、足利義詮像とする新説を唱えている。伝光能像の容貌が等持院像に酷似しており、共通の紙型を元に制作された可能性が高いことが根拠である。また日本中世史家の黒田日出男は、米倉の論旨や当時の政治状況をふまえて、神護寺三像のうち特にセット性が明瞭な伝源頼朝像と伝平重盛像がそれぞれ足利直義像と足利尊氏像とすると、残りの伝光能像は義詮像としか考えられない、と論じている。一方、従来の宝筐院本について見ると、同作品が発見され義詮像とされたのは意外に新しく、戦後になって日本史学者の赤松俊秀によって紹介されてからである。しかし、宝筐院本の面貌表現を比較すると、等持院像やあるいは伝光能像よりも、安国寺にある尊氏像との共通性が感じられる。また、宝筐院は幕末に一時全くの廃寺になり、義詮像は大正8年(1917年)に宝筐院が再興された時に他からもたらされた蓋然性が高いことから、宝筐院本は義詮ではなく尊氏像である可能性が指摘されている。 木像 等持院像、鑁阿寺像、瑞泉寺像 等持院像は、幕末に尊皇攘夷派により尊氏・義満の木像と合わせて三条河原に梟首されたことで知られる(足利三代木像梟首事件)。
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