当時の政治状況
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「カティリナ弾劾演説」の記事における「当時の政治状況」の解説
クーデターの首謀者カティリナは古いパトリキ(貴族)出身で、前82年の政変ではルキウス・コルネリウス・スッラの下で行動し、紀元前68年には法務官に選出された。 さらに執政官の地位を求め選挙出馬への意欲をみせるも、紀元前66年、前65年の選挙には、属州担当時代の不正を告発されて立候補を断念。翌紀元前64年の選挙にようやく立候補の資格が認められるも、2名の執政官ポストに対して7名が乱立し、さらにキケロからの妨害工作(ネガティブキャンペーン)も重なり落選した。この年当選したのがキケロとガイウス・アントニウス・ヒュブリダである。 翌前63年に再び立候補し、今度は貧困層を取り込むべく「借金の棒引き」を公約に選挙戦を臨むも、選挙を主宰するキケロがわざとらしくカティリナの不穏さをアピールして落選し、これら一連の選挙活動の結果、彼の元には膨大な借金のみが残ることとなった。政治的にも経済的にも追い込まれたカティリナは、非合法(武力)によるクーデター以外に方法がない状況に追い込まれてしまう。ただ、このクーデター計画はずさんなもので、キケロはフルウィアという女性から情報を仕入れていたというが、キケロによるねつ造を疑う学者すらいるという。 確実な証拠がなく元老院でもあまり真剣に討議されなかったが、クーデター計画の書簡を手に入れたキケロは、10月28日が決行日であるとして、「両執政官は共和国の損害を防ぐべし」とする元老院最終決議を受け取った。しかし当日になっても何事もなく、キケロに疑いの目が向けられたが、各方面で蜂起の動きがあることが報告され、クーデターの密告が奨励された。 カティリナは共謀者の元老院議員の庇護を受け、のらりくらりとローマに留まり、11月8日にキケロを襲撃した上でエトルリアで募集した軍に合流する手はずを整えたものの、この襲撃計画はフルウィアによってキケロに知るところとなり失敗。キケロはユピテル・スタトル神殿 (紀元前3世紀)(英語版)に元老院を召集した。ところが、意外なことに渦中の当事者であるカティリナも当議場へやってきて、クーデター計画を否定し、身の潔白を証明しようとした。キケロは議会内で第1演説を行い、カティリナへの厳然とした態度を表明する。
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当時の政治状況
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2005年(平成17年)の郵政解散に伴う第44回衆議院議員総選挙において大勝し、高い支持率を持っていた小泉内閣であったが、年末には耐震偽装問題、米国産牛肉問題、ライブドア事件のいわゆる「三点セット」によって支持率が急落、第164回通常国会において野党から厳しい追及がされると予想される中、さらに防衛施設庁談合事件が発覚して「四点セット」と呼ばれる危機に陥っていた。一方、最大野党の民主党は郵政解散の大敗を受けて、新たに党首となった前原誠司の下で立て直しを計っており、絶好の機会であった。 この中でライブドア事件は、本来は私企業の粉飾決算事件に過ぎなかったが、ライブドア社長の堀江貴文(当時は既に辞職済み)が有名人、かつ前年に実質的に自民党の候補として衆議院議員総選挙に出馬していたこと、ライブドアの躍進が小泉政権による規制緩和策の恩恵を受けたと見なされたこと、それらによって堀江個人と自民党要人との個人的な関わり合いが、世間の注目を浴びていたことなどが重なっていた。
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