当時の批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 10:09 UTC 版)
玉葉和歌集は当時歌壇の中心であった二条派の歌風からすると、異端であるとしか言いようがないものであった。当然、玉葉和歌集はその歌風に反対する人々から激しい批判にさらされることになった。反論の中でも正和四年(1315年)8月に執筆されたと伝えられる、歌苑連署事書の批判が良く知られている。 歌苑連署事書はまず玉葉和歌集という名前が、玉は砕けやすく葉はもろいものであると和歌集の名前から厳しく批判した。続いて巻頭歌の紀貫之の和歌が巻頭にふさわしくないものであるとした。 先述の藤原定家作の 行きなやむ牛のあゆみにたつ塵の風さへ暑き夏の小車 — 玉葉和歌集・夏・407 もやり玉に挙げられており、過去の大歌人の歌であっても撰んでよい歌と悪い歌があるのに、よく吟味もせずにこのような相応しくない歌を撰んだと論難した。 撰者為兼の和歌も批判の俎上に挙げられており、例えばやはり先述の 木の葉なき空しき枝に年くれてまためぐむべき春ぞ近づく — 玉葉和歌集・冬・1022 は、上の句は説明があまりに詳しすぎであり、反面下の句はごく当たり前のことを言っており何が主題なのかわからないと批判し、 旅の空雨の降る日はくれぬかとおもひて後もゆくぞ久しき — 玉葉和歌集・旅・1204 については、幼児の作った歌というべきであり、『暮れぬか』という口語的な表現は幼児の言葉のようだとまで酷評している。 歌苑連署事書の著者の主張は、勅撰集は美しい風物を美しい言葉で詠んだ、伝統的な優美な和歌を撰ぶべきであるという点にある。その主張に反した玉葉集に対する批判は当然厳しいものになったわけであるが、歌の取捨選択をきちんと行わず、和歌数が多すぎるとの批判以外はおおむね言いがかりに近いものであるとされている。しかし当時の和歌の主流から見ると、それは当然の批判であった。鎌倉時代後期、京都の宮廷社会にはまだ革新的な京極派を生み出すエネルギーが残されていた、しかしその新しい動きを拒絶する勢力もまた強力であった。こうした革新的なものと守旧的なものとの間の激しいつばぜり合いは、鎌倉時代後期の時代性を反映したものであると言える。
※この「当時の批判」の解説は、「玉葉和歌集」の解説の一部です。
「当時の批判」を含む「玉葉和歌集」の記事については、「玉葉和歌集」の概要を参照ください。
- 当時の批判のページへのリンク