井上哲次郎不敬著書事件
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1925年(大正14年)9月、井上哲次郎が『我が国体と国民道徳』を著す。同書に曰く、我が国体は既に分かり切ったものと思い込んで実はよく知らない者が多く、精神面を度外視して表面だけ考えたり、英国や旧ドイツ帝国や旧ロシア帝国などと同じように考えたり、民主思想と絶対に相容れないものと考えたりする、その誤謬は実に様々である、と述べ、国体は民主思想と矛盾するものではないと語る。井上哲次郎はこれまで万世一系の血統を重視していたが、同書ではポイントを移して王道(仁政)を重視し、民本主義や人道主義が国体に根差すと主張する。これは、大正天皇の病気療養に国体論の不安を見た井上哲次郎が、国体論を再編して国体の正統性について説得的な論拠を提供しようと試みたものと評される。 井上哲次郎の『我が国体と国民道徳』は公刊後1年経った1926年(大正15年)9月ごろから頭山満ら国家主義者に猛烈に批判され、翌年1月に発禁処分を受ける。当時の批判は「彼(井上哲次郎)は全く時代思潮の追随者で、彼自身の見識も意見も有るものではない」、「震災前に出版していた国民道徳概論には国体破壊の恐れある言論はほとんどない」のに、『我が国体と国民道徳』については「なるほどこれは怪しからぬ。かれ井上氏は何時の間にこんな物を書くほどに、それも国民道徳と銘を打って、全国の児童の頭に植えつけるような書物に書くほどに悪化したろうか」というものであった。具体的には、三種の神器のうち鏡と剣は模造品であるなどと記した部分があり、これが不敬であるとされたこと、またそれよりむしろドイツ・オーストリア・ロシアの君主国体が倒れたことについて「このように国体というものがガラリガラリと一変して行くのを引き続いて見た」などという記述が問題視されたことが挙げられる。この不敬事件は、井上哲次郎の国体論再編の試みが伝統的国体論から攻撃を受けて挫折したものと評される。井上哲次郎は公職を辞めざるを得なくなり、以後著述に専念する。
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