当時の川端少年の境遇
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「十六歳の日記」の記事における「当時の川端少年の境遇」の解説
川端康成の父親・栄吉は、康成が2歳となる1901年(明治34年)1月17日に結核で亡くなり、母親・ゲンも、康成が3歳となる翌年1月10日に同じ病で亡くなったため、康成は祖父・三八郎と祖母・カネに引き取られ、原籍地の大阪府三島郡豊川村大字宿久庄字東村11番屋敷(現・大阪府茨木市宿久庄1丁目11-25)に移り住んでいた。 村は大阪平野の北のはずれで、東海道線の茨木駅まで行くのに1里半(約6キロメートル)ほどの距離があり、この日記が書かれた15歳当時の川端は、1里半を徒歩で毎日、府立茨木中学校(現・大阪府立茨木高等学校)に通っていた。 祖母は、康成が7歳の1906年(明治39年)9月9日に亡くなった。康成の姉・芳子は、叔母・タニ(母の妹)の婚家(秋岡家)に預けられていたが、その姉も康成が10歳の1909年(明治42年)7月21日に13歳で亡くなった。 康成は、中学1、2年ごろから小説家を志していたが、それを祖父にも伝えて許されていた。川端は、この『十六歳の日記』を書いたことを次のように述懐している。 『十六歳の日記』は「小説」などにかかはりなく、ただ祖父の死の予感におびえて、祖父を写しておきたくなつたのだらう。さうとしても、死に近い病人の傍で、それの写生風な日記を書く私は、後から思ふと奇怪である。祖父はほとんど盲だつたから、私に写生されてゐるとは気づかなかつた。 — 川端康成「あとがき」(岩波文庫版『伊豆の踊子』) 当時の康成は「当用日記」(博文館発行)に日記を綴っていたが、祖父の容態が悪化し、上記のような動機で5月4日から特に祖父の姿を集中して写すために、茨木中学校の原稿用紙を使用してこの記録を書いた。祖父の死後、康成は大阪府西成郡豊里村大字3番745番地(現・大阪市東淀川区豊里6丁目2-25)にある母の実家・黒田家の伯父(母の兄・黒田秀太郎に引き取られていった。 10年後、この日記は注釈的文章を加えてまとめられて発表されたが、日記中の人物名は仮名にしてあり、おみよの実名は「田中おみと」、島木は「黒田」、池田は「秋岡」が実名で、分家の四郎兵衛の実名は、「三郎兵衛」で、川端松太郎(康成が中学入学の際に保証人となった人物)の父親である。なお、この日記が書いていた頃、祖父は本名の三八郎を「康壽」と改名していた。
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