当時の川端少年の境遇とは? わかりやすく解説

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当時の川端少年の境遇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 03:19 UTC 版)

十六歳の日記」の記事における「当時の川端少年の境遇」の解説

川端康成父親栄吉は、康成が2歳となる1901年明治34年1月17日結核亡くなり母親ゲンも、康成が3歳となる翌年1月10日に同じ病で亡くなったため、康成は祖父三八郎と祖母カネ引き取られ原籍地の大阪府三島郡豊川村大字宿久庄東村11番屋敷現・大阪府茨木市宿久庄1丁目11-25)に移り住んでいた。 大阪平野の北のはずれで、東海道線茨木駅まで行くのに1里半(約6キロメートル)ほどの距離があり、この日記書かれ15歳当時川端は、1里半を徒歩毎日府立茨木中学校現・大阪府茨木高等学校)に通っていた。 祖母は、康成が7歳1906年明治39年9月9日亡くなった。康成の姉・芳子は、叔母タニ(母の妹)の婚家(秋岡家)に預けられていたが、その姉も康成が10歳1909年明治42年7月21日13歳亡くなった。 康成は、中学1、2年ごろから小説家志していたが、それを祖父にも伝えて許されていた。川端は、この『十六歳の日記』を書いたことを次のように述懐している。 『十六歳の日記』は「小説」などにかかはりなく、ただ祖父の死の予感おびえて祖父写しておきたくなつたのだらう。さうとしても、死に近い病人の傍で、それの写生風な日記を書く私は、後から思ふ奇怪である。祖父はほとんど盲だつたから、私に写生されてゐるとは気づかなかつた。 — 川端康成あとがき」(岩波文庫版伊豆の踊子』) 当時の康成は「当用日記」(博文館発行)に日記綴っていたが、祖父容態悪化し上記のような動機5月4日から特に祖父の姿を集中して写すために、茨木中学校原稿用紙使用してこの記録書いた祖父死後、康成は大阪府西成郡豊里村大字3番745番地(現・大阪市東淀川区豊里6丁目2-25)にある母の実家黒田家伯父(母の兄・黒田秀太郎引き取られていった10年後、この日記注釈文章加えてとめられ発表されたが、日記中の人物名仮名にしてあり、おみよの実名は「田中おみと」、島木は「黒田」、池田は「秋岡」が実名で、分家四郎兵衛実名は、「三郎兵衛」で、川端松太郎(康成が中学入学の際に保証人となった人物)の父親である。なお、この日記書いていた頃、祖父本名三八郎を「康壽」と改名していた。

※この「当時の川端少年の境遇」の解説は、「十六歳の日記」の解説の一部です。
「当時の川端少年の境遇」を含む「十六歳の日記」の記事については、「十六歳の日記」の概要を参照ください。

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