前衛芸術家、演出家時代
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1925年(大正14年)9月池谷信三郎、河原崎長十郎 らと心座結成、旗揚げ公演のカイザー作「ユアナ」翻訳、演出。12月日本プロレタリア文芸連盟創立大会に出席、美術部員となる。15年1月、心座第二回公演で自作「孤児の処置」(『テアトル』1926年3月)演出。また1926年の2月には、『現在の芸術と未来の芸術』の続編に位置づけられる『構成派研究』(中央美術社)を刊行。2月、3月、共同印刷争議への資金カンパのためプロ連美術部員として街頭で似顔絵を描く。3月、日活映画、村田実監督、横光利一原作『日輪』のセットとコスチューム担当。4月JOAKから自作ラジオ・ドラマ『出帆第一日』演出。11月自作『勇ましき主婦』(『演劇新潮』1926年10月)を新劇協会で演出。 前衛的な芸術家とプロレタリア運動家と狭間に位置しながらも、1926年(大正15年)10月「無産者新聞」創刊1周年記念の「無産者の夕」の舞台装置を柳瀬と担当、プロ連の他の同志の試みに強い感動をうけ、マルクス主義に接近する。同月スタンダードな戯曲の公演をめざす左翼的劇団前衛座の創設に参画、その同人となる。翌11月旗揚げ公演、ルナチャルスキー「解放されたドン・キホーテ」の装置を柳瀬と担当、また劇中、「ムルチオ伯」を演じた。同月最初の小説集『人間機械』(春陽堂)刊。1927年(昭和2年)2月文芸戦線社同人。5月心座で自作「スカートをはいたネロ」(『演劇新潮』同年5月、6月 原始社刊)の演出、装置担当後、心座脱退。6月プロ連後進の日本プロレタリア芸術連盟分裂にさいし労農芸術家連盟に参加。同時に前衛座も分裂、佐々木孝丸らと前衛座を労芸所属劇団に改組、「スカートをはいたネロ」などを演出。以後プロレタリア演劇運動で戯曲、演出、装置の3部門にわたり活躍する。ついで同年11月労芸脱退、蔵原惟人らと前衛芸術家同盟を創設。同時に前衛座を前芸所属の前衛劇場と改組、旗揚げ公演で自作「ロビン・フッド」(同年10月脱稿 発表誌未詳)の演出、装置を担当した。同年、初山滋、武井武雄、川上四郎、岡本帰一、深沢省三、清水良雄らとともに「日本童画家協会」を結成。 1928年3月前芸はプロ芸と合同、4月全日本無産者芸術連盟(ナップ)を結成し、プロレタリア文学運動の中心的な組織が生まれた。これに応じ前衛劇場もプロ芸のプロレタリア劇場と合同、左翼劇場を結成。その第一回公演で自作「進水式」(『文芸公論』1927年4月)の演出、装置担当。9月国際文化研究所の創設に参画、その所員。同年暮れナップの全日本無産者芸術団体協議会(ナップ)への改組に応じ、1929年2月、その傘下団体として東京、左翼劇場を中心に日本プロレタリア劇場同盟(プロット)が結成、その中央執行委員。7月「暴力団記」(『戦旗』1929年7月 1930年1月 日本評論社刊)が佐野碩演出、左翼劇場で上演(検閲により『全線』と改題)。「暴力団記」は、1923年に京漢鉄道の労働者の組合結成にたいし軍閥が暴力団などを使って弾圧、ゼネストをもって立ち上がった組合の指導者が虐殺された中国革命運動史上で著名な「二・七惨案」に材を取った戯曲。佐野の演出もあり大きな成果をあげ、蔵原惟人は「現代日本のプロレタリア戯曲の最高を示すもの」と評価、村山の代表作のひとつとなった。10月国際文化研究所がプロレタリア科学研究所と改組、その中央委員。1930年2月藤田満雄、小野宮吉脚色の徳永直原作「太陽のない街」を演出する。 1930年(昭和5年)5月治安維持法違反で検挙、12月保釈。翌年5月日本共産党入党。蔵原らとともに日本プロレタリア文化連盟(コップ)結成のため努力。10月コップ成立に応じ劇場同盟は演劇同盟(プロット)と改称、その中央執行委員長、コップ中央協議会協議員。1932年4月「志村夏江」(杉本良吉演出)の舞台稽古の朝検挙される。1933年12月、転向して出獄、1934年3月懲役2年執行猶予3年の判決に服す。5月転向文学のはしり「白夜」(『中央公論』)発表。演劇運動に対する国家権力の弾圧が激しくなり、東京左翼劇場は中央劇場と名称を改称しその改名披露公演三好十郎作「切られの仙太」を上演(1934年5月12日~31日築地小劇場)した。だが、権力の抑圧でプロットは解散決議をせざるをえなくなる(6月)。結局7月15日プロットは解散、左翼劇場(中央劇場)も解体された。 出獄後の村山は、新劇団の再編成を考え、まず「新劇の危機」(『新潮』1934年9月)を発表、「新劇団大同団結の提唱」(『改造』1934年9月)をする。既存の演劇集団――新築地劇団・前進座・美術座などはこの提唱に反対する者多く、結局村山の主張する単一劇団は出来なかった。当初新協劇団は俳優と制作だけという構成であった(9月)。その後再編されて演出家(村山・久保栄)、俳優(小沢栄(のち小沢栄太郎)・滝沢修・伊達信・松本克平・原泉子・細川ちか子・伊藤智子ら)で11月に出発した。創立公演は村山(久保も参画)脚色「夜明け前・第一部」(久保栄演出)で、多くの観客動員があった。以後新協劇団の中心人物の一人として演出面で活躍。代表的なものは久板栄二郎「断層」(1935)「どん底」(1936)、久板「千万人と雖も我行かん」(1938)、本庄陸男原作「石狩川」(1939)など。この期には「夜明け前」の第一部、第二部(『テアトロ』1934年11月 1936年3月)、「石狩川」(『テアトロ』1939年11月)など、脚色の仕事はあるが戯曲の創作はほとんど見られない。ただ「白夜」などのほかに、大衆的な長編小説『新選組』(1937年11月 河出書房)、上下巻本の『天国地獄』(1939年3月、4月 有光社)を執筆している点にひとつの特徴が見られ、この線は戦後も『忍びの者』5部作(1962年10月 1965年3月 1967年1月 1967年6月 1971年7月 理論社)という形で現れる。またこの期には新派の井上正夫が脱皮をねらって井上正夫演劇道場を1936年4月に結成、その指導、協力を求められ、以後新派、歌舞伎の演出も行い、戦後も続けられている。村山を先頭とする新協劇団の活動は戦時体制下の良心の灯であったがゆえに、1940年8月村山らは逮捕、新協は解体された。1942年6月保釈され、1944年控訴院判決が下された(懲役2年執行猶予5年)。1945年3月朝鮮へ、7月満州へ行く。
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