前衛芸術の模索
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1929年頃に触れた構成主義やダダイスムの影響で再び美術に戻り、1930年頃にはふたたび文学よりも造形活動に比重を置くようになった。27歳だった1931年には二科展にレリーフ状の作品を出品しようと試みたが、この作品は絵画とも彫刻とも判然としなかったために失敗。1933年には駿河台で東郷青児、阿部金剛、古賀春江、峯岸義一らが主宰するアヴァンギャルド洋画研究所に入所。斎藤は洋画ではなく抽象的傾向の作品や立体的コラージュなどを制作し、ここでは桂ユキ子(桂ゆき)や山本蘭村と知り合っている。1935年にはアヴァンガルド洋画研究所を離席し、詩人の瀧口修造や北園克衛と出会った。 1936年には第23回二科展で「出立」と「アブストラクト」が初入選。同年には第14回黒色洋画展にも出品し、1937年には第24回二科展で再び入選した。「カラカラ」と呼ばれる構成主義的な連作レリーフを制作し出したのは1936年頃であり、37年を経た1973年には記憶と写真を元に再制作している。1938年には山元敬輔や高橋迪章らと絶対象派協会を結成して第1回展を開催。また同年には二科会内の前衛画家による九室会に入会し、1939年には第1回九室展に出品した。九室会は分科会ながら吉原治良や山口長男など41人が参加する大所帯であり、シュルレアリスム的な作品を制作する作家が多数を占め、抽象的傾向の作家は斎藤や吉原ら数えるほどだった。斎藤は次第に構成主義に対して批判的となり、斎藤自身が後に「トロウッド」と名付ける合板レリーフのシリーズの制作を開始したのはこの頃である。いわゆる抽象絵画を制作した時期は吉原や長谷川三郎らと同時期だったが、たがいに影響されることはなかったという。
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