前衛芸術の模索とは? わかりやすく解説

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前衛芸術の模索

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 07:06 UTC 版)

斎藤義重」の記事における「前衛芸術の模索」の解説

1929年頃に触れた構成主義ダダイスム影響で再び美術戻り1930年頃にはふたたび文学よりも造形活動比重を置くようになった27歳だった1931年には二科展レリーフ状の作品出品しようと試みたが、この作品絵画とも彫刻とも判然としなかったために失敗1933年には駿河台東郷青児阿部金剛古賀春江峯岸義一らが主宰するアヴァンギャルド洋画研究所入所斎藤洋画ではなく抽象的傾向作品立体的コラージュなどを制作し、ここでは桂ユキ子桂ゆき)や山本知り合っている。1935年にはアヴァンガルド洋画研究所離席し詩人瀧口修造北園克衛出会った1936年には第23回二科展で「出立」と「アブストラクト」が初入選。同年には第14回黒色洋画展にも出品し1937年には第24回二科展で再び入選した。「カラカラ」と呼ばれる構成主義的な連作レリーフ制作し出したのは1936年頃であり、37年経た1973年には記憶写真元に制作している。1938年には山元敬輔や高橋迪章らと絶対象派協会結成して第1回展開催。また同年には二科会内の前衛画家による九室会入会し1939年には第1回九室展に出品した九室会分科会ながら吉原治良山口長男など41人が参加する大所帯であり、シュルレアリスム的な作品制作する作家多数占め抽象的傾向作家斎藤吉原数えるほどだった。斎藤次第構成主義に対して批判的となり、斎藤自身が後に「トロウッド」と名付ける合板レリーフシリーズ制作開始したのはこの頃である。いわゆる抽象絵画制作した時期吉原長谷川三郎らと同時期だったが、たがいに影響されることはなかったという。

※この「前衛芸術の模索」の解説は、「斎藤義重」の解説の一部です。
「前衛芸術の模索」を含む「斎藤義重」の記事については、「斎藤義重」の概要を参照ください。

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