前衛美術への傾倒
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1960年に同大学を卒業し、品川区立荏原第二中学校で教鞭を執った。この時から、現代舞踊家の叔母・邦千谷(本名・久保田芳枝。邦正美の弟子)の元で下宿を始める。祖母は1957年目黒区駒場に「邦千谷舞踏研究所」を設立し、1960年には若い芸術家たちの活動場として研究所を開放していた。そこには大野一雄や土方巽といった舞踏家や、塩見允枝子ら「グループ・音楽」のメンバーが集まり、ジャンルを超えた前衛芸術家たちの交流の場となっていた。彼らとの交流を深める中で、久保田は1963年の第15回読売アンデパンダン展に参加。細い金属棒を溶接した物体と円筒状の既製品を用いた抽象的な出品作は、久保田のそれまでの作風とはまったく異なっていた。 同1963年12月、内科画廊で個展「1st. LOVE, 2nd. LOVE... 久保田成子彫刻個展」を開催。「ラブレター」に見立てた紙くずを部屋いっぱいに積み込み、それをシーツで覆って作った山の上に、読売アンデパンダン展と類似の彫刻を展示。観客は彫刻を見るために山を這い上がらなければならず、一種の参加型インスタレーションであった。 このほか、ハイレッド・センターの《シェルター計画》や小野洋子の《モーニング・ピース》に参加したり、篠原有司男らのグループ展「OFF MUSEUM」や「刀根康尚個展」「フルックス週間」に出品したりして、同時代の前衛美術の動向に加わっている。1964年5月には東京・草月会館ホールでナム・ジュン・パイクの公演を実見し、直接話を聞いたことで、彼が参加していたフルクサスへの関心を強めた。
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