出版と反響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/27 01:29 UTC 版)
1912年に『失われた時を求めて』の第1篇の原稿を完成させたプルーストは、出版先を探しはじめた。プルーストは、自身が無名の作家であること、また作品内に同性愛の記述があることから出版に困難が伴うことを覚悟し、自費出版を申し出ていた。しかし、それでも交渉は難航し、ファスケル社、オランドルフ社に断られた後、新進作家の牙城であった『新フランス評論』(NRF)を出版するガリマール社に原稿を持っていった。 ところがここでも断られ、最終的に友人の伝手のあったグラッセ社からの出版が決まった。値段は3フラン50サンチームと非常に安価で、これは当初10フランを提案したグラッセ社に対して、作品をより広く流布させたいというプルーストの意向により付けられた値段であった。 1913年11月14日に第1篇『スワン家のほうへ』が刊行されると、プルーストの知り合いの編集者に運動をかけたこともあって、新聞各紙に書評が掲載された。内容は賛否さまざまであったが、中にはこの作品を「マネ風の新鮮で自由闊達なタッチに満ちた巨大な細密画」と表現したジャン・コクトー(『エクセルシオール』紙)や、その文体を「見えざる複雑さのおかげで単純になった」と評した『フィガロ』紙のリュシアン・ドーデ(フランス語版)(アルフォンス・ドーデの次男)などの評が含まれる。 しかし、最も反響があったのは、先に『失われた時を求めて』の出版拒否を行なっていた『新フランス評論』の内部であった。そこでは、この作品の先進性が見抜けなかったことに対して、メンバー内で深刻な内部批判が起こり、その結果、メンバーの1人であったジッドからプルーストに対して丁寧な謝罪の手紙が書かれた上に、第1巻の版権をグラッセ社から買い取ること、第2篇以降を自社から出版する方針を固めた。グラッセ社への義理立てもあって、プルーストは、この件に当初難色を示したものの、最終的には提案通り、以降の『失われた時を求めて』はガリマール社から出版されることが決まった。 大戦終結後の1918年に第2篇『花咲く乙女たちのかげに』がガリマール社から刊行されると、プルーストは、ゴンクール賞の選考委員であるレオン・ドーデ(フランス語版)(リュシアン・ドーデの兄)の支持が得られることが分かったため、同賞に立候補した。そして、新進作家ロラン・ドルジュレスの『木の十字架』を破って、同年のゴンクール賞を受賞した。 この受賞に対しては、若いドルジュレスに上げるべきだったという意見や、プルーストが選考委員と関係があるという非難がジャーナリズムに持ち上がった。しかし、『ル・タン』紙のポール・スーデーやレオン・ドーデ、『新フランス評論』のジャック・リヴィエールらは、プルースト擁護の筆を取っている。 1921年5月に『ゲルマントのほう II』『ソドムとゴモラ』が出版され、その同性愛の主題がはっきりしてくると、ジッドは、そこで同性愛があまりに陰惨に書かれていることに対して、難色を示した。また、ドーデ兄弟の義弟であったアンドレ・ジェルマンは、怒りを爆発させて『エクリ・ヌーヴォー』誌上でプルーストを「従僕の情婦に成り下がったオールドミス」呼ばわりし、あやうく決闘にまで発展するところであった。 その一方で、『ソドムとゴモラ II』(1922年5月)、死後の『囚われの女』(1923年11月)は賛辞で迎えられ、プルーストはその評価を確固たるものとしていった。しかし、『消え去ったアルベルチーヌ』(1925年)、『見出された時』(1927年)では、草稿段階であったことも含めて、再び批判が現れてくる。しかし、『見出された時』に関しエドモン・ジャルー(『ヌーヴェル・リテレール』紙)は、作品の円環的な構造を指摘し、「その内在的な美が完全に啓示されるまではまだ多くの年月がかかるだろう」と記している。 生誕150周年の2021年に、初稿「75枚の草稿」とその関連原稿が、研究者ベルナール・ド・ファロワの遺品中から発見され、出版された(ナタリー・モーリヤック編、ガリマール刊)。
※この「出版と反響」の解説は、「失われた時を求めて」の解説の一部です。
「出版と反響」を含む「失われた時を求めて」の記事については、「失われた時を求めて」の概要を参照ください。
出版と反響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 20:16 UTC 版)
「1844年の経済哲学手稿」の記事における「出版と反響」の解説
1932年、モスクワでマルクス・エンゲルス・ゲザムタウスガーベの一冊として初めて出版された。編集はリャザノフが担当し、ルカーチ・ジェルジュはその下で解読にあたった。ルカーチは、この体験が彼のマルクス主義に対する解釈を永久に変えたと、後に主張することになる。出版に際して、その重要性はヘルベルト・マルクーゼとアンリ・ルフェーヴルによって認識された。マルクーゼは、『手稿』がマルクス主義の哲学的基盤を示していると主張し、ルフェーヴルは、ノルベルト・グターマンと共同で、1933年にフランス語版を出版し、「科学的社会主義」の理論全体を新しい基盤の上に置いた。1934年から5年にかけて書かれたルフェーヴルの『弁証法的唯物論』は、マルクスの全著作を『手稿』に照らして再構成することを進めている。 こうした関心の高さにもかかわらず、マルクス・エンゲルス・ゲザムタウスガーベ計画はその後まもなく事実上中止となり、『手稿』全巻の入手が困難となった。 第二次世界大戦後、テキストはより広く普及し、1956年には英語版が、1962年にはフランス語版も登場し、満足のいくものとなった。この時期、イタリア語ではガルヴァノ・デラ・ヴォルペが初めて『写本』を翻訳し、ルカーチ、マルクーゼ、ルフェーヴルとは大きく異なる解釈を提唱し、独自の学派を形成している。この時期、フランスを中心とする多くのカトリック作家が『手稿』に関心を寄せていた。モーリス・メルロ=ポンティやジャン=ポール・サルトルの実存的マルクス主義もまた、『写本』から大きな影響を受けている。アメリカでは、50年代後半から60年代前半にかけて、後に新左翼と呼ばれる知識人の潮流によって熱狂的に受け入れられ、1961年にはエーリッヒ・フロムの序文を含む一巻が出版された。マルクスの大著『資本論』には疎外という用語は目立つ形で登場しないため、『手稿』の出版は「若きマルクス(英語版)」と「壮年のマルクス」の関係をめぐって大きな議論を引き起こした。『 手稿』は「マルクス主義的人文主義」にとって最も重要な参考文献であった。これらは、彼らのヘーゲル哲学的人文主義と、その後のマルクスの経済理論との間に連続性を見いだした。逆にソ連は、「手稿」をマルクスの「初期著作」に属すると考え、ほとんど無視し、マルクスの行き詰まった思想の一端を説いた。ルイ・アルチュセールの構造主義的マルクス主義は、ソ連がマルクスの初期の著作に下した厳しい評決を受け継いでいる。アルチュセールは、マルクスの発展には「断絶」があると考えた。マルクスの思想を1845年以前の「思想的」時代と、それ以降の「科学的」時代に分ける区切りのこと また、マルクスにブレークを与えた人々は、「手稿」を理想化し、若いマルクスを本物のマルクスと信じていた。
※この「出版と反響」の解説は、「1844年の経済哲学手稿」の解説の一部です。
「出版と反響」を含む「1844年の経済哲学手稿」の記事については、「1844年の経済哲学手稿」の概要を参照ください。
出版と反響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 14:51 UTC 版)
『老人と海』は、単行本に先駆けてグラフ誌『ライフ』1952年9月1日号に全編掲載された。5,000字程度が記事の上限である週刊誌にとって、27,000語にのぼる小説を一挙に掲載することは破格の扱いだった。掲載前の『ライフ』8月25日号では、社説でジェイムズ・ミッチェナーが「老いたるヘミングウェイが傑作を書き、チャンピオンシップを奪還した。彼は今でも私たちみんなのパパなのだ。」と作品掲載を予告した。『老人と海』を掲載した『ライフ』9月1日号には、「ここにアメリカの偉大な作家の偉大なる新作全編を、初めて提供することを誇りとするものである」という編集側の謳い文句と、各ページにノエル・シックルズ(英語版)の挿絵が掲載されていた。同掲載誌は500万部以上印刷された。これは社始まって以来の発行部数であったが、48時間で完売となり、ヘミングウェイに4万ドルの原稿料をもたらした。読者からは「国民作家ヘミングウェイの復活」を祝福する投書が殺到した。 『ライフ』掲載から1週間後の9月8日、スクリブナー社は『老人と海』を出版した。初版の発行部数は5万部で、発売初日にはすでに第2版が準備されていた。表紙カバーには作品の舞台となるコヒマルの漁村を描いたアドリアーナの絵が採用され、ヘミングウェイを喜ばせた。スクリブナー社の刊行本では、当初の献呈先は妻のメアリーとされていたが、メアリーの承諾を得て「チャールズ・スクリブナーとマックス・パーキンズに捧ぐ」に変更された。 『老人と海』は、ただちにブック・オブ・ザ・マンス・クラブに選評され、「アメリカ文学の古典作品として位置づけられる方向性」との評価を受けた。批評家マルコム・カウリーは、次のように述べた。 ヘミングウェイの散文に対する敬意を表すことなくして、『老人と海』に対する批評を書くことは一行たりともできない。もっとも古典的で簡潔な言葉遣いで、構成もシンプルながら、そこには新たな価値が付与されている。用いられている英語は作家が創造した新たな言語のごとくであり、言語が本来持つ純粋さによって作品を書こうとしている。 また、同じころキューバにおいてもヘミングウェイのたっての希望により、『老人と海』がハバナの雑誌『ボエミア(フランス語版)』に掲載された。これはキューバ在住のスペイン人作家リノ・ノバス・カルボによるスペイン語訳の全文であった。ヘミングウェイは『ボエミア』から受け取った小説掲載の報酬5,000ドル全額を、ハバナ郊外にあるハンセン病治療施設「エル・リンコン病院」に寄付している。
※この「出版と反響」の解説は、「老人と海」の解説の一部です。
「出版と反響」を含む「老人と海」の記事については、「老人と海」の概要を参照ください。
- 出版と反響のページへのリンク