パ・リーグ加入後
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「福岡ソフトバンクホークス」の記事における「パ・リーグ加入後」の解説
1950年 新本拠地として大阪市内中心部の難波に大阪球場が完成し、自前の球場を確保する。5月11日に2厘差で首位に立つものの1日で首位陥落し、それ以外は開幕からすべて毎日オリオンズが首位となった。8月に6連敗するなど10ゲーム差となり、最終的に毎日と15ゲーム差がつき、7球団中2位に終わる。 1951年 シーズン終了後に日米野球が行われるため、シーズン途中で打ち切りとなり、21試合を残し9月23日に2位の西鉄に18.5ゲーム差をつけてパ・リーグ加盟後、初優勝となる。一塁飯田徳治・二塁鶴岡一人・三塁蔭山和夫・遊撃木塚忠助による「100万ドルの内野陣」と呼ばれた内野陣で他球団を圧倒。長打力に欠けたものの得点はリーグ最多、失点はリーグ最少。初めて出場した日本シリーズでは巨人と対戦するが、シリーズを通してその内野陣が5盗塁で終わるなど得意の機動力が発揮できずに、初戦からの3連敗もあり1勝4敗で敗れる。 1952年 この年は7球団で108試合まで戦い、以降はそれまでの上位4球団による4回戦制となった。6月までは毎日が独走していたが、6月以降は南海が5連勝以上を4度記録するなど 108試合を消化した時点では2位以下を圧倒していたが、上位4球団による争いとなってからは不振に陥り、毎日と優勝争いとなる。最終戦の対大映(大阪)に勝利したことで、2位の毎日と1ゲーム差でリーグ2連覇を決める。日本シリーズでは前年に続き巨人と対戦するが、2勝4敗で敗れる。 1953年 前年16勝の服部武夫と11勝の江藤正が1つも勝てず、柚木も16勝は挙げたが故障で2か月離脱するなど、前年までの投手陣が壊滅状態となるが、2年目の大神武俊が19勝、井上慎一が14勝で投手陣の柱となる。首位が28回入れ替わる混戦だったが、南海が残り1試合とした10月6日に2位の大映が負けたことで、リーグ3連覇を決める。日本シリーズでは3年連続で巨人と対戦するが、2勝4敗1分けで敗れる。 1954年 高橋ユニオンズの加盟により、8球団制になる。西鉄ライオンズがプロ野球新記録の開幕11連勝で飛び出すが、8月から9月にかけて南海は日本プロ野球記録の18連勝、1敗を挟んで8連勝で追い上げ、終盤まで西鉄と優勝争いとなる。西鉄の90勝を上回る91勝を挙げるものの、引き分けの差で西鉄と0.5ゲーム差の2位に終わる。 1955年 この年は南海が開幕10連勝で飛び出すが、この年も西鉄との25度にわたって首位が入れ替わる激しい首位争いとなる。2度3位となったが、阪急に10勝10敗とした以外は他の6球団に勝ち越し、8連勝を1度、7連勝を2度、6連勝を1度するなど8月24日以降は首位を渡さないまま、10月6日に対西鉄戦(平和台)に勝利して、2位の西鉄とは9ゲーム差をつけ2年ぶり5度目のリーグ優勝を決める。99勝は日本プロ野球史上最多記録。4度目の日本シリーズで巨人と4度目の対戦となるが、3勝4敗で敗退。「ナンカイ(何回)戦っても巨人に勝てないナンカイ(南海)」と揶揄された。二軍チームが同年創設のウエスタン・リーグに参加。 機動力野球では巨人に対抗できないと考えた鶴岡は、チーム構想を長打力重視の「400フィート打線」へと転換したが、なかなか軌道に乗らなかった。 1956年 2月、球団初の日本国外遠征となるハワイ遠征を行う。序盤、4月15日に首位に立つと途中6月半ばに一時陥落したものの、6月末に返り咲くと首位を譲らないまま、9月上旬の時点では2位の西鉄に7ゲームをつけていた。しかし9月22日からの平和台での直接対決4連戦に3敗1分けと勝てず、同月30日には西鉄に首位を明け渡し翌日に南海が再度返り咲くなど激しい首位争いとなるが、この後南海が対大映4連戦に2勝2敗とし、西鉄が5勝1敗と勝ち越し、10月6日に西鉄の優勝が決定。南海は全球団から勝ち越し、かつ西鉄と同数の96勝を挙げたものの、1954年同様に引き分け1つの差の2位に終わっている。投手陣はこの年のリーグ規定投球回数230イニングに達した投手が1人も出ず、過去2年で50勝の宅和本司が6勝、前年23勝の中村大成が5勝に終わるなど、絶対的と呼べるエースがいなかったとされ、また打撃陣も飯田・木塚・蔭山らに陰りが見え、新旧過渡期と言える1年となった。 1957年 高橋ユニオンズが大映スターズに吸収合併され、7球団制になる。この年も西鉄との首位争いとなったが、途中7月から8月にかけて西鉄が14連勝で抜け出す。14連勝のうち7勝を献上した南海は西鉄に7勝15敗と大きく負け越し、これが響いて西鉄に7ゲーム差をつけられて2位に終わる。オフには「立教三羽烏」のうち、長嶋茂雄と杉浦忠を獲得しようとするが、当時杉浦より入団が確実とされた長嶋が巨人入りし、杉浦のみの入団に終わる。また、チームの若返りをはかるため、飯田を国鉄、木塚を近鉄に金銭トレードで放出している。 1958年 毎日オリオンズが大映ユニオンズを吸収合併。この年以降、パ・リーグは6球団制となる。杉浦が開幕戦で勝利投手になるなど、チームは4月を12勝3敗とし、序盤から独走状態となり、オールスター前に杉浦が20勝(3敗)を挙げ、2位の西鉄に11ゲーム差をつけていた。しかし後半戦になると杉浦が調子を落とし、8月には西鉄戦で3敗するなど7勝9敗に終わる。西鉄は稲尾和久がチーム36勝のうち31勝に関与するなど活躍を見せて南海を追い上げ、8月16日に4ゲーム差、9月末最後の首位攻防戦2連戦直前の時点では6厘差としていた。その首位攻防戦の9月27日の試合は杉浦が先発、途中からリリーフで登板の稲尾との投げ合いで10回引き分けとしたものの、翌日には杉浦が連投で先発したものの1回で降板するなど2対7で敗戦し、首位を西鉄に明け渡す。10月1日に西鉄が優勝し、3年続けて、序盤首位に立った南海を逆転した西鉄の優勝という形となった。 1959年 この年は大毎との優勝争いとなり、10月4日の後楽園での直接対決に勝ち、4年ぶり7度目のリーグ優勝を決める。月間成績でも優勝が決まった10月を除いてすべて勝ち越し、10敗以上はしない安定した成績で、4月28日に立って以降は8月に10連勝の大毎に首位を奪われた以外はすべて、首位だった。38勝を挙げた杉浦忠をはじめ10勝以上投手が4人出ており、杉浦は最多勝・最優秀防御率・最高勝率の投手三冠王を獲得し、最優秀選手に選ばれている。打者では杉山光平が首位打者を獲得。日本シリーズでは、4回の対戦でいずれも敗退した巨人と5度目の対戦となり、杉浦が第2戦以外の3試合で先発、第2戦でもリリーフで登板するなど4連投し、シリーズ史上・球団史上初となるストレート4連勝で1リーグ時代から約11年ぶり3度目、2リーグ制になってから初の日本一達成となった。大阪市内の御堂筋で大阪球場前からスタートしたパレードは20万人(警察発表)のファンで埋め尽くされた。 1960年 開幕戦では前年より無失点を続けていた杉浦が56イニングぶりに失点するなど、阪急に4対5で敗れ、14年ぶりに開幕戦で敗れる。前年に続き大毎との優勝争いとなるが、8月に9連敗したのが大きく響き、首位の大毎に4ゲーム 差の2位に終わる。 1961年 それまで下位争いを続けていた東映フライヤーズが水原茂を監督に迎えて躍進、南海と首位争いとなる。10月11日からの南海対東映5連戦で3勝した方が優勝という状況で、10月15日の駒沢での試合で南海が勝ち、3連勝で2年ぶり8度目のリーグ優勝を決める。巨人との日本シリーズでは南海の2勝1敗で迎えた第4戦、南海が1点リードでの9回裏二死で、ジョー・スタンカが2ストライクとした後の投球へのボールの判定に南海側が猛抗議したものの判定が覆らず、この後サヨナラ負けしたことがこのシリーズの明暗を分け、巨人に2勝4敗で敗れる。野村克也がこの年からパ・リーグ記録となる8年連続本塁打王を、広瀬叔功もこの年から5年連続で盗塁王を獲得する。 1962年 開幕戦を連勝スタートしたものの直後に6連敗、2連勝を挟む形で8連敗、5連敗と敗戦を重ねて6勝19敗で、首位とは10.5ゲーム差となり、5月24日の対阪急戦後に監督の鶴岡が一時休養している。その後6月末から7月にかけて11連勝するなどもあり、鶴岡が8月に復帰した直後の8月9日に勝率を5割に戻す。9月19日には首位東映と4.5ゲーム差まで詰め寄るが、20日からの直接対決で負けたことで追いつけず、東映とは5ゲーム差の2位に終わる。 1963年 夏場まで首位独走、5月5日の時点で2位の東映に8ゲーム差をつけていたが、オールスター直前に6連敗するなど成績が下降。前半戦4位の西鉄が9月を19勝9敗、10月も8連勝するなど追い上げ、南海が10月17日にリーグ全日程を終了した時点で、西鉄が残り4試合を西鉄が2勝以下で南海優勝 という状況で西鉄が4連勝し、最大14ゲーム差を逆転され優勝を逃す。野村が右打者としての当時年間最多本塁打を樹立。 1964年 東京オリンピック開催の影響で、開幕が3月14日となり、3月を9勝7敗としたものの31日から5連敗で5位に転落。5月までに2位としたものの、直後に7連敗で5位に戻る。前半戦は前年より西本幸雄が監督に就任した阪急の独走状態だったが、オールスター前後から追い上げた南海が8月5日に首位に立つ。9月には7連敗で阪急に3毛差まで迫られるが、9月19日に阪急が東京に敗れたことで、2リーグ分立後最短 で4年ぶり9度目のリーグ優勝を決める。阪神との初の関西地区同士のチームの対決となった日本シリーズは阪神に先に王手を掛けられるが、第6戦・第7戦をジョー・スタンカの2試合連続完封で制し、4勝3敗で1リーグ時代から数えて4度目の日本一を達成。この年は首位打者と盗塁王を広瀬叔功、本塁打王と打点王を野村克也が獲得するなど主な打撃部門のタイトルを南海が独占した。なお、大阪の球団の日本一はこの年の南海を最後に実現していない。 1965年 開幕から本拠地の大阪球場で19連勝するなど、序盤より連勝を重ね、2連敗を一度した以外は連敗がないまま、7月7日の時点で59試合で50勝9敗というペースで勝ち進み、17連勝も記録した。オールスター以降の勝率は5割を切ったものの、序盤からの独走もあり、2位に12ゲーム差をつけて9月26日に対東映戦ダブルヘッダー(大阪)に連勝し、2年連続10度目のリーグ優勝を決める。 日本シリーズではこの年からV9時代に入る巨人に1勝4敗で敗れる。鶴岡が監督を辞任するが、後任の蔭山和夫が就任4日後に急死したため、鶴岡が監督に復帰している(詳細は南海蔭山新監督急死騒動を参照)。野村が2リーグ制以降初の打撃部門三冠王を達成する。 1966年 5月まで26勝12敗で、6月は負け越したものの、以降はすべての月で勝ち越す。西鉄・東映との首位争いとなり、一時5.5ゲーム差をつけていたものの西鉄に追い上げられ、南海が全日程を終了後、4試合4連勝が優勝の条件だった2位の西鉄が10月9日に敗れたことで、南海の3年連続リーグ優勝が決まる。日本シリーズでは2年連続で巨人と対戦するが、第1戦と第3戦を城之内邦雄に抑えられて敗戦。第4戦では延長14回にケント・ハドリが城之内からサヨナラ本塁打で勝利するが、第6戦にシーズン4勝の益田昭雄に5安打完封負けで、2勝4敗でシリーズ敗退。 1967年 序盤から5位以下に低迷。6月に初めて月間を勝ち越し、7月4日から5連勝で勝率5割で3位に浮上するものの、直後に5連敗。8月以降は5割を保ったものの、最終的に首位の阪急と11ゲーム、3位の東映とは1ゲーム差の4位となり、1944年以来23年ぶり、2リーグ制となってからは初のBクラスに終わる。対西鉄戦では1点差試合で4勝11敗と弱かった影響で9勝17敗、対阪急戦も梶本隆夫に8敗したこともあり9勝17敗と負け越したことが大きく響いた。本塁打がリーグ2位という以外は広瀬叔功が故障欠場したこともあり、投打のバランスが取れずに打率、防御率は近年で最低の数字となった。 1968年 序盤は近鉄が首位だったものの、前半戦終了までに脱落。後半戦は阪急と南海のマッチレースとなり、10月8日の時点で阪急とゲーム差無しで並んでいた。7連勝で迎えた10月11日の最終戦の対近鉄戦(日生)において4対6で敗れ、阪急が勝利したことで、阪急と1ゲーム差の2位に終わる。オフに鶴岡が監督退任、後任は飯田徳治。
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