パ・リーグ加入後とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > パ・リーグ加入後の意味・解説 

パ・リーグ加入後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 09:28 UTC 版)

福岡ソフトバンクホークス」の記事における「パ・リーグ加入後」の解説

1950年 新本拠地として大阪市内中心部難波大阪球場完成し自前球場確保する5月11日に2厘差で首位に立つものの1日首位陥落しそれ以外開幕からすべて毎日オリオンズ首位となった8月に6連敗するなど10ゲーム差となり、最終的に毎日15ゲーム差がつき、7球団中2位に終わる。 1951年 シーズン終了後日米野球が行われるため、シーズン途中打ち切りとなり、21試合残し9月23日2位西鉄に18.5ゲーム差をつけてパ・リーグ加盟後初優勝となる。一塁飯田徳治二塁鶴岡一人三塁蔭山和夫遊撃木塚忠助による「100万ドル内野陣」と呼ばれた内野陣で他球団圧倒長打力欠けたものの得点リーグ最多失点リーグ最少初め出場した日本シリーズでは巨人対戦するが、シリーズ通してその内野陣が5盗塁で終わるなど得意の機動力発揮できずに、初戦からの3連敗もあり1勝4敗で敗れる。 1952年 この年は7球団108試合まで戦い以降それまでの上位4球団による4回戦となった6月までは毎日独走していたが、6月以降南海が5連勝以上を4度記録するなど 108試合消化した時点では2位以下を圧倒していたが、上位4球団による争いとなってからは不振に陥り、毎日優勝争いとなる。最終戦の対大映大阪)に勝利したことで、2位毎日と1ゲーム差リーグ2連覇決める。日本シリーズでは前年続き巨人対戦するが、2勝4敗で敗れる。 1953年 前年16勝の服部武夫11勝の江藤正1つ勝てず、柚木16勝は挙げた故障で2か月離脱するなど、前年までの投手陣壊滅状態となるが、2年目大神武俊19勝、井上慎一14勝で投手陣となる。首位28入れ替わる混戦だったが、南海残り1試合とした10月6日2位大映負けたことで、リーグ3連覇決める。日本シリーズでは3年連続巨人対戦するが、2勝4敗1分け敗れる。 1954年 高橋ユニオンズ加盟により、8球団制になる。西鉄ライオンズプロ野球新記録開幕11連勝飛び出すが、8月から9月にかけて南海日本プロ野球記録18連勝、1敗を挟んで8連勝追い上げ終盤まで西鉄優勝争いとなる。西鉄90勝を上回る91勝を挙げるものの、引き分けの差で西鉄0.5ゲーム差2位に終わる。 1955年 この年南海開幕10連勝飛び出すが、この年西鉄との25度にわたって首位入れ替わる激し首位争いとなる。2度3位となったが、阪急1010敗とした以外は他の6球団勝ち越し、8連勝1度、7連勝2度、6連勝1度するなど8月24日以降首位渡さないまま、10月6日に対西鉄戦(平和台)に勝利して2位西鉄とは9ゲーム差をつけ2年ぶり5度目リーグ優勝決める。99勝は日本プロ野球史上最多記録4度目日本シリーズ巨人4度目対戦となるが、3勝4敗で敗退。「ナンカイ何回戦って巨人勝てないナンカイ南海)」と揶揄された。二軍チーム同年創設ウエスタン・リーグ参加機動力野球では巨人対抗できない考えた鶴岡は、チーム構想長打力重視の「400フィート打線」へと転換したが、なかなか軌道に乗らなかった。 1956年 2月球団初の日本国外遠征となるハワイ遠征を行う。序盤4月15日首位に立つと途中6月半ば一時陥落したものの、6月末に返り咲く首位譲らないまま、9月上旬時点では2位西鉄に7ゲームをつけていた。しかし9月22日からの平和台での直接対決4連戦に3敗1分け勝てず、同月30日には西鉄首位明け渡し翌日南海再度返り咲くなど激し首位争いとなるが、この後南海が対大映4連戦に2勝2敗とし、西鉄が5勝1敗と勝ち越し10月6日西鉄優勝決定南海全球団から勝ち越し、かつ西鉄同数96勝を挙げたものの、1954年同様に引き分け1つの差の2位終わっている。投手陣この年リーグ規定投球回数230イニング達した投手1人出ず過去2年50勝の宅和本司が6勝、前年23勝の中村大成が5勝に終わるなど、絶対的呼べエースがいなかったとされ、また打撃陣も飯田木塚・蔭山らに陰り見え新旧過渡期と言える1年となった1957年 高橋ユニオンズ大映スターズ吸収合併され、7球団制になる。この年西鉄との首位争いとなったが、途中7月から8月にかけて西鉄14連勝抜け出す14連勝のうち7勝を献上した南海西鉄に7勝15敗と大きく負け越し、これが響いて西鉄に7ゲーム差つけられ2位に終わる。オフには「立教三羽烏」のうち、長嶋茂雄杉浦忠獲得しようとするが、当時杉浦より入団が確実とされた長嶋巨人入りし、杉浦のみの入団に終わる。また、チーム若返りをはかるため、飯田国鉄木塚近鉄金銭トレード放出している。 1958年 毎日オリオンズ大映ユニオンズ吸収合併この年以降パ・リーグは6球団制となる。杉浦開幕戦勝利投手になるなど、チーム4月12勝3敗とし、序盤から独走態となり、オールスター前に杉浦20勝(3敗)を挙げ2位西鉄11ゲーム差をつけていた。しかし後半戦になると杉浦調子落とし8月には西鉄戦で3敗するなど7勝9敗に終わる。西鉄稲尾和久チーム36勝のうち31勝に関与するなど活躍見せて南海追い上げ8月16日に4ゲーム差9月最後首位攻防戦2連戦直前時点では6厘差としていた。その首位攻防戦9月27日試合杉浦先発途中からリリーフ登板稲尾との投げ合い10引き分けしたものの、翌日には杉浦連投先発したものの1回降板するなど2対7敗戦し、首位西鉄明け渡す10月1日西鉄優勝し3年続けて序盤首位立った南海逆転した西鉄優勝という形となった1959年 この年大毎との優勝争いとなり、10月4日後楽園での直接対決に勝ち、4年ぶり7度目のリーグ優勝決める。月間成績でも優勝決まった10月除いてすべて勝ち越し10敗以上はしない安定した成績で、4月28日立って以降8月10連勝大毎首位奪われた以外はすべて、首位だった。38勝を挙げた杉浦忠をはじめ10勝以上投手が4人出ており、杉浦最多勝最優秀防御率最高勝率投手三冠王を獲得し最優秀選手選ばれている。打者では杉山光平首位打者獲得日本シリーズでは、4回の対戦いずれも敗退した巨人5度目対戦となり、杉浦が第2戦以外の3試合先発、第2戦でもリリーフ登板するなど4連投しシリーズ史上球団史上初となるストレート4連勝1リーグ時代から約11年ぶり3度目2リーグ制になってから初の日本一達成となった大阪市内御堂筋大阪球場前からスタートしたパレード20万人警察発表)のファン埋め尽くされた。 1960年 開幕戦では前年より無失点続けていた杉浦56イニングぶりに失点するなど、阪急に4対5で敗れ14年ぶりに開幕戦敗れる。前年続き大毎との優勝争いとなるが、8月に9連敗したのが大きく響き首位大毎に4ゲーム 差2位に終わる。 1961年 それまで下位争い続けていた東映フライヤーズ水原茂監督迎えて躍進南海首位争いとなる。10月11日からの南海東映5連戦で3勝した方が優勝という状況で、10月15日駒沢での試合南海が勝ち、3連勝2年ぶり8度目のリーグ優勝決める。巨人との日本シリーズでは南海の2勝1敗で迎えた第4戦、南海1点リードでの9回裏二死で、ジョー・スタンカが2ストライクとした後の投球へのボール判定南海側が猛抗議したものの判定が覆らず、この後サヨナラ負けしたことがこのシリーズ明暗を分け巨人に2勝4敗で敗れる。野村克也この年からパ・リーグ記録となる8年連続本塁打王を、広瀬叔功この年から5年連続盗塁王獲得する1962年 開幕戦連勝スタートしたものの直後に6連敗、2連勝を挟む形で8連敗、5連敗敗戦重ねて6勝19敗で、首位とは10.5ゲーム差となり、5月24日の対阪急戦後監督鶴岡一時休養している。その後6月末から7月にかけて11連勝するなどもあり、鶴岡8月復帰した直後8月9日勝率を5割に戻す。9月19日には首位東映4.5ゲーム差まで詰め寄るが、20日からの直接対決負けたことで追いつけず、東映とは5ゲーム差2位に終わる。 1963年 夏場まで首位独走5月5日時点2位東映に8ゲーム差をつけていたが、オールスター直前に6連敗するなど成績下降前半戦4位の西鉄9月19勝9敗、10月も8連勝するなど追い上げ南海10月17日リーグ全日程を終了した時点で、西鉄残り4試合西鉄が2勝以下で南海優勝 という状況西鉄が4連勝し最大14ゲーム差逆転され優勝逃す野村が右打者として当時年間最多本塁打樹立1964年 東京オリンピック開催の影響で、開幕3月14日となり、3月を9勝7敗としたもの31日から5連敗で5位に転落5月までに2位したものの、直後に7連敗で5位に戻る。前半戦前年より西本幸雄監督就任した阪急独走状態だったが、オールスター前後から追い上げた南海8月5日首位に立つ。9月には7連敗阪急に3毛差まで迫られるが、9月19日阪急東京敗れたことで、2リーグ分立最短4年ぶり9度目のリーグ優勝決める。阪神との初の関西地区同士チーム対決となった日本シリーズ阪神先に王手掛けられるが、第6戦・第7戦をジョー・スタンカの2試合連続完封制し、4勝3敗で1リーグ時代から数えて4度目日本一達成この年首位打者盗塁王広瀬叔功本塁打王打点王野村克也獲得するなど主な打撃部門タイトル南海独占した。なお、大阪球団日本一この年南海最後に実現していない。 1965年 開幕から本拠地大阪球場19連勝するなど、序盤より連勝重ね2連敗一度した以外は連敗がないまま、7月7日時点59試合50勝9敗というペース勝ち進み17連勝記録したオールスター以降勝率は5割を切ったものの、序盤からの独走もあり、2位12ゲーム差をつけて9月26日に対東映ダブルヘッダー大阪)に連勝し2年連続10度目のリーグ優勝決める。 日本シリーズではこの年からV9時代に入る巨人に1勝4敗で敗れる。鶴岡監督辞任するが、後任蔭山和夫就任4日後に急死したため、鶴岡監督復帰している(詳細南海蔭山新監督急死騒動参照)。野村2リーグ制以降初の打撃部門三冠王達成する1966年 5月まで2612敗で、6月負け越したものの、以降すべての月で勝ち越す西鉄東映との首位争いとなり、一時5.5ゲーム差をつけていたもの西鉄追い上げられ、南海全日程を終了後、4試合4連勝優勝条件だった2位西鉄10月9日敗れたことで、南海3年連続リーグ優勝が決まる。日本シリーズでは2年連続巨人対戦するが、第1戦と第3戦を城之内邦雄抑えられ敗戦。第4戦では延長14回にケント・ハドリ城之内からサヨナラ本塁打勝利するが、第6戦にシーズン4勝の益田昭雄に5安打完封負けで、2勝4敗でシリーズ敗退1967年 序盤から5位以下に低迷6月初め月間勝ち越し7月4日から5連勝勝率5割で3位浮上するものの、直後に5連敗8月以降は5割を保ったものの、最終的に首位阪急11ゲーム3位東映とは1ゲーム差の4位となり、1944年以来23年ぶり、2リーグ制となってからは初のBクラスに終わる。対西鉄戦では1点試合で4勝11敗と弱かった影響で9勝17敗、対阪急戦も梶本隆夫に8敗したこともあり9勝17敗と負け越したことが大きく響いた本塁打リーグ2位という以外は広瀬叔功故障欠場したこともあり、投打バランス取れず打率防御率近年で最低の数字となった1968年 序盤近鉄首位だったものの、前半戦終了まで脱落後半戦阪急南海マッチレースとなり、10月8日時点阪急ゲーム差無し並んでいた。7連勝迎えた10月11日最終戦の対近鉄戦(日生)において4対6で敗れ阪急勝利したことで、阪急と1ゲーム差2位に終わる。オフ鶴岡監督退任後任飯田徳治

※この「パ・リーグ加入後」の解説は、「福岡ソフトバンクホークス」の解説の一部です。
「パ・リーグ加入後」を含む「福岡ソフトバンクホークス」の記事については、「福岡ソフトバンクホークス」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「パ・リーグ加入後」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

パ・リーグ加入後のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



パ・リーグ加入後のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの福岡ソフトバンクホークス (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS