タレントパーソナリティ/2部制導入(1972年 - 1985年)
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「オールナイトニッポン」の記事における「タレントパーソナリティ/2部制導入(1972年 - 1985年)」の解説
深夜放送ブームは1970年代に入っても続いていたが、若者層の嗜好の変化や時代の変化(学生運動世代からシラケ世代への移行など)にあわせ、ニッポン放送も新たな放送スタイルを追求し始めることになる。そのため、1972年6月末をもって、亀淵昭信、今仁哲夫、糸居五郎を除くパーソナリティが降板する。 1972年7月からの1年間は亀渕昭信が『ビバカメショー』と称して、毎日25:00 - 27:00を担当した(9月までは月曜日担当の糸居五郎が継続していたため、月曜を除く毎日25:00 - 27:00。10月から月曜を含む毎日25:00 - 27:00となった)。次いで毎日27:00 - 29:00までは最初は今仁哲夫が担当した『ビバテツショー』が、1973年1月からは池田健[要曖昧さ回避]が担当する『ビバケンショー』が放送された。この時に初めて27時で番組を分割する2部制の概念が生まれる。 この時代はオールナイトニッポンにとっての最初の停滞期となっており、亀渕は「僕一人で週6日番組を担当するのはとてもつらかった。番組は“敗戦処理”みたいな感じで始まったと思います。『オールナイトニッポン』だけじゃなくて、深夜放送全体が駄目になってきていたのね。露出過多っていうか、“晴れの舞台”に出てきてしまった。それじゃ深夜放送になってないんだよね。もう一度変えなきゃいけないと、作り手もしゃべり手も思ってはいたんだが、一度出来上がったものはなかなか変えにくい。ネット局も増えて全員がニッポン放送のアナウンサーというわけにもいかなくなって。でも局アナが基本でしたから、じゃあお前がやれって。形を変えるまでの踊り場みたいな感じかな。それまでは音楽担当の糸居さん、今仁さんみたいな面白いことをやる人の中間みたいな放送をやってたんだけど、『ビバカメショー』になってからはもっと音楽に徹しました。サイモン&ガーファンクルの詞を訳して特集したり、ビートルズの海賊版を流したり、僕自身は楽しかった。テーマの『ビタースイートサンバ』も代えたんだよ。デニス・コフィーというモータウンのファンクギタリストがいて、頼んで作ってもらったり(#テーマ曲参照)。残念ながらレーティング(聴取率)はあんまりよくなかった。でもそれで“よし”としました。とにかく次に大きくジャンプするためには一度縮こまって昔のイメージを壊し、まっさらにするのが僕のやること。今度は制作者としてまったく新しい『オールナイトニッポン』を作ろうと思ったんです」と、当時の苦悩を語っている。 一方で1973年にディレクターになった中川も「転機といえば『ビバカメショー』『ビバテツショー』が始まった段階でステーションのアナウンサーがすっかりやめてしまったときでしょうね」と、転機だったことを明かす。さらに「その後にタレントが入るようになるわけで、番組自体が大きくなって、もっとビックな人でも入ってもらえるようなフィールドができたんです」と1973年のタレントパーソナリティ起用の本音を明かす。 こうして、1973年から亀渕昭信は、それまでのパーソナリティから総合プロデューサー兼ディレクターに転身して、オールナイトニッポンの制作に取り組むことになる。そして、1973年7月からはタレントや芸人・歌手が従来通り4時間にわたってパーソナリティを担当するという決定的な転機を迎える。このタレントパーソナリティ第1期の布陣は小林克也(月曜日)、泉谷しげる(火曜日)、あのねのね(水曜日)、覆面パーソナリティであるカルメン(金曜日)、岸部シロー(土曜日)である(木曜日は斉藤安弘が一旦復活した。また、カルメンはオールナイト史上初の女性パーソナリティである)。いわば、第二次『オールナイトニッポン』の始まりでもあり、現在のオールナイトニッポンの原型が完成した。 しかし、岸部シローがわずか3か月で降板したのをはじめ、あのねのねを除く各パーソナリティは翌1974年夏までに全て降板し、その後約3年間はパーソナリティが根付かずに短期間で入れ替わる不安定な時代が続く。その原因として、体力的にも話力的にも4時間のロングラン放送に耐えられないという点があった事から、1974年7月からは27時を境にパーソナリティを入れ換える2部制が本格的に導入される。 2部制の導入でパーソナリティの数が足りなくなったことから、1970年代半ばにはタレントや歌手だけでなく一般オーディションの形(オールナイトニッポン主催・「全国DJコンテスト」)でも無名の新人発掘に力を注いでいる。また、番組をネットしていた地方ローカル局のアナウンサーなどにも一時期番組を持たせたこともあった(『飛び出せ!全国DJ諸君』グランプリの柏村武昭など)。一方、タレントパーソナリティ選考に当たっては基本的に番組スタッフが前もってオーディションをした上で採用の合否を決定していったのだが、あくまでラジオ番組をやっていけるだけの話力や実力があるのなら職種や音楽知識の有無に囚われることなくパーソナリティに採用するようになったため、野坂昭如や稲川淳二など本来の『オールナイトニッポン』の流れとは明らかに外れた異色のパーソナリティも登場している。この時点で番組当初のコンセプト(ニッポン放送アナウンサー及び関係者による音楽主体の若者向け4時間枠深夜番組)は失われた が、それでも「若者向け」というコンセプトと、主に歌手が番組を持ったことで「音楽番組」としての体裁はかろうじて保たれた格好となっている。 一方、一旦降板していたDJ・糸居五郎は1975年に金曜2部、さらに水曜を経て1977年10月に古巣である月曜(2部)で復活しており、音楽主体からトーク主体に変わった『オールナイトニッポン』において、唯一開始当初の雰囲気とスピリッツを醸し出していた。糸居五郎の月曜2部は糸居が1981年に定年退職するまで続いた。 迷走状態が続いていた1970年代中盤から1980年にかけて最初に頭角を現したのがあのねのねや笑福亭鶴光、タモリ、所ジョージ、つボイノリオなどの色物系・コミックソング歌手の担当番組であった。 特に笑福亭鶴光は全て大阪弁で番組を通すという特異性から当初は抗議のはがきが多数寄せられたが、「ミッドナイトストーリー」などのネタコーナー、下ネタを含めた話術の高さもあいまり次第に人気を集め、全盛期には番組に送られてくるはがきは毎週6万枚、ラジオ聴取占有率80%〜90%という看板パーソナリティに成長、他の曜日が2部制になった後も鶴光担当の土曜日は4時間の放送を継続した(一時期金曜も4時間放送にするが、1年半で元の2部制になる)。当時大人気のあのねのねは番組中、原田伸郎が当時せんだみつおが担当していた『セイ!ヤング』の生放送中に文化放送のスタジオに電話をかけ、清水國明も『セイ!ヤング』の生放送中のスタジオに乗り込み電話を通して「あのねのねのオールナイトニッポン」と番組宣伝、番組ジャックを敢行しファンの人気をさらに広めた。番組後半に一般のファンにスタジオを公開して「七不思議のコーナー」などいろんな企画を進行していく「あのねのね・ハッピースタジオ」も人気を博した。タモリは鶴光が同じ話題として取り上げる「なんちゃっておじさん論争」や「NHKつぎはぎニュース」などタモリのアングラなキャラクターを発揮した番組内容で話題となる。 さらに当時全盛であったフォークソングやニューミュージック系シンガーの番組に火がつき、武田鉄矢・南こうせつ・イルカ・山田パンダ・加藤和彦・自切俳人〔ジキルハイド〕(北山修)・桑田佳祐・長渕剛・松山千春・吉田拓郎などそうそうたる顔ぶれが入れ替わりながらパーソナリティを務めていった。これに加え、従来からの流れであるくり万太郎や上柳昌彦などのLFアナウンサーも番組を支え続けた。そして、中島みゆき(1979年- 月曜1部)やビートたけし(1981年- 木曜1部)が登場した1980年代初頭には第2期の黄金時代を迎えることになる。 また1977年以降には『HOUSE ハウス』『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』『1000年女王』などの映画劇場公開にあわせて、ラジオドラマと出演者やスタッフのトークによる4時間のスペシャルが放送された。のちに文化放送が注力するようになる、アニラジのはしりと言える。 現在のオールナイトニッポンの柱となっている「トーク主体」「コーナー主体」「ネタはがき主体」の番組構成は、この時代に確立したシステムであり、ハガキ職人が幅を利かせるようになったのもこの頃である。このようにオールナイトニッポンが番組内容やDJを大きく変えたことで番組全体に見切りをつけた聴取者もかなり多かったが、逆にそれまでとは違う「パーソナリティそのものの魅力」に惹かれた新規のリスナーを大量に獲得することになり、結果として番組名と放送時間帯、テーマソングだけはそのままに、番組を「作る人」も「聴く人」も、番組の「コンセプト」でさえも時代とともに移り変わっていくという流動的なスタイルが形成されていくことになる。 このスタイルゆえに時代の変化に対応できなかった『パックインミュージック』『セイ!ヤング』のオリジナル放送が1980年代初めに打ち切られる中で『オールナイトニッポン』だけが時代の波にうまく乗りながら、深夜放送の代名詞として唯一生き残り続ける。1973年に第1期黄金期の人気パーソナリティから番組製作・編成部門に戻り、裏方として新時代の『オールナイトニッポン』を模索し続けた亀渕昭信の努力が実を結んだ格好となった。その亀淵は、「僕が番組のチーフプロデューサー時代に、タレント起用が始まった。でも、社員アナウンサー時代の成功と失敗があればこそ、さまざまなことを学ぶことができた」と述べている。
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