タレントパーソナリティ/2部制導入とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > タレントパーソナリティ/2部制導入の意味・解説 

タレントパーソナリティ/2部制導入(1972年 - 1985年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 21:54 UTC 版)

オールナイトニッポン」の記事における「タレントパーソナリティ/2部制導入(1972年 - 1985年)」の解説

深夜放送ブーム1970年代入って続いていたが、若者層嗜好変化時代の変化学生運動世代からシラケ世代への移行など)にあわせ、ニッポン放送新たな放送スタイル追求し始めることになる。そのため、1972年6月をもって亀淵昭信今仁哲夫糸居五郎を除くパーソナリティ降板する1972年7月からの1年間亀渕昭信が『ビバカメショー』と称して毎日25:00 - 27:00担当した9月までは月曜日担当糸居五郎継続していたため、月曜を除く毎日25:00 - 27:0010月から月曜を含む毎日25:00 - 27:00となった)。次いで毎日27:00 - 29:00までは最初今仁哲夫担当した『ビバテツショー』が、1973年1月からは池田健[要曖昧さ回避]が担当する『ビバケンショー』が放送された。この時に初め27時で番組分割する2部制の概念生まれる。 この時代オールナイトニッポンにとっての最初停滞期となっており、亀渕は「僕一人で週6日番組担当するのはとてもつらかった。番組は“敗戦処理”みたいな感じ始まった思います。『オールナイトニッポン』だけじゃなくて深夜放送全体が駄目になってきていたのね。露出過多ていうか、“晴れの舞台”に出てきてしまった。それじゃ深夜放送になってないんだよね。もう一度変えなきゃいけないと、作り手しゃべり手思ってはいたんだが、一度出来上がったものはなかなか変えにくい。ネット局増えて全員ニッポン放送アナウンサーというわけにもいかなくなって。でも局アナ基本でしたから、じゃあお前がやれって。形を変えるまでの踊り場みたいな感じかな。それまで音楽担当の糸居さん、今仁さんみたいな面白いことをやる人の中間みたいな放送をやってたんだけど、『ビバカメショー』になってからはもっと音楽徹しましたサイモン&ガーファンクルの詞を訳して特集したり、ビートルズの海賊版流したり、僕自身楽しかったテーマの『ビタースイートサンバ』も代えたんだよ。デニス・コフィーというモータウンのファンクギタリストがいて、頼んで作ってもらったり(#テーマ曲参照)。残念ながらレーティング聴取率)はあんまりよくなかった。でもそれで“よし”としました。とにかく次に大きくジャンプするためには一度縮こまって昔のイメージ壊しまっさらにするのが僕のやること今度制作者としてまったく新しい『オールナイトニッポン』を作ろう思ったんです」と、当時苦悩語っている。 一方で1973年ディレクターになった中川も「転機といえば『ビバカメショー』『ビバテツショー』が始まった段階ステーションアナウンサーがすっかりやめてしまったときでしょうね」と、転機だったことを明かす。さらに「その後タレントが入るようになるわけで、番組自体大きくなって、もっとビックな人でも入ってもらえるようなフィールドができたんです」と1973年のタレントパーソナリティ起用本音明かす。 こうして、1973年から亀渕昭信は、それまでパーソナリティから総合プロデューサーディレクター転身して、オールナイトニッポン制作取り組むことになる。そして、1973年7月からはタレント芸人歌手従来通り4時間にわたってパーソナリティ担当するという決定的な転機迎える。このタレントパーソナリティ第1期布陣小林克也月曜日)、泉谷しげる火曜日)、あのねのね水曜日)、覆面パーソナリティであるカルメン金曜日)、岸部シロー土曜日)である(木曜日斉藤安弘が一旦復活したまた、カルメンオールナイト史上初の女性パーソナリティである)。いわば、第二次オールナイトニッポン』の始まりでもあり、現在のオールナイトニッポン原型完成した。 しかし、岸部シローがわずか3か月降板したのをはじめ、あのねのねを除く各パーソナリティは翌1974年夏までに全て降板し、その後3年間はパーソナリティ根付かずに短期間入れ替わる不安定な時代が続く。その原因として、体力的にも話力的にも4時間のロングラン放送に耐えられないという点があった事から、1974年7月からは27時を境にパーソナリティ入れ換える2部制が本格的に導入される2部制の導入パーソナリティの数が足りなくなったことから、1970年代半ばにはタレント歌手だけでなく一般オーディションの形(オールナイトニッポン主催・「全国DJコンテスト」)でも無名の新人発掘に力を注いでいる。また、番組ネットしていた地方ローカル局アナウンサーなどにも一時期番組持たせたこともあった(『飛び出せ!全国DJ諸君グランプリ柏村武昭など)。一方、タレントパーソナリティ選考当たって基本的に番組スタッフ前もってオーディションをした上で採用合否決定していったのだが、あくまでラジオ番組やっていけるだけの話力や実力があるのなら職種音楽知識有無囚われることなくパーソナリティ採用するようになったため、野坂昭如稲川淳二など本来の『オールナイトニッポン』の流れとは明らかに外れた異色パーソナリティ登場している。この時点番組当初コンセプトニッポン放送アナウンサー及び関係者による音楽主体若者向け4時深夜番組)は失われた が、それでも「若者向け」というコンセプトと、主に歌手番組持ったことで「音楽番組としての体裁はかろうじて保たれ格好となっている。 一方、一旦降板していたDJ糸居五郎1975年金曜2部、さらに水曜経て1977年10月古巣である月曜2部)で復活しており、音楽主体からトーク主体変わったオールナイトニッポン』において、唯一開始当初雰囲気スピリッツ醸し出していた。糸居五郎月曜2部は糸居が1981年定年退職するまで続いた迷走状態が続いていた1970年代中盤から1980年にかけて最初に頭角現したのがあのねのね笑福亭鶴光タモリ所ジョージつボイノリオなどの色物系・コミックソング歌手担当番組であった。 特に笑福亭鶴光全て大阪弁番組を通すという特異性から当初抗議のはがきが多数寄せられたが、「ミッドナイトストーリー」などのネタコーナー下ネタ含めた話術の高さもあいまり次第人気集め全盛期には番組送られてくるはがきは毎週6万枚ラジオ聴取占有率80%〜90%という看板パーソナリティ成長、他の曜日2部になった後も鶴光担当土曜日4時間の放送継続した一時期金曜4時放送にするが、1年半で元の2部制になる)。当時大人気あのねのね番組中、原田伸郎当時せんだみつお担当していた『セイ!ヤング』生放送中に文化放送スタジオ電話をかけ、清水國明『セイ!ヤング』生放送中のスタジオ乗り込み電話通してあのねのねのオールナイトニッポン」と番組宣伝番組ジャック敢行ファン人気をさらに広めた番組後半一般ファンスタジオ公開して七不思議のコーナー」などいろんな企画進行していく「あのねのね・ハッピースタジオ」も人気博したタモリ鶴光が同じ話題として取り上げる「なんちゃっておじさん論争」や「NHKつぎはぎニュース」などタモリアングラキャラクター発揮した番組内容話題となる。 さらに当時全盛であったフォークソングニューミュージックシンガー番組に火がつき、武田鉄矢南こうせつイルカ山田パンダ加藤和彦自切俳人ジキルハイド〕(北山修)・桑田佳祐長渕剛松山千春吉田拓郎などそうそうたる顔ぶれ入れ替わりながらパーソナリティ務めていった。これに加え従来からの流れであるく万太郎上柳昌彦などのLFアナウンサー番組支え続けた。そして、中島みゆき1979年- 月曜1部)やビートたけし1981年- 木曜1部)が登場した1980年代初頭には第2期黄金時代迎えることになる。 また1977年以降には『HOUSE ハウス『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』1000年女王』などの映画劇場公開あわせてラジオドラマ出演者スタッフトークによる4時間のスペシャル放送された。のちに文化放送注力するようになるアニラジのはしりと言える現在のオールナイトニッポンとなっている「トーク主体」「コーナー主体」「ネタはがき主体」の番組構成は、この時代確立したシステムであり、ハガキ職人幅を利かせるようになったのもこの頃である。このようにオールナイトニッポン番組内容DJ大きく変えたことで番組全体見切りをつけた聴取者もかなり多かったが、逆にそれまでとは違う「パーソナリティそのもの魅力」に惹かれ新規リスナー大量に獲得することになり、結果として番組名と放送時間帯、テーマソングだけはそのままに、番組を「作る人」も「聴く人」も、番組の「コンセプト」でさえも時代とともに移り変わっていくという流動的なスタイル形成されていくことになる。 このスタイルゆえに時代の変化に対応できなかった『パックインミュージック『セイ!ヤング』オリジナル放送1980年代初めに打ち切られる中で『オールナイトニッポン』だけが時代の波にうまく乗りながら、深夜放送代名詞として唯一生き残り続ける。1973年第1期黄金期人気パーソナリティから番組製作編成部門に戻り裏方として新時代の『オールナイトニッポン』を模索し続けた亀渕昭信努力実を結んだ格好となった。その亀淵は、「僕が番組チーフプロデューサー時代に、タレント起用始まったでも、社員アナウンサー時代成功と失敗あればこそさまざまなことを学ぶことができた」と述べている。

※この「タレントパーソナリティ/2部制導入(1972年 - 1985年)」の解説は、「オールナイトニッポン」の解説の一部です。
「タレントパーソナリティ/2部制導入(1972年 - 1985年)」を含む「オールナイトニッポン」の記事については、「オールナイトニッポン」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「タレントパーソナリティ/2部制導入」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「タレントパーソナリティ/2部制導入」の関連用語

タレントパーソナリティ/2部制導入のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



タレントパーソナリティ/2部制導入のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのオールナイトニッポン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS