カロリング‐ルネサンス【(ドイツ)Karolingische Renaissance】
カロリング朝ルネサンス
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カロリング朝ルネサンスまたはカロリング・ルネサンス[1](英: Carolingian Renaissance, 仏: Renaissance carolingienne)とは、フランク王国(カロリング朝)のカール大帝(フランク王 768年 - 814年、西ローマ皇帝[* 1] 800年 - 814年)の頃(8世紀 - 9世紀)に見られる古典復興、文化の隆盛を指す言葉である。
注釈
- ^ 東ローマ皇帝との対比により西ローマ皇帝と表記されるものの、カールの帝位は797年に追放されたコンスタンティノス6世の後継者としての「ローマ帝国全土の皇帝」であって、ロムルス・アウグストゥルス以降に途絶えている西ローマ皇帝(西方正帝)を復活させたものではないことに注意を要する[2][3]。
出典
- ^ a b c d e f g h i 五十嵐修、2001年、p106-118
- ^ ジェームズ・ブライス 『神聖羅馬帝国』 国民図書、1924年
- ^ アンリ・ピレンヌ 『ヨーロッパ世界の誕生』 創文社、1960年
- ^ ジャック・ル・ゴフ「中世の知識人」
- ^ Lexikon des Mittelalters. Bd. VII. München: LexMA 1995 (ISBN 3-7608-8907-7), Sp. 718-720 (Beitrag zu „Renaissance, Karolingische“), besonders S. 718.
- ^ Cantor (1993), p. 189.
- ^ See Martin Robinson, Trivium 21st century. Each of these iterations was discussed in a conference at King's College London on the future of the liberal arts at schools and universities; see [1] and Boarding Schools Association,Oundle School - improving intellectual challenge.
- ^ Beckwith, John. Early Medieval Art: Carolingian, Ottonian, Romanesque, Thames & Hudson, 1964 (rev. 1969), ISBN 0-500-20019-X, p13-17
- 1 カロリング朝ルネサンスとは
- 2 カロリング朝ルネサンスの概要
- 3 自由七科(リベラルアーツ)の発展
- 4 脚注
カロリング・ルネサンス
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「フランク王国」の記事における「カロリング・ルネサンス」の解説
詳細は「カロリング朝ルネサンス」を参照 カロリング朝期、特にカール1世(大帝)の治世において、今日一般にカロリング・ルネサンスと呼ばれる古典古代の文芸復興の潮流があった。カール1世個人がどの程度教養を身につけていたかは、カール1世の伝記を残したアインハルト(エジナール)が書き残したことしか知られていない。それによればカール1世はラテン語を理解したが、文字は使えなかった。 カール1世はその活発な軍事活動によって3度ローマへと赴いた(774年、781年、786年)。このことはカロリング・ルネサンスの重要な基盤となった。即ち、イタリアとローマへの行軍を通じて、ファルドゥルフ(フランス語版)、アクィレーリアのパウリヌス(英語版)、そして何よりも当時パルマにいたアングロ・サクソン人助祭アルクィン(アルクィヌス)や文法学者・歴史学者であるパウルス・ディアコヌスといった知識人がフランクの宮廷に招聘された。アルクィンはこの後カール1世の文化政策を主導する中心人物となる。さらにヒスパニアからイスラームの支配を逃れてやってきたテオドルフ(英語版)や、アイルランド人ドゥンガル(英語版)らもフランク宮廷に到来した。 また、ローマ教皇から『ディオニュシオ=ハドリアーナ法令集(ドイツ語版)(Collectio canonum Dionysio-Hadriana)』と呼ばれる膨大なローマ教会法集が贈られ、これがフランク教会法の基盤となった。キリスト教帝国の王として、カール1世は人々が神の御心にかなって救いに到達するためには祈りの言葉を正しく唱える必要があると考え、ピピン3世時代にメッツ(メス)のクロデガングが始めていたローマを手本とする典礼の統一化を推進した。このため十分な能力を持った聖職者の養成が必要となり、教育の質的向上を図る訓令や法令が繰り返し発布された。カール1世の周囲には学者たちが集まってひとつの「宮廷」が形成され、アルクィンはこれを古代ギリシアのアカデメイアになぞらえた。アーヘンの宮廷には図書館が建設され、サッルスティウス、キケロ、クラウディアヌス(英語版)など、キリスト教以前のラテン語古典作品が並べられた。814年にカール1世が死んだ時点で実現していたことはごくわずかであったが、ルートヴィヒ1世(敬虔帝)はカール1世の文化政策を引き継いだ。 上記のような知識人たちの努力と政策的な支援の結果、9世紀には膨大な文筆活動が行われた。これを通じてカロリング・ルネサンスが文化史に残した特筆すべき遺産は「文法」と「文字」である。カロリング朝期の学者たちは文法的に正しいラテン語を追い求めた。「文法的に正しいラテン語」とは古代末期に明確化された古典ラテン語の文法規範にかなうラテン語を指し、特に帝政ローマ末期の文法学者ドナトゥスの文法書が広く拠り所とされた。学者たちはドナトゥスの文法書を基準にメロヴィング朝時代から伝わる写本の校訂を行い、「野卑な」「劣悪な」言葉を排除していった。アルクィンやテオドルフも同様の思考から、ラテン語訳聖書の修正を行い、聖人伝や教父の説教も同じく見直しがされた。これによって中世ラテン語の規範が確立され、学者たちの書き言葉とコミュニケーションの共通言語としてヨーロッパ中世を通じて使用されることになった。 文字において特筆すべきことはカロリング小文字体(カロリーナ小文字)の発明である。カロリング小文字では読みやすさを重視し、単語と単語の間に空白を置き、合字を避ける、などして筆写時の誤読を避けることが意図された。この文字は、神の言葉を正しく伝えるためには完璧で誤解の余地のないやり方で筆写されているべきであるという宗教的信念に応える技術的手段として存在した。このような信念は書籍の装飾にも反映されていき、書物の体裁とメッセージは一体であり、美麗な書体と装飾がメッセージの価値を高めるとされた。こうして規格化され、豪華に装飾され、時には金字で綴られた大型の福音書が作成されるようになった。 これらの結果、カロリング朝時代の何十年かの間に膨大な著作、筆写が行われ、現代でも当時の写本が8,000点あまり残っている。これは当時作成されたもののごく一部分にすぎないと考えられている。
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カロリング・ルネサンス
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「カール大帝」の記事における「カロリング・ルネサンス」の解説
詳細は「カロリング・ルネサンス」を参照 カロリング小文字体 内政においてカールは、アインハルト(エギンハルドゥス)やアングロ・サクソン人で宮廷付属学校の校長となったアルクィン(アルクィヌス)、スペインのテオドゥルフ(英語版)、イタリアからはピサのペトルスやパウルス・ディアコヌスなど内外から高名な学者や知識人、修道士を宮廷に招聘し、一般にカロリング朝ルネサンスと呼ばれるラテン語の教育に基づく文化運動を企図した。カールは教育を重視し、特に僧侶教育に力を入れ修道院学校や聖堂学校を建設するとともに、古典古代の学芸に属する書物の収集および書写を大規模に行った。カロリング小文字体が基準の書体として採用され、王国全体で使用されるようになった。「8世紀末から9世紀始めにかけて見られた古典の復興は、ローマの遺産の継承にとっても重大で決定的な段階をなしたものであるが、この背景には再興したローマ帝国があった。エルベ川エブロ川まで、そしてカレーからローマまで及んだこの帝国は、軍事的経済的才略に加えてローマ教会からの祝福をも獲得したひとりの皇帝の威厳ある人格のおかげで、一時的にだが政治的かつ宗教的な統一体へとまとめあげられた。カール大帝(768-814)の政治的手腕は彼の後継者たちにまで引き継がれなかったが、彼のおかげで促進された文化運動は9世紀においてもその勢いを保ち、10世紀まで続いた」(レイノルズ/ウィルソン)。
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カロリング・ルネサンス
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「カロリング朝」の記事における「カロリング・ルネサンス」の解説
カール大帝の宮廷は文化運動の中心となり、そこに集まる教養人の集団は「宮廷学校」と呼ばれた。この文化運動の担い手たちは、西ゴート人・ランゴバルド人・イングランド人などフランク王国外出身者が多かった。9世紀以降、文化運動の中心は修道院へと移り、書物製作や所蔵に大きな役割を担った。このような例としてはトゥールのサン・マルタン修道院などが有名である。このカロリング・ルネサンスは神政的な統治政策に対応した文化運動であり、正しい信仰生活の確立を目指すものであった。聖書理解の向上、典礼書使用の普及、教会暦の実行において正統信仰に基づくことが目指され、すでに地域差が著しくなっていた俗ラテン語から古典ラテン語へと教会用語の統一が図られた。これによりラテン語が中世西欧世界の共通語となる。一方で、典礼形式の確立と聖職者改革によって、カロリング・ルネサンスは文化の担い手を俗人から聖職者へと転回させ、俗人と聖職者の間の文化的隔たりを広げる結果ももたらした。 カロリング・ルネサンスの意義については、文献についての基本的な2つの要素、書記法と記憶媒体の変質が特に中世文化の成立に大きな意義を持った。カール大帝は従来の大文字によるラテン書記法を改革して、カロリング小字体を新たに定めた。この統一された字体を用いて、さまざまな文献を新たにコデックスに書き直され、著述と筆写が活発になされた。書物の形態の変化とともに、書写材料はパピルスから羊皮紙に変化した。
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